利茶土ミルグリムは、1955年にアメリカ・ニューヨークで生まれた陶芸家です。
大学在学中に日本陶器に魅了され、日本文化と陶磁器に触れるため大学の留学サポートを利用し日本を訪れました。この留学の一年間でミルグリムは沖縄を除く46都道府県を回り、100人以上の陶芸家と出会いました。そのうちの何人かに次日本に来る際には弟子にしてほしいとお願いもしていました。
日本の文化に触れたミルグリムは帰国後、大学卒業の際に美術と日本研究の学士号を取得しました。将来のビジョンとして茶陶器づくりに従事したいと考えており、茶道について研究していました。そんな中、日本文化や茶道への高い理解と日本語能力をかわれ、アメリカで行われる「茶の湯展」に参加しました。そこでお茶の世界の最高峰である千宗室と出会います。その出会いはその後の人生を大きく左右するもので、日本に来た際には「会いに来るように」と言われるほど、最高峰から陶芸の道筋を示してもらいました。
その後日本に来日してからは、千宗室の紹介もあり、岩渕重哉・田原陶兵衛・藤原雄・加藤光右衛門といった一流の陶芸家の師事を受けました。各窯で学んだこと、それぞれの土地の土についての理解を深め、1984年に京都に自分の窯を開きます。窯を開く際には、鵬雲斎御家元から「利茶土」と名を付けてもらい利茶土窯が生まれました。「利茶土」という名前は、千家の祖利休から一字もらい「利」、お茶を意味する「茶」、土や粘土から「土」を取って名付けられたのですが、本名に当て字で付けただけなのに運命的な物を感じます。
その後のミルグリムは、作陶づくりに力を注ぎ、独自の作品を作り上げました。その品々は多くの賞を受賞し、2年ごとに行われる日本陶芸展にも周転するなど輝かしい功績を作り上げました。ミルグリムは日本だけでなく、母国アメリカにも窯を開き、「今古窯」という名を千宗室に付けてもらいました。こちらの名前は、窯を開いた地名のコンコードという名前と、ミルグリムの作り上げる新しい発想の今と、茶道という伝統の古を使った意味合いが込められています。
山下甫斎は、1944年、石川県生まれの塗師です。
父の山下清峰より漆芸技法を学び、1978年に2代目山下甫斎を襲名しました。
山下甫斎の作る作品は、造形的な魅力だけでなく、侘びを感じさせるような美しい仕上がりに多くの茶人が魅了されています。
塗師として高い評価を得ていた父の山下清峰より、幼少の頃から塗師としての技術を学び実力を伸ばしていました。
そして驚くべきところは、下地や蒔絵などの技法は独学で習得しており、独自の技法でありながら新しさや古さを感じさせない伝統的な美しさを表現しており、それでいて現代風な作品作りを展開しております。
作品を手掛ける上でのこだわり、飽くなき探求心は作家というより職人と評されるほどであり、展覧会や個展には出品せずに制作活動を行っております。
そんな山下甫斎の代表作は、「雲龍蒔絵大棗」、「波車蒔絵大棗」などです。
今後、骨董業界において注目されていく人物であることは間違いないでしょう。
早川尚古斎とは、江戸時代から現代まで一子相伝で竹工芸技法を伝えた早川家の当主が代々襲名する名です。
初代(1815~)から五代目(~2011)まで続き、五代は要無形文化財「竹工芸」保持者(人間国宝)にもなりました。現在、骨董市場で多くみられるのは昭和から平成にかけて活躍された五代目のものとなります。
五代・早川尚古斎の代表作として挙げられるのは、透文様盛物籃・白竹氷裂編花籃・輪違縁壷式提梁花籃です。中でも透文様盛物籃では「切込透文様」という幅の広い竹材に、部分的に切り込みを入れ、菱形や楕円など複雑な透かし文様を作り出す独自の技法を用いています。
早川家の伝統的な様式をもとに、独自の組技法を加えた五代の作品は、日本海外問わず大きな評価を受けております。
そんな五代目も2011年に肺炎で亡くなり、現在ではその技術は継がれておりません。ですが、骨董市場ではまだまだ名の通った作家さんであり、根強いコレクターからの人気は途絶えておりません。
早川尚古斎の作品で気になるお品物がございましたら、是非一度緑和堂までお問い合わせくださいませ。
金寿堂は、鉄瓶をはじめとした茶道具を手掛けたことで知られる工房です。
明治から昭和にかけて多く流通したとされ、国内だけでなく海外(特にアジア圏)でも人気だそうです。
鉄瓶は鋳鉄で作られた湯沸かし用の器で、茶道や日常の湯沸かしに用いられます。湯がまろやかになるとされ、南部鉄瓶や京鉄瓶など地域によって技法や意匠が異なります。
高品質な鉄を使い、職人がひとつひとつ丁寧に仕上げた金寿堂の鉄瓶は、その耐久性と見た目の美しさから広く愛されました。銅製の蓋や真鍮・銀製の摘みなどが特徴で、蓋裏には「金寿堂造」と刻印が刻まれています。
また、同工房の名人として知られる「雨宮宗」の銘があるものや、装飾性の高いものは特に評価される傾向にあり、作家の銘や付属品、錆び・水漏れ・補修跡の有無などによって価格が変動します。
藤村庸軒は、千利休の孫にあたる千宗旦の直弟子であり、山田宗徧、鈴木普斎、久須見疎安らとともに「宗旦四天王」と呼ばれる茶匠です。表千家の流れをくむ庸軒流の開祖であり、漢詩にも精通した文化人でもあります。
庸軒は表千家久田流の初代・久田宗栄の次男として生まれ、呉服屋の藤村家の養子になったとされています。卓越した美的センスから儒学、漢学、和学に精通する広い教養を持ち、茶道だけでなく、漢詩・和歌・作庭・花道・茶具の製作に才能を発揮した人物です。庸軒には多くの師がおり、茶の湯は薮内紀智・小堀政一・金森重近・千宗旦の下で学んでいます。儒学は三宅亡洋を師としています。
庸軒の最大の功績はやはり、庸軒流の開祖となったことです。庸軒流は後にいくつかの派閥に別れはしましたが、現在においても継承され続けております。
門人には優れた茶人が多く、実の息子である藤村正員や、近藤柳可、比喜多宗積といった茶人たちが現代まで庸軒流を継いできました。
茶具の作成においても名を残しており、庸軒の作成した茶具は高い評価がされています。
後藤瑞巌は明治から昭和にかけての臨済宗の僧です。
岐阜県安八群南にて父・後藤吉左衛門、母・なおの五男として生まれ、小、中、高、大学と進学し、東京帝国大学在学中に鎌倉円覚寺にて参禅し得度(出家)します。
大学卒業後は渡米、そして布教と宗教研究に励みます。帰国後も研究に励み1914年に妙心寺派朝鮮布教監督に就任します。その後は岐阜県園成寺の住職に就任。そして翌年の妙心寺派東海庵住職に就任。その後も臨在宗大学の学長に就任したり、いろんな寺の役職に就きます。
海外の布教に力を注いでいたのも特徴的で大徳寺派管長に推挙されてからすぐシアトルの布教の旅に出ました。大徳寺派管長を退任後は京都にて隠居し余生をそこで過ごしました。
後藤瑞厳は茶の家元千家とのつながりがあり、裏千家15代家元鵬雲斎の名付け親でもあります。鵬雲斎の参禅の師が後藤瑞厳でそのつながりから茶道具の作成なども行うようになります。作成した作品の中には千家の家元のお墨付きをもらった、書付のある作品も残されています。僧として書いた書に千家の書付を記した作品もあり、千家とのつながりが近かったことが伺えます。
後藤瑞厳は僧でありながら確かな技術力を持っており作成した茶道具は確かな評価を得ており、物によっては10万円近い金額にもなる作品を多く残しています。