高橋誠は埼玉県出身の陶芸家です。
幼少期は、親の仕事の関係で転勤が多く、各地を転々とする生活を送りました。大学は東京藝術大学陶芸科に進学し、そこで田村耕一と出会い、陶芸を学びます。大学院まで進んだ後、卒業後は藤本能道を訪ね、師事しました。
藤本能道のもとでは、絵付けと釉薬の研究を行いながら作陶に励み、日本各地で数多くの個展を開催しました。絵付けの技術に関しては、藤本能道の弟子の中でも一、二を争う腕前を持っていました。特に、藤本が得意とした「余白を活かし、空間を表現する絵付け」を受け継ぎ、それを自分の表現として確立しています。
高橋が最も得意としたのは、花鳥を描いた図柄です。どの角度から見た鳥でも正確に描くことができ、花鳥図の作品には、作品の裏に鳥の名前が書かれていることが特徴です。この花鳥図は高橋誠の代表的な作風であり、花鳥図の作品とそれ以外の作品では、評価に大きな差が生じるほどでした。
主に多く制作されたのは色絵付の作品ですが、染付作品も手がけています。染付においても色絵付と同様に、花鳥図柄の評価が高く、彼の陶芸の特徴の一つとなっています。
ガンダーラ美術は、紀元前後から5世紀ごろに現在のパキスタン北部やアフガニスタン東部を中心に発展した仏教美術です。
ギリシャやローマ、ペルシャ、インドなど、さまざまな文化が交わる地域で生まれたため、独特の特徴を持っています。その最大の魅力は、ギリシャ・ローマの影響を受けたリアルな造形表現にあります。
仏像の顔立ちは彫りが深く、鼻筋の通った端正なものが多く、衣服のひだ(ドレープ)も細かく彫り込まれています。まるで西洋彫刻のような立体感のある表現が特徴です。
それまで仏教では、釈迦の存在を仏足跡や菩提樹といった象徴的な形で表していました。しかし、ガンダーラ美術の登場により、初めて釈迦が人間の姿として彫刻されるようになります。
これが後の仏教美術の発展につながり、日本を含むアジア各地の仏像の源流ともなりました。さらに、仏塔(ストゥーパ)や寺院の装飾として、釈迦の誕生、悟り、説法、涅槃(ねはん)といった重要な場面が浮き彫り(レリーフ)として描かれました。こうしたレリーフは、仏教の教えを視覚的に伝える役割を果たし、信仰を広める上で大きな意味を持っていました。
ガンダーラ美術の遺跡としては、かつて仏教の中心地だったタキシラ(Taxila)や、多くの仏像やレリーフが発見されたペシャワール周辺が有名です。また、アフガニスタンのバーミヤンには巨大な石仏が彫られましたが、2001年にタリバンによって破壊されてしまいました。それでも、ガンダーラ美術が後の仏教美術に与えた影響は計り知れません。インドのグプタ朝の仏教美術にも影響を与え、さらにシルクロードを通じて中国、朝鮮半島、日本へと伝わりました。
こうして生まれたガンダーラ美術は、東西の文化が融合した独特の仏教美術として、今も世界中で高く評価されています。
吉田多加志は、群馬県桐生市出身の創作こけし作家です。
群馬県立桐生工業高校でデザインや色彩を学び、卒業後は会社勤めを経て、30歳の時に小林伊之介氏に師事し、創作こけしの制作を始めました。
全日本こけしコンクールや全群馬近代こけしコンクールなどで多数の賞を受賞しtております。
彼の作品は、伝統的なこけしの形態に独自のデザインや色彩を取り入れたもので、高く評価されています。
欅を使ったこけし制作を得意とし、全てろくろを使わず手彫りで仕上げられます。
木の想いに耳を傾け、彫り進めていくことで作られる作品には自然の奥深さや一体となる精神が感じられます。
吉田遠志(1911年 – 1995年)は、東京都文京区に生まれた木版画家・画家です。
父である吉田博から油彩画の技術を学んだ後、海外に渡り、主に野生動物を題材とした作品を制作しました。その活動の中で、動物絵本シリーズが全国学校図書館協議会主催の「絵本にっぽん賞」を受賞し、海外からも注目されるようになりました。
1972年からは版画アカデミーを開設し、後進の育成にも力を注ぎました。
吉田遠志の作品は、生物だけでなく山や水といった自然も精密に描かれている点が特徴です。父・吉田博の作品が柔らかく温かみのある表現であるのに対し、遠志の作品は明暗がはっきりと分かれた力強い作風が特徴的です。
特に高い評価を受けている作品には、動物を主題にしたものや日本の庭園を描いたものがあります。野生動物を描いた作品は、動物の躍動感を細密に表現しており、その描写の緻密さから高く評価されています。同様に、樹木を題材とした作品も高い評価を受けています。
織田信長は、戦国時代に活躍した日本随一の知名度を誇る武将です。
尾張(現在の愛知県)に生まれ、若くして織田家の当主となった彼は、型破りな発想と大胆な行動力で急速に勢力を拡大していきました。
1560年、今川義元を破った桶狭間の戦いで一躍名を馳せると、その後も戦に勝ち続け、強大な敵を次々と倒していきます。
1570年には浅井・朝倉連合軍との姉川の戦いに勝利し、1575年の長篠の戦いでは鉄砲を効果的に使い、武田勝頼の騎馬軍団を壊滅させました。この戦いは、戦国時代の戦術を大きく変える出来事として知られています。
戦いだけでなく、政治や経済の面でも革新をもたらしました。商業の発展を促すために楽市楽座を導入し、関所を廃止して物流を活性化。
また、キリスト教を保護し、南蛮貿易を奨励するなど、西洋文化を積極的に受け入れたのも彼の特徴です。一方で、仏教勢力とは対立し、1571年には比叡山延暦寺を焼き討ちし、1580年には長年敵対していた石山本願寺を降伏させるなど、徹底した弾圧を行いました。
しかし、天下統一目前の1582年、信長は家臣の明智光秀の謀反によって京都・本能寺で自害し、その生涯を閉じます。彼の死後、豊臣秀吉がその遺志を引き継ぎ、日本統一を成し遂げました。
信長の評価は今も分かれるところですが、戦国時代において革新的な戦略と政策を展開し、日本の近代化の礎を築いた人物であることは間違いありません。その生き方は、現代においても多くの人々に影響を与え続けています。
美術品として、信長自らが筆を執った書簡などが現在でも残されております。絶大な知名度を持つ武将の書簡として、高い古美術的価値を有しております。
安倍安人は、1938年に大阪府で生まれた日本の陶芸家で、特に備前焼で知られています。
若い頃から芸術家を志し、洋画家として活躍されていました。
画家として活躍する傍ら、趣味で陶器を集めており、現代備前に物足りなさを感じていたようです。その為、自ら納得いくものを造るべく、1972年から陶芸を始めました。
1986年、岡山県瀬戸内市牛窓町に築窯。茶器や花器を中心に、備前焼の制作を行います。
古備前を始めとする古陶磁を研究されており、その理論を元にした造形や焼成は国内外で高い評価を得ています。
また多くの功績が認められニューヨークのメトロポリタン美術館や台湾の故宮博物院に作品が収蔵されました。
東京、大阪、ニューヨーク、パリ、台湾など国内外で精力的に個展を開催されています。