ベルナール・カトラン

1919年~2004年 フランス・パリ出身の画家になります。1945年パリの国立高等美術工芸学校に入学し、モーリス・ブリアンションに師事し、ムルロー工房へ出入りする様になります。結果、1965年「ムルロー工房の版画」のカタログに有名なシャガール、ピカソ、ミロらと共に採録されることとなります。ヨーロッパだけでなく、ニューヨーク、東京をはじめ各地で個展を開催し東京では吉井画廊で個展を開催。日本にも多くのファンを持っております。カトランの作品には花などの静物が鮮やかな色彩と微妙な色調によって巧みに描き出されており、静かで詩情豊かな世界が表現されているのが特徴で、多くのファンを魅了し続けております。2004年に心臓疾患の為パリ市内の自宅で死去。享年84歳でした。

ベルナール・ビュッフェ

1928年7月10日~1999年10月4日 フランス・パリ出身で、第二次世界大戦後の具象絵画の代表的作家ベルナール・ビュッフエ。工場を経営していた父の元に誕生したが、父が多忙だった為関係は希薄でした。心のよりどころであった母を10代と若い年齢で無くし、孤独感を埋めるべくキャンバスに向かうことが多かったそうです。1943年にパリ国立高等芸術学校に入学し、1948年パリで最も権威のある新人賞・批評家賞を受賞します。この頃からビュッフェはかなり有名で、硬質で鋭く太い針金のような輪郭線とモノトーンに近い色彩を特色とする独自の様式を描き、作風には人物の不安げな表情などとあいまって大戦後の作者の不安で荒涼とした心象風景が表されており、天才画家として評されておりました。女性像のモデルの多くは後の妻・アナベルになります。ビュッフェといえば油彩画が有名ですが、版画も多く製作しております。最愛の妻アナベルと生涯を添い遂げる間でしたが、幼少の頃に経験した孤独感が癒えることがなく、晩年にはパーキンソン病を患い、自ら命を絶ちました。1999年享年71歳でした。

ルネ・ラリック

ルネ・ラリックは、フランスで活躍したガラス工芸作家です。

1860年、フランスはシャンパーニュ地方のマルヌ県アイ村に誕生し、パリで育ちました。1876年にパリの装飾美術学校に入学します。夜は学校で学びながら、宝飾工芸家のルイ・オーコックに師事し、金細工・装飾等の技術を習いました。

1878年~1880年までイギリスに滞在し、サイデナム・カレッジで学びました。再びパリに帰ったラリックは、1882年頃からフリーランスの金細工師・宝飾デザイナーおよびグラフィック・アーティストとして活躍しはじめます。名はすぐに知れ渡り、2,3年ののちにはパリのヴァンドーム広間にアトリエを構えるまでになっていました。この頃のラリックは主に女性向けの高級アクセサリーをデザインしており、カルティエ等に著名な宝飾店にも作品を提供していました。
1900年にはパリ万国博覧会での宝飾作品が大きな注目を集め、さらに名声を集めます。

1892年頃からラリックは、宝飾品の素材の一部にガラスを取り入れていていましたが、本格的なガラス工芸の水戸へと進んだのは、ファッションの流行がボリュームのあるふくよかな服装からシンプルなラインを強調するスタイルに移った為、派手な装飾がある宝飾品が売れなくなったからと言われております。

ラリックは乳白色で半透明のオパルセント・グラスを好んで用い、作品には動物・女性像・花などアール・ヌーヴォー時代に好まれたモチーフが多く見られます。

ラリックの歴史は息子、また孫娘が継承しており、ラリック製の作品は現在まで長く愛されております。

黒木 国昭

黒木国昭は宮崎のガラス工芸家です。
西洋のガラスの中に日本の美を組み入れた色鮮やかな作品は、見る者を虜にします。

黒木は1945年に九州・宮崎で生まれ、高校卒業後はガラス製造会社に勤務していました。1974年に独自のガラス制作を始めます。間もなく国内のガラス作品展へ出品を行うようになり、1984年にガラス工芸家として独立しました。その作品は海外でも評価されるようになり、世界各地で作品展が行われるようになります。また、技術が途絶えていた薩摩切子の復元にも尽力しました。
1991年、その優れた技能が評価され、国の卓越技能者表彰「現代の名工」を受賞します。その後も現在に至るまで世界各地の美術展覧会で、数々の賞を獲得しています。

作品にはいくつかのシリーズがあり、日本伝統の美を再現した「琳派」、浮世絵などの図柄を描く「日本の歴史ロマン」、四季折々の草花や生き物がモチーフの「新世紀ロマン」、洗練された線が刻まれた「綾切子」などが代表的です。

エミール・ガレ

エミール・ガレは、父シャルル・ガレと母ファニー・レーヌメールとの間に1846年フランス北東部のナンシーで生まれます。

両親は陶磁器とガラス器を扱う店舗をナンシーに構えていました。

1858年から1864年までナンシー帝国のにあるリセ(高等中学校)で学び、その後は植物学に没頭、フランスの植物学の権威であるドミニク=アレクサンドル・ゴドロンの指導も受けたこともあります。

1864年にバカロレア(大学入学資格)を取得した後、ドイツに留学し、ドイツ語や鉱物学を学びました。

1870年の普仏戦争では、義勇軍に志願し、南仏トゥーロンなどで宿営もしています。

1877年に父の後を継いで工場管理責任者になります。

その後ナンシー中央園芸会の創立メンバーとなり、事務局長も務めました。

日本をはじめとする極東や東方の文化と美術品に親しみ、それらは紛れもなくガレのジャポニスムや異国趣味的作品の重要な霊感源となります。

ガラス工芸の分野においてアール・ヌーヴォーの旗手として知られ、文学や哲学・植物学などの多岐にわたる研究をもとに、ガラスの造型と意匠にその博識を発揮し19世紀ガラス芸術界を牽引しました。

ロイヤルコペンハーゲン

デンマークの陶磁器メーカーであるロイヤルコペンハーゲン(Royal Copenhagen)は、正式名称「ロイヤル・コペンハーゲン陶器工房」と言います。1775年にデンマーク国王保護のもと創立しました。

絵付けは全て手書きで、製品の裏側にはロイヤルコペンハーゲンのマークとアーティストのサイン、シェーブナンバーが入れられています。

マークは王冠と三本の鮮かなプルーの波型ラインで構成され、波線は、デンマークを囲む3つの海峡を現し、その上に王室御用達を意味する王冠が輝きます。

当初はデンマーク王室に製品を納入する唯一の会社でした。食器類のほか、人形などの置物類も販売しています。

古くから日本の古伊万里染付の影響を強く受けており、手描きによるコバルトブルーの絵柄が特徴的です。1868年から制作されている下絵の手描きのブルーバターン「ブルーフルーテッド」はベストセラーのひとつになります。またブランドの特徴である唐草模様パターンとレース技術は繊細で格調高く、世界中で愛されており、中でも特に日本人の人気を集めています。1908年以来欠ける年なく続いているイヤープレート(クリスマスプレート)も人気商品のひとつです。