長沢 芦雪(ながさわ ろせつ 1754年~1799年)芦雪は江戸時代の絵師です。長澤蘆雪と表記されることもある。円山応挙の高弟で、師とは対照的に大胆な構図、斬新で奇抜な画風を展開した。丹波国篠山にて生まれる。後に芦雪は父のことを、篠山藩から淀藩に出仕した上杉彦右衛門であると述べた資料が残っている。同時代の著名な絵師に比べると履歴を残す資料は少なく、いつ頃応挙の弟子になったのも定かではない。現在見つかっている作品の中で最も早い時期の作品は1778年で芦雪が25歳のとき。このころには応挙の弟子になっていたことがわかる。しかし、落款から応挙入門前と思われる作品も見つかっており、入門前から十分な力量をもっていたと推測されます。芦雪の性格は奔放でそれが快活である一方、傲慢な面もあったと伝えられています。曾我蕭白、伊藤若冲とともに「奇想の画家」や「奇想派」などと言われており、大小の極端な対比や、写実を無視した構図など応挙の作風からは逸脱している。またそのような性格のせいか「応挙に破門された」というような悪評や逸話が多く、芦雪の死も毒殺や自殺などと言われ、事実は定かではない。
骨董品・古美術の作家一覧
ベルナール・ビュッフェ
1928年7月10日~1999年10月4日 フランス・パリ出身で、第二次世界大戦後の具象絵画の代表的作家ベルナール・ビュッフエ。工場を経営していた父の元に誕生したが、父が多忙だった為関係は希薄でした。心のよりどころであった母を10代と若い年齢で無くし、孤独感を埋めるべくキャンバスに向かうことが多かったそうです。1943年にパリ国立高等芸術学校に入学し、1948年パリで最も権威のある新人賞・批評家賞を受賞します。この頃からビュッフェはかなり有名で、硬質で鋭く太い針金のような輪郭線とモノトーンに近い色彩を特色とする独自の様式を描き、作風には人物の不安げな表情などとあいまって大戦後の作者の不安で荒涼とした心象風景が表されており、天才画家として評されておりました。女性像のモデルの多くは後の妻・アナベルになります。ビュッフェといえば油彩画が有名ですが、版画も多く製作しております。最愛の妻アナベルと生涯を添い遂げる間でしたが、幼少の頃に経験した孤独感が癒えることがなく、晩年にはパーキンソン病を患い、自ら命を絶ちました。1999年享年71歳でした。
駒井 源琦
駒井 源琦(こまい げんき 1747年6月12日~1797年9月27日)江戸時代中期の絵師です。姓は駒井、本名は源、名は琦で駒井源琦と表記されることが多い。円山応挙の高弟で、長沢芦雪と共に二哲と評されていました。芦雪は、独自の画法で作品を製作しておりましたが、源琦は対照的に師・応挙の画風を最も忠実に継承した絵師です。特に清楚な唐美人画で知られています。源琦は京都の根付彫り職人の子として生まれます。早くから応挙に学んだと推測されていますが、いつ頃から応挙に師事したかは定かではない。20代での作品は「後三年合戦絵巻」模本と「十二類絵巻」の模写作品しか残っていない。1775年、源琦が29歳の時、「平安人物誌」にて20名載る絵師の一人に選ばれた。この20名に連なるのは応挙、伊藤若冲、池大雅、与謝蕪村、曽我蕭白などで、一流の絵師として認められたときでもある。今日までに伝わる源琦の作品は主に40代以降の作品が大半である。また大作は少なく、小品が多い。画風は先に書いた通り応挙に忠実で、応挙との合作や応挙の模写作品も珍しくはありません。また作品の七割近くに年記を入れており、源琦の真面目な性格がうかがえます。
李 思訓
李 思訓(り しくん 651年~718年)唐時代玄宗朝に仕えた官僚である。画に長じており、子の李昭道とともに北宗画の祖とされています。若いころから芸才に優れており、唐の第3代皇帝の高宗の時に、江都令に就任しました。しかし武則天よって多くの李氏皇族が数多く害に遭ったために、官を捨てて隠れていました。705年、唐が復興したため、中宗により宗正卿に任じられます。書画においての李思訓は「一時の妙」と称され、山水画、樹木画、神仙画は高い評価を受けています。李思訓の山水画は「李将軍山水」として後世に金碧山水画風を代表するものとして有名になった。彼の画風は着色にこだわりが強く、貴族的なものでした。唐第9代皇帝の玄宗の命より、蜀道嘉陵江の山水を大同殿に描いた。李思訓が大同殿に描いた泉からは夜に水がほとばしる音がたっていたとう伝承があります。なお李思訓の子供たちも絵画に優れていた。
岸駒
岸駒(がんく 1749/56年~1839年)岸駒は江戸時代中期から後期の絵師です。出身、出生は諸説ありますが石川県金沢市の説が有力である。幼少期は生活が苦しく、手習いしようにも師につくことができなかった。そのため店の暖簾や看板で字を覚えます。金沢にいたころは矢田四如軒あるいは森蘭斎に絵を習ったと伝わっているが確証はありません。しかし岸駒の画風から蘭斎の画系である南蘋派に学んだことは間違いないとされています。1778年に絵師として名を立てようと上京しますが、父が亡くなり帰郷します。翌年に母を連れて再度上洛します。岸駒はこのころから中国画から学んだことを作品に記し、南蘋派の画法を取り込んだ精密な絵や洋風画を学んでいきました。1782年の「平安人物誌」に初めて名前が記載され、一流絵師の仲間入りを果たします。以降も岸駒が死の年の版まで漏れなく記載されており、京都を代表する絵師であり続けました。
岸駒が得意としていたのは迫力のある虎の絵です。なぜそこまで迫力のある絵が描けたのかというと、岸駒は虎の頭蓋骨を中国の商人から手に入れており、それに虎の頭の皮を被せ、様々な角度から写生しました。また歯の本数や各部分の寸法などを細かく研究した結果、迫力の虎図が完成しました。こうした緻密な努力が誕生の裏にはあったのです。
横山 華山
横山 華山(よこやま かざん 1781年または1784年~1837年)華山は江戸時代後期の絵師です。中国風に「黄華山」と署名している例もあり。出生や出身が諸説あり定かではないが、京都出身とされています。福井藩松平家の藩医の家に生まれます。幼いころは家が貧しく生計を立てるために北野天満宮で砂絵を描いてその日暮らしをしていたといいます。その後、西陣織業を営む横山家の分家にあたる横山惟馨の養子になり、本家横山家が支援していた曾我蕭白に私淑(直接教えを受けることはできないが、模範として学ぶこと)。直接誰かに師事したような形跡はなく、養父の惟馨から学んだと推測されているが定かではない。のちに岸駒に師事することとなり、大作を描き続けます。一般的に絵師は晩年になると筆力が衰えるとされているが、華山は最晩年まで大作を描き続けたという。華山の絵ではほかでは見られない特徴的な墨の使い方をしており、墨を絵具の一種として扱い、墨で書くというよりかは墨で塗るといった新しい感覚を見ることができます。日本の美術史ではあまり有名ではなかったためか、欧米の美術館やコレクターによる収蔵品が多く、ボストン美術館に13点、大英博物館に6点所蔵されている。最近になりようやく日本でも本格的な回顧展が開かれるようになりました。
熊谷 直彦
1829年1月19日~1913年3月8日 熊谷 直彦(くまがい なおひこ)は、日本画家で江戸時代末期から大正時代の京都出身の作家です。1841年に四条派の有力な画家だった岡本茂彦に入門しました。岡本の死後は独学で日本画の …
菊池 契月
1879年11月14日~1955年9月9日 菊池 契月(きくち けいげつ)は、長野県中野市出身の明治後期から昭和中期にかけて活躍した日本画家になります。少年の時から絵を描くことが好きで、13歳の時に南画家の児玉果亭に入門 …
灰外 達夫
1941年~2015年 灰外 達夫(はいそと たつお)は昭和後期~平成時代の木工芸家で、石川県出身の作家。1956年より建具製作を学び、1971年(当時30歳)に建具店を自営で営み始めます。1977年から木工芸の創作を始 …
大坂 弘道
1937年2月20日~2020年9月25日 大坂 弘道(おおさか ひろみち)は日本の木工芸家になり、鳥取県倉吉市出身の重要無形文化財(人間国宝)になります。6番目の木工芸の人間国宝になります。ほとんどの人間国宝の方々は、 …
金山 平三
1883年12月18日~1964年7月15日金山 平三(かねやま へいぞう)は、大正~昭和の時代に活躍した洋画家になります。兵庫県神戸市出身、1905年9月に東京芸術大学の西洋画科本科に入学し、当時主任教授だった黒田清輝 …
西山 翠嶂
西山 翠嶂(にしかま すいしょう)1879年4月2日~1958年3月30日は、大正から昭和にかけて活躍した日本画家になります。京都区伏見区の出身の作家で竹内栖鳳に日本画を学んだ経歴があります。1894年から各展覧会や博覧 …
木村 清五郎
木村 清五郎(きむら せいごろう)1949年~現在 新潟出身の金工師になります。本名は文蔵。初代は実の父親になり、父に師事して技術を学びました。父の影響で幼い頃から金工に親しんで育ちました。茶道具と言えば、掛軸や香合等に …
寺崎 広業
寺崎 広業(てらさき こうぎょう)1866年4月10日~1919年2月21日 秋田に誕生した寺崎は、幼少の頃父の職業が失敗し祖母によって育てられました。幼い頃から絵を描くことが好きで、その時から優れていたといいます。高校 …
石井 康治
石井 康治(いしい こうじ 1946年-1996年)千葉県出身のガラス工芸家です。日本のガラスアートの先駆者として活躍した方で、1991年に製作の拠点を青森に開設。青森の厳しく雄大な自然に触れ、変わりゆく季節の美しさや情 …
ルイ・イカール
アールデコ時代に活躍したフランスの画家、ルイ・イカ―ル(1888年~1950年)。 アールデコとは1910年~1930年代にパリを中心として栄えた装飾様式のこと指します。 アールデコと比較されるものとしてアールヌーヴォー …
田中 訥言
田中 訥言(たなか とつげん 1767年-1823年)江戸時代後期の絵師です。復古大和絵の祖として知られています。門下には幕末の大和絵師の宇喜多一蕙や尾張国出身の復古大和絵画家の渡辺清などがおります。訥言自身は尾張国名古 …
トーマス・マックナイト
トーマス・マックナイトは、アメリカはカンザス州ローレンス生まれの画家です。 マックナイトはコネチカット州ミルドタウンのウィズリアン大学に通い、芸術を専攻したわずか5人の内のひとりでした。大学を卒業後はコロンビア大学で美術 …
小原 治五右衛門
小原治五右衛門は「城端蒔絵」を代々継承している漆芸家です。 城端蒔絵(じょうはなまきえ)とは白色をはじめとする鮮明な中間色を表すことができるのが特徴としてあり、花鳥文様などをそのままの色調で表すことができる技法です。「加 …
呉 昌碩
1844年9月12日~1927年11月29日 呉 昌碩(ごしょうせき)は、中国の清朝末期から近代にかけて活躍した画家、書画、篆刻家になり清の時代最後の文人といわれております。詩、書、画、篆刻ともに精通し「四絶」と称賛され …
耀州窯
中国陜西省耀県銅川市に位置する中国古代の有名な窯場の中でも北方青磁を代表とする窯として有名なのは耀州窯でしょう。 青瓷のみならず白釉、黒釉、褐釉、醤釉、黄釉、唐三彩や花釉磁器も製作していたことから中国古代の北方の窯で製作 …
西郷 孤月
西郷 孤月(さいごう こげつ 1873年-1912年)は明治時代に活躍した日本画家です。日本美術院の創設者のひとりでもあります。筑摩県筑摩郡松本深志町(現在の長野県松本市)に生まれる。1886年に小石川餌差町の私立知神学 …
南 桂子
南 桂子(みなみ けいこ 1911年2月12日-2004年12月1日)富山県射水郡出身の版画家です。詩的な作品が特徴的な画家です。南は生まれてすぐに母親を亡くしており、12歳の頃には父親が急死したために若くして親族によっ …
谷 文晁
谷 文晁(たに ぶんちょう 1763年10月15日-1841年1月6日)は、江戸時代後期の南画家です。文晁の祖父は民政家、父は漢詩人として名をしられていました。このような環境で育った文晁は文才を持ち合わせ、漢詩が「五山堂 …
青木 龍山
1926年8月18日~2008年4月23日 青木 龍山(あおき りゅうざん)は、日本の陶芸家になります。佐賀県西松郡有田町の佐賀県立有田工業学校を卒業後、神奈川県にある、縫製大学第二高等学校および法制大学女子高等学校の美 …






