西山 翠嶂(にしかま すいしょう)1879年4月2日~1958年3月30日は、大正から昭和にかけて活躍した日本画家になります。京都区伏見区の出身の作家で竹内栖鳳に日本画を学んだ経歴があります。1894年から各展覧会や博覧会で入賞を重ね、同門の西村五雲、橋本関雪とともに栖鳳門下として名を馳せました。努力家でもあり京都市美術工芸学校へも入学し日本画の更なる研鑽に励みました。後に翠嶂は竹内栖鳳の女婿となります。その後、文展、帝展に作品を出品し受賞を重ね1929年には抵抗美術院会員に推薦されるようになり、1937年に帝展が改組された後は帝国芸術院会員を勤めるとともに新文展審査員の職責を果たしました。竹内栖鳳の死後1944年に帝室技芸員に任命され、日本画壇の長老として重んじられました。70代になっても製作を続け、栖鳳の画風を継承した翠嶂の作域は人物、花鳥、動物、風景等に及ぶがその中でも得意としたのが、京都出身ならではの円山派や四条派を範とした人物、動物画になります。翠嶂は、後進の育成にも励み、母校の都市立絵画専門学校で教授および校長を務め、1921年頃自身の画塾「青甲社」を設立し技法を指導しました。輩出者には堂本印象、中村大三郎、上村松篁、森守明等の多くの門弟がおります。晩年には日展運営会理事、芸術院会員選考委員を務め日本美術界の発展に尽力しました。これらの功績により1957年に文化勲章を受章しました。1958年に心筋梗塞により京都市東山区の自宅で死処しました。
木村 清五郎(きむら せいごろう)1949年~現在 新潟出身の金工師になります。本名は文蔵。初代は実の父親になり、父に師事して技術を学びました。父の影響で幼い頃から金工に親しんで育ちました。茶道具と言えば、掛軸や香合等に注目されがちですが、茶席を設ける際の水注、釣釜用具、灰匙、火箸等も立派な茶道具の一つになります。木村清五郎は、細かい細部までも気にかけ製作をしており、シンプルな造形と控えめな文様が特徴的で、象嵌等非常に手のかかる技法も用いている作品もあります。1992年に2代木村清五郎を襲名してからも新製品を次々製作しており、南鐐製品の際は「清雲」の号も襲名しており、2種類の号が使用されております。
寺崎 広業(てらさき こうぎょう)1866年4月10日~1919年2月21日 秋田に誕生した寺崎は、幼少の頃父の職業が失敗し祖母によって育てられました。幼い頃から絵を描くことが好きで、その時から優れていたといいます。高校を中退後、素麺業を行いつつ、秋田医学校にも入学したが学費が続かず退学。好きな絵の道へ戻り16歳で手形谷地町の秋田藩御用達絵師だった狩野派の小室秀俊に入門、鹿角に至った時戸村郡長の配慮で登記所雇書記になり、生活はようやく安定したが絵に対する気持ちは少しも変わらなかった。寺崎は、再度放浪の旅へ出て足尾銅山で赴いて阿仁鉱山で知り合った守田兵蔵と再会し、紹介された旅館にお世話になり美人画を書きその絵で名を上げました。その後結婚し初の門下生稲田吾山を迎え入れ1898年に東京美術学校の助教授になった。校長の岡倉天心斥運動がおこり、天心派の広業は美校をやめた。岡倉と橋本雅邦は日本美術院を興し、橋本の門下の横山大観、下村観山らと広業もこれに参加した。1904年の日露戦争の従軍画家となり、そこで経た経験を生かして木版画による、戦争絵、美人画、花鳥画を多く描いております。1912年に文展に出品した「瀟湘八景」が同名の大観の作品とならび評判作となりました。その後、1913年美術学校の日本画主任、1917年に帝室技芸員を命ぜられ、芸術家として斯界の最上段に立つ様になったが病気を患い、1919年54歳でこの世を去りました。
石井 康治(いしい こうじ 1946年-1996年)千葉県出身のガラス工芸家です。日本のガラスアートの先駆者として活躍した方で、1991年に製作の拠点を青森に開設。青森の厳しく雄大な自然に触れ、変わりゆく季節の美しさや情景を、日本の繊細な心情を詩のごとく表現し、一瞬の美しさをガラスに描き出しました。石井康治が残したガラス作品は色彩の独特な感性が美しく、見ているだけでも穏やかな気持ちにしてくれます。死後の作品は今もなお、美しく瑞々しく輝いて世の人々を魅了しております。技法も独自のものを造りあげ、特に色彩は独特な感性を漂わせており、見るものの心を爽やかに且清らかにしてくれるような作品となっております。
アールデコ時代に活躍したフランスの画家、ルイ・イカ―ル(1888年~1950年)。
アールデコとは1910年~1930年代にパリを中心として栄えた装飾様式のこと指します。
アールデコと比較されるものとしてアールヌーヴォーがあります。
アールヌーヴォーは19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパで流行した美術様式です。
植物や昆虫といった有機物をモチーフが多く自然な曲線や局面を用いた美術様式で、ジャポニズムも取り込んでヨーロッパを席巻しましたが、第一次世界大戦後はその装飾性の高さから大量生産に向かず、廃れてしまいます。
その後を引き継ぐように、アールデコが登場します。
アールデコはシンプルで合理的な幾何学模様をはじめとした、直線的、記号的な表現が特徴です。
大量生産と美術が組み合わさったアールデコという時代において、ルイ・イカールは多くの銅版画作品を残しました。
ルイ・イカ―ルは華やかな女性たちを繊細なタッチで表現します。そして第一次世界大戦を生き抜いた彼自身の戦争観を元にエッチング作品を多く生み出しました。
ルイ・イカ―ルの描く作品は、妖艶な魅力を放つ女性が多く、植物を添えて季節観表したり、動物と戯れる様を描いたり、女性の柔らかな体を煙草の煙で表現しておりました。
これは生涯「女性」をテーマにしたルイ・イカ―ルならではの特徴であり、現在も多くの人々を魅了していることは間違いないでしょう。
田中 訥言(たなか とつげん 1767年-1823年)江戸時代後期の絵師です。復古大和絵の祖として知られています。門下には幕末の大和絵師の宇喜多一蕙や尾張国出身の復古大和絵画家の渡辺清などがおります。訥言自身は尾張国名古屋の出身で、幼いころに日蓮宗の寺に入門、のちに比叡山延暦寺で天台宗を修めます。画は狩野派一派である石田幽汀に学び、石田幽汀の死後は土佐派の土佐光貞の門に入ります。土佐派の中で訥言の評価は高く、22歳の時には法橋位を得ています。訥言は有職故実に精通しており、当時の形式的な画風よりも大和絵の復刻を目指し古絵巻を熱心に模写、のちに復古大和絵の祖として知られるようになりました。眼病を患っており医療費のために画会を開いた考えられていて、視力を失った際に舌を噛んで命を絶ったといい伝えれています。現在確認されている作品は300点以上。著名な門人の作品には訥言に倣ったと思われるようなものが複数残っており、訥言の影響力の大きさを見ることができます。