田川憲は1906年に長崎県長崎市に生まれ、生涯にわたり愛する長崎の歴史ある街並みや風景を描き続け、数々の作品を世に残しました。
彼の作品の特徴は、卓越した繊細な線画と色使いの技術によって表現された街並みや風景です。そのような絵を描き続けた背景には、多くの外国人が行き交った居留地時代の面影が残る長崎の景観、それを大事に守り、後世に伝えたいという強い想いがありました。
戦後、彼は洋館や居留地の景観保存を強く望んでいましたが、健闘及ばず、それら多くの建物が時代と共に失われていきました。
そこで、消えゆく居留地の景色を「版画として世に残す」ことを使命とし、彼の情熱は自身の作品へと注ぎ込まれます。そのため、晩年の作品は特に、古き良き時代を過ごした長崎への深い愛情が色濃く反映されています。
歴史ある景観を版画として残すことはもちろん、彼自身の想いが込められた作品は現在においてもなお、色あせることなく長崎から日本中の人々へと愛され続けています。
愛知文明(あいち ふみあき)は、1922年に岐阜県で生まれ、75歳の1997年に縄文文化を再現することをテーマとした『形象埴(けいしょうはに)』の制作により、岐阜県瑞浪市から無形文化財に認定された物故作家です。
愛知文明氏は、1922年に岐阜県瑞浪市稲津町萩原で生まれ、1971年に『形象埴』の制作を開始しました。『形象埴』とは、縄文時代や弥生時代の人物や動物、住居などを再現した作品であり、愛知文明氏がテーマとして掲げていました。
1997年に岐阜県瑞浪市から『形象埴』で無形文化財に認定された後は、愛知県名古屋市のデパートで年に2回個展を開催していました。また、全国各地でも個展を開いていましたが、2007年に逝去しました。
『形象埴』の中でも、30㎝を超える縄文・弥生時代の人物像は特に評価が高いです。その中でも人物の衣装部分のみに釉薬を施し、髪や肌を表す部分は素焼きで仕上げ、胎土を使い分けた作品はより高く評価されています。
奥磯栄麓は、1930年に京都で画家の両親のもとに生まれました。
28歳まで洋画家を目指していましたが、桃山時代の陶器と出会い、1960年に岐阜県久々利で窯を開きました。
栄麓は考古学の研究も行い、戦国・桃山時代の陶磁器に関する「極め」にも取り組みました。「極め」とは、鑑定書のような役割を果たす箱書きや書のことであり、考古学の知識を活かした活動の一環といえます。
さらに、愛知県春日井市出身の陶芸家・加藤唐九郎の愛弟子としても知られています。加藤唐九郎もまた、桃山時代の陶磁器を研究していた人物です。
栄麓の作品には、志野焼や鼠志野が多く、徳利やぐい呑みのほか、酒器や茶碗なども見られます。東海地方で活動していたため、黄瀬戸、瀬戸黒、織部などの作品も手掛けていますが、代表的な作品は志野焼です。
特に評価が高い作品の特徴として、志野焼の中でも器肌に紅い溶岩のような模様が入っているものが挙げられます。また、1987年に亡くなる直前の晩年作は希少性が高く、特に高い評価を受けています。
卯野和宏氏は1978年に茨城県で生まれ、2004年に武蔵野美術大学大学院を修了しました。現在は東京都を中心に、個展の開催やデッサン講師として活動する現代美術作家です。
卯野氏の作品の特徴の一つとして、高画素数のカメラで撮影したかのような極めて繊細な描写と、絵画ならではの表現が見事に融合している点が挙げられます。髪の一本一本や動物の毛の質感はもちろん、人物の陰影に至るまで非常に美しく描かれており、初めて作品を目にしたときには、思わず至近距離で観察してしまうほどの魅力があります。
現在、SNSでは制作過程の様子や開催される個展・展覧会の情報が発信されており、作家としての思いや考え方を垣間見ることができます。理論的に計算された構図や色彩についての興味深い記事も多く、作品制作に対する深い洞察がうかがえます。
卯野氏の作品が高く評価される理由の一つとして、その希少性が挙げられます。現在も活動中の作家であるため、市場に出回る作品が少なく、作品数が限られていることから希少価値が高まっています。また、作品の魅力が非常に高いため、一度手に入れたら手放したくないと考えるコレクターが多いことも、希少性をさらに高める要因となっています。
宮川長春は江戸時代中期に活躍した浮世絵師です。
「宮川派の創始者」として知られている長春は肉筆画を専門とし、生涯を通じて版画を制作しなかったそうです。また、作品に年記を記すことがあまりなく、描かれた作品の制作時期を知ることは難しくなっています。
長春は多様な流派の技法から影響を受け、独自の画風を確立しました。彼の作品の多くは遊郭の女性たちを題材としており、なめらかな描線と丁寧な彩色が特徴です。当時の遊女や遊里の風景、庶民の風俗などを生き生きと表現しています。
1750年頃、狩野春賀の依頼で日光東照宮の彩色修理を手伝った際、報酬が支払われず、長春が抗議に訪れたところ暴行されるという事件が起こりました。これを知った長春の息子と門弟たちが憤慨し、春賀宅を夜襲。春賀を殺害したほか、その家人数名を殺傷しました。この事件により双方処罰を受けることとなり、宮川派は解体されました。
長春の作品は、現在も国内外の美術館などで所蔵され、その繊細な画風は高く評価されています。
代表作には『風俗図巻』『蚊帳の中喫煙美人図』『社頭春遊図』などがあります。
建窯(けんよう)は、中国福建省南平市建陽区水吉鎮付近にあった宋代の名窯です。
特に黒釉の茶盞「建盞」の生産で知られ、兎毫盞、油滴盞、曜変盞など、多彩な釉薬効果を持つ作品が生み出されました。これらは日本に伝わった際に「天目茶碗」と呼ばれ、珍重されました。
宋代には、皇室や貴族の間で「闘茶」という茶の品質を競う遊びが流行し、白い茶の泡を際立たせるために黒釉の茶盞が重宝されました。
近年では、建盞の製作技術が復興され、その独特の美しさが再評価されています。
天目茶碗の価値を決める重要な要素の一つに、「模様の美しさ」があります。黒釉のシンプルなものに比べ、禾目(のぎもく)、玳瑁(たいまい)、油滴、曜変といった模様が施された作品のほうが、より高く評価される傾向にあります。しかし、近年に安価で大量生産された、ギラギラと輝く天目茶碗は評価の落ち着く傾向にあります。