藤崎 秀胤(フジサキ シュウイン)は、富山県の南砺市出身の彫刻家です。
1959年に彫刻家である父 秀一のもとに生まれ、父親から直々に彫刻を学びます。20歳頃から仏像の制作を行い、30歳を過ぎた頃には寺院に木彫り仏像の納入も行うなど、彫刻家として実力を付けていきます。
そして2010年には、井波の彫刻伝統工芸士に認定されるほどの腕前となります。
井波彫刻は250年以上続く彫刻文化で、日光東照宮などの神社仏閣の彫刻を請け負っているという歴史を持つほどの、熟練の彫刻家たちが技術を継承し続けている文化です。
その技術を受け継いできた彫刻家たちは現在、日展などに作品を出品するなどの幅広い活躍が見せています。
井波彫刻の作品で高い評価を受けやすいお品物としましては、やはり有名作家の作品が人気となります。
有名どころで言えば、横山一夢や川原啓秀の繊細で非常に細かい作品は特に人気です。
また、作風の傾向としては、木造の仏像や獅子などの置物の類が評価を得やすい傾向にあると言えます。
藤崎秀胤の作品では他にも、童不動等のブロンズ作品も人気が高いお品物となっております。
木 内克は、茨城県水戸市出身の彫刻家です。
1892年の6月、代々医者の家系に生まれますが、彼は医師への道ではなく絵の道へと歩みを進めることとなります。
幼い頃から絵が好きだったこともあり、20歳の時に大学を中退して上京、明治時代に活躍した彫刻家・海野美盛の元で彫刻を学びます。
その後、朝倉文夫の彫塑塾に入門し、24歳の時に第10回文展にて初入選、それ以降も何度か入選を果たしました。
29歳の時に留学で欧州を訪れます。その後、ロンドンからパリへと移り、パリの研究所で彫刻を極めていきます。
欧州滞在中には、ギリシャのアルカイック彫刻に傾倒し、自身でテラコッタの技法を修得します。
そして帰国後、その修得した技法を用い、仁科展に数々の作品を出展・受賞しました。
戦後においては、再度欧州に行きブロンズの制作技術までをも会得します。
晩年には大胆にデフォルメされた裸婦像も手がけ、生涯、個性あふれる数々の作品を世に残していきました。
作風としては、エネルギッシュさと豊かな表現が組み合わされ、そこへ生まれたどこか温かみを感じられる風情が特徴的だと言えます。
中林星山は福井県鯖江市を拠点とし、棗や香合などのお茶道具を主に制作している、昭和26年生まれの現代の作家です。
彼は「ぶりぶり香合」で有名な蓑輪一星から蒔絵の技術を学び、螺鈿や金彩などといった装飾を得意とします。
作品の素材には、一般的に高級木材として扱われる「神代杉」や「黒柿」を使用することが多く、気品漂う作風が特徴的です。
「神代杉」は埋もれ木の一種で、自然現象によって樹木が地中に埋もれ、その影響から大変美しい木目が出来上がります。
「黒柿」は、柿の木から1万本に1本の確率で出てくると言われており、非常に貴重な木材として有名です。
中林星山の作品は、上記の高級素材が使用されている点に加え、特徴的な形状もまた、評価に影響する重要なポイントとなります。
特に、和楽器の琵琶や扇子の形をした香合などは評価が高く、他にも繊細な絵付けがされている昆虫や動物、植物などを題材とした作品や、螺鈿や金彩が上品に施されているお品物も評価が高くなる傾向にあります。
田川憲は1906年に長崎県長崎市に生まれ、生涯にわたり愛する長崎の歴史ある街並みや風景を描き続け、数々の作品を世に残しました。
彼の作品の特徴は、卓越した繊細な線画と色使いの技術によって表現された街並みや風景です。そのような絵を描き続けた背景には、多くの外国人が行き交った居留地時代の面影が残る長崎の景観、それを大事に守り、後世に伝えたいという強い想いがありました。
戦後、彼は洋館や居留地の景観保存を強く望んでいましたが、健闘及ばず、それら多くの建物が時代と共に失われていきました。
そこで、消えゆく居留地の景色を「版画として世に残す」ことを使命とし、彼の情熱は自身の作品へと注ぎ込まれます。そのため、晩年の作品は特に、古き良き時代を過ごした長崎への深い愛情が色濃く反映されています。
歴史ある景観を版画として残すことはもちろん、彼自身の想いが込められた作品は現在においてもなお、色あせることなく長崎から日本中の人々へと愛され続けています。
愛知文明(あいち ふみあき)は、1922年に岐阜県で生まれ、75歳の1997年に縄文文化を再現することをテーマとした『形象埴(けいしょうはに)』の制作により、岐阜県瑞浪市から無形文化財に認定された物故作家です。
愛知文明氏は、1922年に岐阜県瑞浪市稲津町萩原で生まれ、1971年に『形象埴』の制作を開始しました。『形象埴』とは、縄文時代や弥生時代の人物や動物、住居などを再現した作品であり、愛知文明氏がテーマとして掲げていました。
1997年に岐阜県瑞浪市から『形象埴』で無形文化財に認定された後は、愛知県名古屋市のデパートで年に2回個展を開催していました。また、全国各地でも個展を開いていましたが、2007年に逝去しました。
『形象埴』の中でも、30㎝を超える縄文・弥生時代の人物像は特に評価が高いです。その中でも人物の衣装部分のみに釉薬を施し、髪や肌を表す部分は素焼きで仕上げ、胎土を使い分けた作品はより高く評価されています。
奥磯栄麓は、1930年に京都で画家の両親のもとに生まれました。
28歳まで洋画家を目指していましたが、桃山時代の陶器と出会い、1960年に岐阜県久々利で窯を開きました。
栄麓は考古学の研究も行い、戦国・桃山時代の陶磁器に関する「極め」にも取り組みました。「極め」とは、鑑定書のような役割を果たす箱書きや書のことであり、考古学の知識を活かした活動の一環といえます。
さらに、愛知県春日井市出身の陶芸家・加藤唐九郎の愛弟子としても知られています。加藤唐九郎もまた、桃山時代の陶磁器を研究していた人物です。
栄麓の作品には、志野焼や鼠志野が多く、徳利やぐい呑みのほか、酒器や茶碗なども見られます。東海地方で活動していたため、黄瀬戸、瀬戸黒、織部などの作品も手掛けていますが、代表的な作品は志野焼です。
特に評価が高い作品の特徴として、志野焼の中でも器肌に紅い溶岩のような模様が入っているものが挙げられます。また、1987年に亡くなる直前の晩年作は希少性が高く、特に高い評価を受けています。