北大路魯山人(本名・房次郎)は波乱万丈の人生と、その多才な才能を生かした作品が知られる人物です。作品は篆刻や陶芸、絵、書、漆芸など多岐に渡る他、美食家としても有名です。
魯山人は1883年に京都に生まれますが、生まれる前に父が自殺。母も間もなく失踪し、その後は養家が次々変わるなど、厳しい家庭環境にありました。この環境は6歳の頃ようやく落ち着き、京都の木版師の元で生活する事になりました。小学校卒業後は丁稚奉公となりますが、この時竹内栖鳳の絵を目にし、関心を持ちます。しかし画学校への進学は叶わず、養父の家業を手伝うこととなりました。木版技術を身につける一方で、書道の才能も開花し、書道展にて賞を取る程の腕前をみせました。
1903年、実母に会う為に東京へ赴き、そのまま東京に残ることを選びます。1905年には岡本太郎の祖父、岡本可亭に入門しますが2年後には独立しました。1910年、朝鮮を旅しつつ、朝鮮総督府で職を得て大陸で暮らし、現地の有名書道家などとも面会しました。日本に帰国後は福田大観の名で制作に打ち込み、絵や篆刻などの作品を残しました。また、竹内栖鳳の知己を得たことで、日本画の巨匠達とも接点を持ちます。1916年、実家の家督を継ぎ北大路姓となりました。さらに料理にも関心が高まり、会員制の「美食倶楽部」を発足、自作の食器に自らの手料理を振舞いました。
1927年、魯山人窯芸研究所を設立、荒川豊蔵を招き本格的な作陶を開始します。百貨店での作品展は好評を博し、戦後は外国人からも人気となりました。1954年には海外で展覧会も行っています。
性格は気難しかったようですが、その技量と優れた芸術的感覚から生み出される作品は多くの人々に愛されました。
現代能面師の代表的な人物である堀安右衛門。制作作品は主に中世の古面写しなどで、その技量の高さから古面の修理なども行っています。
初代堀安右衛門(本名・博之)は京都・福知山の生まれで、1953年頃より謡曲や狂言を習い始めました、一方で当時から狂言面の修理など行っていたようです。間もなく、当時の能面制作の第一人者・北沢耕雲に師事し、能面技法の基礎を学んでいます。1958年に能面師として独立を果たし、以後は能面修理と古面写しの制作に取り組みました。
現在は二代目堀安右衛門(本名・佐和子)によって、観世流や宝生流の舞台用の面が作られています。また、NHKの能解説番組への出演や、能関連書籍・写真集の発行にも積極的で、能文化を広める活動にも取り組んでいます。
「柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺」奈良・法隆寺の秋を詠った有名な俳句、この一句を詠んだのが俳人・正岡子規です。
子規は1867年に、伊予国(現愛媛県松山市)で松山藩士の長男として生まれました。幼い頃から漢詩や書画を好んだ他、友人と政治論争も交わすなど、様々な物事に興味を持っていたようです。
地元松山の旧制中学を中退後上京し、1890年には帝大(東大)の哲学科に入学します。間もなく哲学から文学に興味が移り、翌年には国文科に転向しました。この頃から俳句の制作を開始します。大学は結局中退してしまいますが、親族の紹介で新聞社に入社し、自らの俳句や短歌を載せた記事を執筆しています。記者としても活動し、日清戦争の際は従軍記者として大陸へ渡りました。しかし、この帰路で大量の喀血をしてしまいます。これ以降体調の悪化が進み、晩年は寝たきりの状態で痛みに耐えながら俳句を作ったり、弟子の指導をしていました。
緑和堂では子規直筆の短冊、書簡、葉書などをお買取り致します。お気軽にご相談ください。
川瀬表完は、江戸時代末期に京塗師であった初代・木村表斎を祖先に持ち、その技法を代々受け継いできた京塗師で、当代が川瀬表完を名乗ります。現在は三代目となります。
川瀬家は初代の千太郎から始まり、二代が繁太郎、三代が厚、四代が正と続いておりますが、表完と名乗るのが二代目の繁太郎からであったので、繁太郎が初代表完となり、現在の川瀬表完(正)は三代目となっております。
室町時代から全国漆器産業の中心地として栄えていた京都で作られる京漆器は、日本の中でも特に有名な工芸品一つとして知られております。様々なところで作られる漆器ですが、京都で作られる漆器は素材にもこだわっており、薄い木地を使って特徴的な蒔絵や螺鈿などの細工を施したり、優美で伝統や品位が感じられる作品を作る為、古くには王朝貴族の祭祀装飾品や大名の贈答品などにも使われていたそうです。
川瀬表完の作品は、茶道具を中心に培ってきた技法だけでなく現代感覚に合わせていること、さらにわびさびを取り入れた作品となっている為、茶人の間でも人気が高くなっています。
木庵性瑫は、1655年に明から日本へと渡った黄檗宗の僧侶です。
1611年に現在の中国福建省で生まれ、16歳のころ出家しました。その後は大陸各地を巡りつつ修行を行い、1648年、黄檗山にて隠元隆琦に学びます。
1655年、日本に渡っていた隠元の招きに応じ来日、各地の寺院に滞在した後、宇治の黄檗山萬福寺へと入ります。1664年隠元の後を継ぐ形で萬福寺の法席につき、翌年には江戸を訪れ、4代将軍・徳川家綱と面会しています。1680年、法席を次代に譲り隠居し、4年後亡くなりました。
日本を訪れてから多くの弟子を育て、10以上の寺院を設立するなど、黄檗宗の布教に努めています。
また能書家としての評価も高く、隠元や即非如一とともに黄檗三筆と称されています。
寛永の三筆、近衛信尹・本阿弥光悦と並ぶ能書家、松花堂昭乗。書だけでなく絵画・茶道にも秀でた文化人です。
1582年、和泉国堺に生まれ、1593年には同じ三筆の一人、公卿・近衛信尹に仕えました。1598年に出家し石清水八幡宮の瀧本坊実乗のもとで密教を学んでいます。1624年には徳川将軍家の書道師範として江戸を訪れています。1627年、師・実乗の死後は瀧本坊の住職となりました。1637年、瀧本坊が火災で失われたことをきっかけに、住職の職を弟子に譲り、草庵「松花堂」へ移りました。
徳川将軍家との関わりも深く、江戸幕府にとっても重要な人物でした。