数々の伝統技法を復活させ、指物工芸の技術を現代に受け継いだ木工芸家・氷見晃堂。その実力から木工芸で2番目の人間国宝に認定された人物です。
氷見晃堂は1906年、石川県の金沢に生まれました。実家は商家でしたが、祖父と父の教えから職人の道へ進むことになります。初めに指物師・北島伊三郎、続いて木工家・池田作美に師事し、指物技術と木工のデザインを学びました。1926年には石川県工芸奨励会美術工芸展にて準会員に推薦されます。2年後には同会の正会員になっています。
晃堂の名が全国に広まったのは戦後になってからでした。第2回日展での入選をきっかけに、11回の入選。昭和30年から日本伝統工芸展で18回入選など、その功績は非常に大きく、間もなく1969年に石川県の指定無形文化財技術保持者に、そしてその翌年に国の重要無形文化財技術保持者(人間国宝)に認定されました。
江戸期を最後に途絶えていた「砂磨き法」と呼ばれる技法や木象嵌を復活させるなど、伝統的な加賀指物を現代に甦らせた他、独自の装飾法「金銀線縮れ象嵌」を考案するなど、その技術・技法は戦後木工芸界の発展に大きく貢献をするものとなりました。
日本近代文学史を語る上で欠かせない詩人・高村光太郎。詩集『道程』や『智恵子抄』などの作品が有名ですが、その一方で父である高村光雲に続き、自身も彫刻家として活躍しました。
高村光太郎は1883年、高村光雲の長男として生まれました。1897年には東京美術学校に入学し、彫刻科と西洋画科で学びました。1906年より欧米に留学、ニューヨーク滞在中には、ラシュモア山の4大統領像の作者であるガットスン・ボーグラムの助手を務めています。帰国後の1912年には岸田劉生と共にヒュウザン会を結成。油絵からブロンズ像、木彫など様々な作品を制作しました。1914年には『道程』を出版。さらに『智恵子抄』のモデルとなる長沼智恵子と結婚しています。
1942年、第一回帝国芸術院賞を受賞しますが、空襲でアトリエが全焼し、作品の多くが失われました。戦後は戦争賛美の詩を制作した反省から、疎開先の岩手県花巻市に小さな小屋を建て質素な生活を送ります。1952年に東京へ戻り、十和田湖に設置する彫像を制作し、その後は東京・中野に構えたアトリエで晩年を過ごしました。
「夢二式美人画」と呼ばれる特徴的なスタイルの美人画。大正ロマンの象徴としてあげられる情感あふれるその作品は、多くの日本人を魅了しました。
夢二は1884年岡山県に生まれます。18歳の頃上京し、間もなく新聞や雑誌のコマ絵などで生活をたてるようになりました。最初の妻、たまきとの生活の中で生み出された夢二独自の美人画は、書籍の表紙や挿絵、広告などで大衆の間で人気となります。中央の画壇には最後まで属さず、生活や産業と結びついた商業美術の概念を作り上げた先駆者ともいえる彼の存在は、現在のイラストレーター・グラフィックデザイナーの始祖といえるのかもしれません。
画壇には属しませんでしたが、洋画家・岡田三郎助や画家・有島生馬との交流を持っていたほか、欧州の美術界の動向にも敏感で、常に情報収集を行い、自身の作品にもその成果を反映させています。
また、1914年には日本橋呉服町に自身の店「港屋絵草紙店」を開店。夢二がデザインした小物などは、当時の若い女性たちに大人気となりました。
夢二の作品は非常に多岐にわたり、書籍の表紙絵や挿絵の他、日本画様式の掛軸、油彩による人物や風景画、といった芸術作品。雑貨や浴衣のデザインなども手掛けています。また、作家としても活動し、詩や童話、歌謡の作詞なども行いました。
真葛(宮川)香斎は江戸時代から続く京焼の窯元で、当代が六代目となります。
真葛焼の歴史は江戸時代、祐閑宮川小兵衛政一が貞亨年間(1684-1687)に京都・知恩院前に住居を構え、陶芸を生業としたことに始まります。
小兵衛政一の子である治兵衛・長兵衛の兄弟は、のちに京都真葛(治兵衛)・横浜真葛(長兵衛)へと別れました。京都真葛はやがて香斎を、横浜真葛は香山を名乗りはじめ、現在はその名で受け継がれております。
真葛焼の特徴としては仁清写し、乾山写しなどで用いる上絵、染付、鉄絵などの下絵や交趾、金欄手などの伝統的な京焼の技法を網羅しており、それとあわせて真葛焼の祖である宮川長造が得意としたワラ灰釉を代々使用していることが挙げられます。
写しとは京焼の特徴であり、朝鮮や中国の焼物を写して制作していたことから始まっております。単なるコピーではなく、作風それぞれの特徴と写す人の創造性を併せ持つという点に魅力があります。
時代に沿った焼き物を制作してきた宮川家の姿勢は現代にも受け継がれており、多くの人を魅了しております。
山本陶秀は「備前焼」で国の重要無形文化財(人間国宝)に認定された人物で「茶器の陶秀」といった別名を持っているほど、茶器では備前焼の中でも山本陶秀の作品が完成度が高い人物として有名です。
1906年に岡山県備前市伊部で生まれた山本陶秀は、15歳の時に当時の窯元で有名であった黄薇堂に弟子入りをし、陶芸の道に進んでいきます。弟子入りをした際にはすでに才能が開花しており入門してすぐに轆轤を使用して湯呑みを作陶したといった逸話が残っているほどです。その後は京都にて楠部弥弐に師事をします。
1955年には日本工芸会正会員となり、日本伝統工芸展に花入れを出展し初入選を果たしてから、数々の賞を受賞していくことになり、1959年にはブリュッセル万国博覧会にて金賞を受賞する等、国内外に渡ってその作品は高い評価を得るようになりました。そして1987年には「備前焼」にて国の重要無形文化財(人間国宝)に認定されます。
その作品は今でも多くの方を魅了しており、端正ですが気品を感じさせる芸術的なその作風は茶人好みで高く評価され、轆轤による成形技術の高さも山本陶秀を語る上で欠かせないものとなるでしょう。
井上有一は現代書家として世界で高い評価を受けた人物です。それまで美術界で目を向けられたいなかった「書」を、表現物、アート作品のジャンルの一つとして確立させたその功績は、日本現代美術界において非常に重要なものといえます。
井上は、1916年東京に生まれました。青山師範学校卒業後、都内の尋常小学校で教員として働く傍ら、書家・上田桑鶴に師事し、書を学びます。戦争が始まると、空襲で命の危機に陥ったこともありますが、辛くも生き延び、この体験が後の作品制作にも影響を与えます。
1952年、井上は他の桑鶴の弟子と共に書道家団体「墨人会」を結成し、伝統にとらわれない書の追求に取り組むようになります。間もなく世界各地で書道展を開き、作品を出品するようになります。
1957年、サンパウロ・ビエンナーレに『愚徹』を出品。美術評論家 ハーバート・リードの目に留まり、彼の著作で世界的に紹介されました。その後も世界各地の展覧会に出品し、注目を集めています。
1976年、神奈川県の小学校校長を最後に教壇から去り、以後は制作に専念します。1985年に死去し、翌年京都国立近代美術館に62点の作品が収蔵されました。その後も日本、そして世界各地で回顧展が開催されています。