裏千家十二代 直叟玄室 又玅斎

茶道裏千家十二代 直叟玄室 又玅斎についてご紹介致します。

角倉玄寧の子として生まれ、裏千家十一代・玄々斎の婿養子となった人物です。
十三代・円能斎の父に当たります。

 

又玅斎は20歳で家督を継ぎ、32歳で引退しております。
時代は明治初期、明治新政府が近代化を推し進める流れの中で、茶道は陰りをみせていました。苦悩の多い時代に家督を継いだ又玅斎でしたが、先代の玄々斎とともに裏千家、引いては茶の湯の権威を保つことにつとめました。

息子・円能斎に家督を譲った後も畿内で茶人を育て、地方に茶を普及するなど円能斎以降の裏千家隆盛に側面から寄与しました。

 

又玅斎の好み物(茶人が職人に意を伝え、制作を依頼した茶道具)として有名なものには、「住吉釜」が挙げられます。
名が示す通り、こちらは住吉大社に伝わる釜に倣った作品となります。釜の絵は又妙斎自身が描いていることでも知られています。

そのほかの好み物や、自身で制作した「茶杓」や「茶掛」といったお品物も裏千家家元作品として高い評価を持ちます。

 

 

千利休(千宗易)

今回は日本史によく登場する千利休(千宗易)について、経歴と共に彼が茶道史にどのような影響を与えたのかを紹介いたします。


千利休
は16世紀、名だたる戦国武将が群雄割拠していた時代において、「茶の湯(わび茶)」を大成させた茶人です

わび茶の始まり自体は15世紀後半になります。
それまでの茶の文化というのは、美術工芸品(主に唐物)の鑑賞と喫茶が結びついたような形式で行われていました。
そこに現在の茶道に見られるような精神性を持たせ、”わび茶”と呼ばれる茶様式を始めたのが村田珠光です。

そして、珠光のわび茶をさらに推し進めたのが、堺の豪商であった武野紹鷗です。紹鴎は堺で禅の修行に取り組んだのち、”茶禅一味”という言葉があるように茶と禅の結びつきを深めました。
また、茶会の掛物に和歌を使うなど、茶が和風化していくきっかけとなる人物でもありました。

そのようにわび茶が発展していく流れの中で、わび茶を完成させ、茶聖と称されるほどの称賛を得たのが千利休でした。

 

大永二年(1522年)に堺で生まれ、北向道陳や前述の紹鴎らに茶を学んだ利休は、千宗易という名で次第に茶の湯界に頭角を現していきます。

その頃、世の流れとして茶の湯が政治的な道具として扱われることも少なくはありませんでした。
当時、経済の中心地である堺を掌握していた織田信長も自らの茶会を開き、後に「天下の三宗匠」と称される千宗易・今井宗久・津田宗及らの”堺衆”(堺の権力者)を参仕させました。
利休は信長に参仕するにあたり、「抛筌斎(ほうせんさい)」という号を新たに使い始めます。

 

信長没後も、天下統一を成し得た豊臣秀吉に利休は重宝されます。
禁中茶会(1585年)北野大茶湯(1587年)など、茶の湯界に権威を示す目的で秀吉が開催した、大規模茶会の茶頭の一人として利休は活躍していきます。

天皇が公で初めて茶の湯の席に入ったとされる禁中茶会においては、そこで初めて我々が聞き馴染みのある「利休」という居士号が天皇から与えられました。
そして北野大茶湯で主管を務めあげると、利休は茶人として確固たる地位と名誉を手に入れることとなりました。

その後、利休は秀吉と決裂し、1591年に自刃。
友好的だった二人の関係はなぜ悪化してしまったのか、その理由は利休が秀吉の怒りを買ったためとされています。
しかし、その怒りに繋がった原因については不明なところも多く、今日でも様々な説として憶測が飛び交っています。

 

秀吉は先の大規模茶会にて黄金の茶室を用いるなど、絢爛豪華なものを好みました。
それに対し、利休は以前から”わび”に徹した簡素な茶の湯を追求してきました。
その相違点も、仲違いした原因の一つだと言われています。

利休が具体的に何をしたのかというと、まずは茶室の改革が挙げられます。
天正十年(1582年)頃、それまでの主流であった四畳半・三畳台の茶室とは異なる、二畳敷の茶室を利休は生み出しました
その原形とされるのが、京都の妙喜庵に残る有名な茶室「待庵(たいあん)」です。

待庵は日本最古の茶室建造物であり、現代において一般的な茶室とされる草庵茶室の基調となった建物です。

また、天正十四年(1586年)に開かれた茶会には、「宗易形の茶碗」が使われていたとされ、利休が陶工・長次郎に作らせたという樂茶碗ではないかと考えられています。
黒と赤の釉薬が特徴的な茶碗であり、利休は特に黒のものを好んだとされています。
樂茶碗は長次郎の子孫である樂吉左衞門家が代々作り続け、その技術は現代においても受け継がれています。

他にも、竹で作られた花入や竹中節茶杓など、利休の求める”わび”の精神性が反映された茶道具が利休道具として定着していきます。

 

利休のわび茶は義子の千小庵、孫の千宗旦へと受け継がれていき、表千家裏千家といった現存するいくつかの流派へと枝分かれしていきました。

しかしどの流派にしても、その根底には利休が求めてきた”茶の精神”が宿っていることに間違いはないと言えるでしょう。

表千家十一代 瑞翁宗左 碌々斎

茶道表千家十一代家元 瑞翁宗左 碌々斎についてご紹介致します。

十代・吸江斎の子であり、十二代・惺斎の父に当たります。

 

碌々斎は、明治維新後の茶道衰退期、復興に尽力した茶人として有名です。

当時文明開化の折、茶の湯は明治新政府から軽んじられ、千家は没落の危機に瀕しておりました
19歳で家督を継いだ碌々斎は、30代の時に明治維新という時代の荒波と相対することとなります。新政府は特に、徳川に由来するものを廃することで新たな時代を作ろうとしたため、徳川の引立を得ていた表千家は立場を追われ、苦難することとなりました。

そんな中にあって、1880年に北野天満宮で開かれた献茶の儀で碌々斎は、そこでの見事な振る舞いが認められ、財界関係者などからの強い支持を得ます。

1887年には明治天皇に茶を献じ、表千家の復興の旗印を掲げました。

 

碌々斎の好み物(茶人が職人に意を伝え、制作を依頼した茶道具)として有名なものでは、北野天満宮での献茶の記念に制作された「北野三十本茶杓」がございます。
円能斎の好み物は素材の味を活かした茶道具が多く、素朴ながらも無駄が無く、格式高い精神性が表されております。

裏千家家元宗匠の花押や書付のある好み物は、高名な茶人監修の意味合いで高い評価が期待できます

 

 

表千家流 久田家 十二代 久田宗也(尋牛斎)

表千家流 久田家 十二代 久田宗也 1925年1月21日~2010年10月22日

京都出身で、本名は和彦と言います。号は「尋牛斎(じんぎゅうさい)」と読みます。十一代・無適斎の長男として誕生し、京都大学文学部史学科を卒業後、茶道表千家十三代 即中斎(千宗左)に師事します。

お茶の祖である千利休の時代より代々受け継がれている家元で、現在は十三代世となります。千利休により現代までお茶の作法が存在し、流派がそれぞれ分かれていきました。主だっては表千家、裏千家、武者小路千家の三千家となり、それぞれ流派が異なります。

久田家は表千家の家元で、掛軸茶杓などが高評価を受けやすいお品物となります。
家元はまだまだいらっしゃいますので、ご家族の方でお茶をしており片付け中の方はぜひお気軽にご相談下さいませ。

裏千家十三代 鉄中宗室 円能斎

茶道裏千家十三代 鉄中宗室 円能斎 についてご紹介致します。

十二代・又玅斎の子であり、十四代・淡々斎の父に当たります。

 

円能斎の大きな功績として、茶道を女性の嗜みとして普及させたことがあります。
当時の明治期まで、茶道は男性の学びとして確立されておりました。その頃は近代化により多くの分野で変革が促されていたという時代背景もあり、円能斎は茶道の大衆化に舵を取ります。
女学校教育に茶道を導入、また茶道具や点前に関する書籍の出版などによって、敷居の高かった茶道という文化を誰もが触れられるように普及していきました。

 

円能斎の好み物(茶人が職人に意を伝え、制作を依頼した茶道具)として有名なものでは「国師丸釜」や十二ヵ月に因む図柄を施した「十二月棗」があります。円能斎の好み物は人生観を表したように、伝統と大衆性が感じられるお品物が多いです。
裏千家家元宗匠の花押や書付のある好み物は、高名な茶人監修の意味合いで高い評価が期待できます

また、円能斎本人が筆をとった「茶掛」や本人制作の「茶杓」「茶碗」といったお品物も人気が高く、評価の高いお品物です。

愛新覚羅 溥傑

愛新覚羅 溥傑は、清・満洲国の皇帝である愛新覚羅溥儀の同母弟です。
ラストエンペラーの実弟として、波乱万丈な生涯を歩みました。

皇帝一族である愛新覚羅家は、その政治的・歴史的な役割のほかにも書家として高名です。
書の格と政治的な格とが繋がる文化を背景に、各々が一族の上の存在から書を学びました。またその後生涯において政治的な活動を行う上で、書を記す行為はずっと続いたことでしょう。
その取り組みの中で、それぞれの型が醸成され評価されるものとなりました。

愛新覚羅溥傑の書は、流れる水のようなフォルムが特徴的です。
溥傑の遺した書をもとに、『相依為命体(そういいめいたい)書体』としてフォント化もされております。
溥傑は波乱曲折の人生を得て、日中友好に大きく貢献しその生涯を閉じます。
一言では言い表せない壮絶な人生のなかで、その美しいどこか淡々とした風情の書を書き残した愛新覚羅溥傑。その作品は、氏の人生や歴史を感じることによって、より一層想い深く鑑賞されるものでしょう。

今関 アキラコ

今関アキラコ(イマゼキアキラコ)氏は1964年京都にて生まれます。小さいころから絵を描くことが好きだった今関アキラコ氏は10代の頃は屋根裏部屋に閉じこもって絵をずっと描いていました。そして武蔵野美術専門学校に入学します。 …

流 政之

流政之(ながれ まさゆき)は長崎県出身の彫刻家・作庭家です。刀鍛冶や装丁家としても知られております。 1923年に生まれ、幼少期を東京で過ごしました。若い頃は海軍飛行科予備学生として戦争に参加しましたが、戦後は彫刻に専念 …

見附 正康

見附正康は九谷焼の作家です。 1975年に石川県に生まれ、石川県九谷焼技術研修所在学中に九谷焼の名工・福島武山出会ったことで卒業後に師事します。その後は作品が認められない日々が続きますが、ある時オオタファインアーツの大田 …

二宮 義之

二宮義之氏は1929年生まれ、神奈川県湯本町出身のからくり職人です。 戦後、勤めていた工場が閉鎖となり、旋盤工の仕事を辞めて工木の道を歩みだしました。マスダ木工芸技能者養成所を修了後は父親の儀之助に師事しています。 その …

藤 哲斎

藤哲斎(とう てっさい)は、昭和期に活躍した広島県の彫刻工芸作家です。 広島は筆の名産地であり、哲斎もはじめは筆に文字を彫る仕事をおこなっておりましが、研鑽を積んでいくのちに煎茶道具に彫刻を施すようになっていきました。 …

浜野 矩随

浜野矩随(はまの のりゆき)は、江戸時代中期頃に活躍した装剣金工師です。 浜野派の開祖である浜野政随のもとで門人として学び、浜野派の細密な作風に肉合彫りの意匠を加えた独自の作風を生み出しました。 落語に通じた方であれば、 …

柄澤 齊

柄澤齊は、1950年栃木県日光市生まれの版画家です。 木口木版画の第一人者であり、現在は版画のほか絵画・オリジナルコラージュ・エッセイ・ミステリーなど様々な芸術や文学作品に携わっているマルチな作家さんです。 1971年に …

金田鹿男

金田鹿男は1938年茨木県出身の陶芸家です。 茨城県の由緒ある寺院の住職の次男として生まれ、陶芸とは無縁の環境に育ちます。23歳の時に「泥だらけになって、精神的にも肉体的にも自分を鍛えたかった」と一念発起し、脱サラして陶 …

二代目 川瀬竹春

二代目 川瀬竹春は1923年京都出身の陶芸家です。 初代・竹翁から竹春を世襲しました。別名を順一と言います。 京都市美術学校絵画科卒業後に父のもとで修行しました。1949年に父と共に京都から神奈川県大磯に移住し、1960 …

山本彪一

生没:1912ー1999年 山本 彪一 (やまもと ひょういち) は1912年生まれ。栃木県出身の画家です。 幼少の頃から絵に興味を持ち、楽しみとして絵を描いていた。早稲田大学商学部卒業後本格的に画家を志すようになりまし …

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鈴木 玩々斎は竹芸作家で、明治から昭和にかけて活躍しました。 16歳の頃に竹芸作家の山下巧竹斎に師事し、腕を磨いた後独立、その翌年森華堂より「元々斎」の号を受け、その後「玩々斎」に改名します。改名後は浪華籃友会展、大阪工 …

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伊勢崎晃一朗は、1974年生まれの備前焼作家です。 人間国宝である備前作家・伊勢崎淳の長男として生まれ、現在においても活躍の幅を広げておられます。 東京造形大学の彫刻科を1994年に卒業し、その後はアメリカにて研鑽を積み …

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岡崎忠雄は、京都府出身の日本画家です。 1943年に生まれ、昭和後期から平成の初期にかけて活躍されました。 牡丹をはじめ、花をモチーフとした日本画で主に評価を得ており、現在も根強いファンのいる作家さんです。 1968年に …

キヤノン(Canon)

キヤノンは日本の光学機器やプリンターなどのOA機器メーカーですが、最初は高級カメラの製造を目的として創立された精機光学研究所という小さな研究所でした。1935年に日本で初のフォーカルプレーン式のカメラ「KWANNON(カ …

中川 義實

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金龍堂は、初代大國壽朗が発足した鉄瓶や金工品を得意とした工房です。 初代の大國壽朗の他にも松尾忠久、佐野直之らの有名作家が在籍していました。 金龍堂の歴史は古く、明治期~大正期にかけて多くの名品を世に残しました。 明治期 …