羽田裕は1939年生まれ、神奈川県横須賀市出身の洋画家です。
1965年に東京芸術大学大学院を修了しました。その後、1974年まで同大学の非常勤講師を務めました。ローマ留学を経て、イタリアの風景をはじめとした写実的な風景画を手がけるリアリズム風景画家として知られています。彼の作品は、千葉県千葉市にある写実絵画専門の美術館「ホキ美術館」に所蔵されるなど、高い評価を得ています。
羽田氏の作品は、イタリアの風景画や宮殿、古城、教会など、特にローマ近郊の風景を題材にしたものが特徴的です。また、日本を題材とした作品では、富士山を描いたものがよく知られています。いずれの作品も写実的かつ繊細で、特にローマ近郊の城や教会を描いた作品では、自然風景の中に神秘的な建造物が調和して描かれています。
羽田氏の作品の中でも高い評価を受けるものには、日の出や夕暮れの時間帯を背景とした作品が多い傾向にあります。その写実的で明瞭な描写が特に高く評価されています。また、題材についても、日本の富士山とローマ近郊の風景のどちらも広く支持を集めています。
今回は表千家八代 件翁宗左 卒琢斎についてご紹介致します。
卒琢斎は表千家七代 天然宗左 如心斎の長男として生まれます。
功績としては、天明の大火から家元を復興させたことや、その後に利休二百年忌の茶事を執り行ったことが挙げられます。
卒琢斎は8歳という幼い齢で父如心斎と死別することになります。しかし、後見を受けた川上不白らの援助や、叔父の裏千家八代 又玄斎に師事することで、茶人として成長していきます。
14歳の頃に表千家を継承し、歴代と同じく、紀州徳川家の茶頭を勤めることになります。同年、卒琢斎は千宗旦百年忌の茶事を見事に成功させました。
彼は50年以上も代継ぎをした、歴代でも特に長い宗匠にあたります。
1788年、京都を襲った大規模な火災である天明の大火が起こります。
表千家の施設も天明の大火によって焼失したと言われており、伝来道具を除く、茶室や道具類の多くが被害に遭いました。
また、卒琢斎自身の資料もその際に失われており、火災が起こる前のおよそ30年間の活動履歴は残っておりません。
しかし卒琢斎は、父如心斎が確立させた家元制度のおかげもあり、多くの人から協力を得て火災から一年での復興を果たしました。
復興の後、すぐさま利休二百年忌の茶事を盛大に執り行い、災害の余波をものともせず精力的に活動していきます。
また他にも、宗旦百五十年忌や如心斎五十年忌を行うなど、長い間家元ととして活動してきたからこそ大きな催しに多く携わることとなりました。
60歳で家督を婿養子である九代 了々斎へと譲り、自身は隠居します。
その際、宗旦という三代と同じ名を名乗ります。この時から、表千家では隠居後に宗旦と名乗ることが慣例となったそうです。
卒琢斎の好み物としては、啐啄斎手造の赤樂の茶碗「慈童」が残されています。他には、溜真塗丸卓や丸香台、利休や宗旦がかつて好んだ造りの茶室が挙げられます。
須田菁華は、現代まで続く九谷焼の陶工です。
初代須田菁華は1862年、石川県金沢市に生まれました。
九谷本窯の流れを汲む九谷陶器会社の画工長を経て、1906年、石川県加賀市山代温泉に菁華窯を築きました。染付を始めとして祥瑞・呉須赤絵、古九谷などの彷古品に優れ、その作品は多岐に渡ります。
1915年には、「金沢最後の文人」と称された細野燕台に連れられ、まだ無名だった当時33歳の北大路魯山人が菁華窯に訪れており、彼が陶芸の道へ進むきっかけを与えました。
現在は1981年より四代目・須田菁華が名を襲名しており、明治時代から蹴ろくろ・登り窯を用いた作陶を続けています。登り窯は数日間薪を焚き続ける性質上、大量の煙が出てしまい環境に悪影響を及ぼしかねないことが現代においてはネックでしたが、菁華窯では煙を出さない現代の技術を使用することで古来より続く手仕事の技法を守り続けることが可能となっています。
武野紹鴎は、戦国時代の堺を拠点とした豪商であり、茶人として侘び茶の発展に大きく寄与しました。
彼は千利休の師としても知られ、茶道史において重要な位置を占める人物です。
紹鴎は、若狭国守護武田氏の一族の出身で、父とともに堺に移住しました。幼名を松菊丸、通称を新五郎といい、堺の商人として活動する一方で、茶の湯の探求に没頭しました。
京都で三条西実隆に和歌や連歌を学び、その後、南宗寺の禅僧・大林宗套に参禅することで、禅の精神を茶の湯に取り入れました。
紹鴎は、村田珠光が確立した侘び茶を継承しつつ、茶室の小型化を進めるなどの革新を行いました。従来の豪華絢爛な茶室から、2畳や3畳の小間の茶室を考案し、親密で落ち着いた空間を重視する侘び茶の新しいスタイルを確立しました。また、竹を素材とした茶杓や水指、蓋置などを自ら制作し、簡素で清らかな美意識を体現しました。
紹鴎の教えは、千利休をはじめとする弟子たちに受け継がれ、茶道の発展に大きな影響を与えました。特に千利休は、紹鴎の美意識をさらに深化させ、茶の湯を精神的な境地へと高めました。
晩年、紹鴎は京都四条に草庵「大黒庵」を設け、茶事に専念しました。彼の所有していた道具や茶室の設計、茶事の形式は後世の茶道に多大な影響を与え、今日でもその功績は高く評価されています。彼の墓は、大阪堺市の南宗寺にあります。
荒木古童は、琴古流の尺八奏者および製管師として知られています。
現在は六世まで続いており、初代は江戸末期の人物となります。
特に三世荒木古童は、明治時代から昭和初期にかけて活躍し、その奏者としての技術と管楽器製作の腕前で評価されています。彼の作る尺八は特に高度な技術が用いられており、現存数も少なく貴重なお品物となります。
三世古童の尺八には、歌口に薄い鼈甲を挿し入れる製法が用いられることもあり、この製法で特許を所有しておりました。
三世荒木古童の製管した尺八は現在でも人気が高く、特に三印のものは高評価が期待できます。