その生涯で何度も作風を変えた陶芸家、加守田章二。荒々しい見た目の裏で、計算しつくされた緻密な造形は、究極の現代陶芸の姿を映しています。
加守田は1933年に大阪府岸和田市に生まれました。少年時代はよく絵を描き、公募展での入賞経験もあります。その後京都市立美術大学に入学、大学では工芸科に進み、陶芸家・富本憲吉の指導をうけます。1956年に卒業し、3年後拠点を栃木の益子へと移しました。さらに岩手県遠野市、東京都東久留米市と移り、作陶を続けました。
受賞歴としては、日本伝統工芸展入選・高村光太郎賞受賞・芸術選奨文部大臣賞などがあります。
緩やかでありながら整った曲線彫文や、古代の陶器を模した酸化文などその作風は多岐に渡り、どれも絶大な人気を誇りました。陶器の偶然性を排し、釉のかかり方までも制御する計算しつくされた作品は、究極の陶芸作品と呼ぶにふさわしいものではないでしょうか。
北大路魯山人(本名・房次郎)は波乱万丈の人生と、その多才な才能を生かした作品が知られる人物です。作品は篆刻や陶芸、絵、書、漆芸など多岐に渡る他、美食家としても有名です。
魯山人は1883年に京都に生まれますが、生まれる前に父が自殺。母も間もなく失踪し、その後は養家が次々変わるなど、厳しい家庭環境にありました。この環境は6歳の頃ようやく落ち着き、京都の木版師の元で生活する事になりました。小学校卒業後は丁稚奉公となりますが、この時竹内栖鳳の絵を目にし、関心を持ちます。しかし画学校への進学は叶わず、養父の家業を手伝うこととなりました。木版技術を身につける一方で、書道の才能も開花し、書道展にて賞を取る程の腕前をみせました。
1903年、実母に会う為に東京へ赴き、そのまま東京に残ることを選びます。1905年には岡本太郎の祖父、岡本可亭に入門しますが2年後には独立しました。1910年、朝鮮を旅しつつ、朝鮮総督府で職を得て大陸で暮らし、現地の有名書道家などとも面会しました。日本に帰国後は福田大観の名で制作に打ち込み、絵や篆刻などの作品を残しました。また、竹内栖鳳の知己を得たことで、日本画の巨匠達とも接点を持ちます。1916年、実家の家督を継ぎ北大路姓となりました。さらに料理にも関心が高まり、会員制の「美食倶楽部」を発足、自作の食器に自らの手料理を振舞いました。
1927年、魯山人窯芸研究所を設立、荒川豊蔵を招き本格的な作陶を開始します。百貨店での作品展は好評を博し、戦後は外国人からも人気となりました。1954年には海外で展覧会も行っています。
性格は気難しかったようですが、その技量と優れた芸術的感覚から生み出される作品は多くの人々に愛されました。
黒木国昭は宮崎のガラス工芸家です。
西洋のガラスの中に日本の美を組み入れた色鮮やかな作品は、見る者を虜にします。
黒木は1945年に九州・宮崎で生まれ、高校卒業後はガラス製造会社に勤務していました。1974年に独自のガラス制作を始めます。間もなく国内のガラス作品展へ出品を行うようになり、1984年にガラス工芸家として独立しました。その作品は海外でも評価されるようになり、世界各地で作品展が行われるようになります。また、技術が途絶えていた薩摩切子の復元にも尽力しました。
1991年、その優れた技能が評価され、国の卓越技能者表彰「現代の名工」を受賞します。その後も現在に至るまで世界各地の美術展覧会で、数々の賞を獲得しています。
作品にはいくつかのシリーズがあり、日本伝統の美を再現した「琳派」、浮世絵などの図柄を描く「日本の歴史ロマン」、四季折々の草花や生き物がモチーフの「新世紀ロマン」、洗練された線が刻まれた「綾切子」などが代表的です。
八木一夫は、陶芸の世界に新しい造形を呈した陶芸家として有名です。
京都府の八木一艸の長男として生まれた八木一夫は京都美術工芸学校の彫刻科を卒業後に商工省陶磁器試験所の伝習生になり、沼田一雅の日本陶彫協会に入会し陶彫を学びました。昭和21年より陶芸に専念するようになると、1947年の第3回日展に「白瓷三彩草花文釉瓶」が入選しましたが、同年「青年作陶家集団」の趣意書を発表し第1回展を行いました。1948年に同集団が解散した後には、美術陶芸グループである「走泥社」の結成を主宰し、オブジェ焼きという伝統にとらわれない自由な陶芸をめざし、新分野を開きました。この「走泥社」はその後50年にわたり、前衛陶芸を育てていく役割を果たします。新分野を開いたといえる代表的な作品として「ザムザ氏の散歩」という作品が有名でしょう。日本陶芸界の記念碑的作品となったこの作品は、カフカの小説『変身』の主人公が、一夜にして昆虫に変身したことを題材に制作し、八木自身の変身と重ね合わせたものです。
焼き物の既成の概念を破る世界を開拓した八木一夫ですが、伝統的な陶芸を否定することはなくオブジェ作品のみならず茶碗や壺の制作も続けていた八木一夫は、土への深い愛着を持ち続けていた陶芸家ではないでしょうか。
鈴木藏(蔵)は志野の人間国宝に認定されている陶芸家です。
1934年、岐阜県土岐市に生まれ、父は製陶会社の研究員でした。幼い頃より父から作陶の基本を学んだ他、陶芸家・荒川豊蔵や加藤土師萌に学び、桃山時代より続く志野の研究にのめり込みます。県立多治見工業高校窯業科卒業後は、父のいる陶苑に勤務、一方で作品制作にも取組みました。1959年、日本伝統工芸展、現代日本陶芸展への初出品作が初入選の快挙を遂げ、以降様々な展覧会で受賞を重ねます。さらに日本陶磁協会金賞、芸術選奨文部大臣賞受賞などの功績をうちたて、ついに1994年には重要無形文化財「志野」保持者に認定されています。
若い頃から続けていた志野研究では、伝統的な焼成窯を独自に改良するなどして新しい技法を確立するなど、桃山技法の単なる模倣ではない、独自の作品世界をつくりあげています。
石黒宗麿は昭和30年に重要無形文化財保持者(人間国宝)制度が生まれた時に富本憲吉、濱田庄司、荒川豊蔵といった人物とともに初めて陶芸界から受賞した富山県出身の陶芸家です。
県立富山中学の中退など様々な経験を経て、中越汽船会社へ就職を果たした石黒宗麿ですが25歳の時に稲葉天目と称される中国宋時代の窯変天目茶碗に感動を覚え、作陶を志し、作陶を初めて10年後には京都に移り住み親交のあった小山富士夫の裏庭に窯を持つようになり、本格的に作陶を始めていきます。特定の師を持っていなかった石黒宗麿は、京都に移り住んでからは中国唐・宋代の古陶器を研究を始め、幅広い作陶技術を習得していくようになりました。1936年には東京都北部の八瀬に生涯の窯を築きます。石黒宗麿は斬新な視点で陶磁器を研究していき、1940年には彼の代表作である「木の葉天目」の作陶に日本人で初めて成功します。木の葉天目とは鉄釉の一種である天目釉をかけて、自然の木の葉を載せて焼く方法であり13世紀~14世紀にかけて中国の宋時代に始まった技法とされており、作り方が難しい為、希少価値が高いのが特徴です。また天目釉や鉄釉陶器の再現技術では、重要無形文化財に認定され、日本の陶芸界の発展を語る上で欠かせない存在になっております。
晩年には京都を拠点にして国立近代美術館で「石黒宗麿回顧展」等の活動を行っており、様々な地域で多様な陶芸品を生み出し続けた石黒宗麿の作品は人気が高いですが、中国や朝鮮の作陶技術を反映した作品は特に人気が高くなっております。