乃木 希典

乃木 希典は明治を代表する陸軍軍人です。
武士道的な忠誠・献身の象徴的存在として広く知られ、「軍神」と称されました。
また、漢詩や和歌を多く残すなど、文学的な側面も併せ持っていました。

1877年の西南戦争では薩摩藩士による反乱鎮圧の任務にあたりますが、連隊旗を敵に奪われるという失態を経験。乃木はこの事件を生涯の恥とし、のちの徹底した忠誠心や自己犠牲的な行動に影響を与えたとされています。

また、1896年からは日本統治時代の台湾で総督を務め、治安維持やインフラ整備を進めました。
しかし、官僚との対立などもあり、短期間で退任しています。

1904年からの日露戦争では、第3軍司令官として「旅順要塞攻囲戦」を指揮。第3軍は3度の総攻撃と白襷隊の突撃を敢行し、最終的に旅順を陥落させますが、代償として多くの死傷者を出しました。

戦後は学習院院長に就任し、皇族・華族の教育に尽力しました。
1912年に明治天皇が崩御すると、葬儀の日に妻とともに殉死し、日本中に衝撃を与えました。

近代では、軍神としての称賛とともに、犠牲を多く出した愚将としての批判もあり、評価は二分されています。

欧豪年

欧豪年は現代台湾画壇の第一人者として知られる中国出身の水墨画家で、嶺南派の代表的な画家です。1935年に高東省で生まれ、17歳で嶺南派の巨匠である趙少昂に師事し、その画技を継承しました。

嶺南画派の画風を受け継ぎながら、伝統的な技法に西洋の要素や現代的な感覚を取り入れた中西融合の独自の画風が特徴となります。

その作品は山水、花鳥、人物、動物などの幅広い題材を扱い、特に山水画における水の表現や生気にみちた虎の描写などで高い評価を受けています。

彼の作品は嶺南派特有の鮮やかな色彩と、伝統的な水墨画の余白や骨法を融合させた力強い気勢と生き生きとした表現が特徴です。

晩年には詩調や書道も画中に深く溶け込ませ、東洋の人文精神を体現する現代画家の一人として、国際的にも高く評価されています。

 

新井 白石

新井白石は、江戸の政治家・学者です。

1657年3月、明暦の大火の翌月に避難先であった江戸柳原(現在の足立区)で生まれました。
幼少期より学問に才能を示し、聡明でありながら気性が激しく怒ると額に「火」の字に見えるしわが出来たこと、大火の翌月に生まれたことから「火の子」と呼ばれました。

長らく独学で朱子学を学んでいましたが、1686年、29歳のころ朱子学者である木下順庵に入門しました。白石は順庵の門下生の中でも木門十哲と呼ばれる特に優れた十人の一人に数えられ、のちの徳川六代将軍・家宣である徳川綱豊が藩主を務める甲府徳川家がお抱えの儒学者を探しに来た際は順庵よりこれに推挙されました。

その後家宣が将軍となると、家宣は五代将軍・綱吉の側近らを解任し、甲府徳川家時代からの間部詮房、そして新井白石を登用しました。
白石らは正徳の治と呼ばれる政治改革を行い、生類憐みの令の廃止や海舶互市新例の制定などを行いましたが、家宣没後新たに七代将軍となった徳川家継は8歳で夭折し、八代将軍に徳川吉宗が就任すると白石らは失脚、引退へと追い込まれました。

政治家として有名な一方で、学者、詩人としても名が高く、日本政治史論書『読史余論』、密航して長崎で捕らえられた宣教師シドッチを尋問して得た情報をもとにした西洋事情研究書『西洋紀聞』『采覧異言』など、多くの著書を残しています。

藤原 定家

藤原 定家は、『新古今和歌集』『新勅撰和歌集』『小倉百人一首』の撰者として知られる歌人です。
本歌取」という有名な古歌の一~二句を自作に取り入れる技法を推進し、当時としてはかなり前衛的な和歌を詠みました。

書においては、濃い墨で一文字一文字をはっきりと書く独特の書風が、「定家流」として多くの歌人に愛されたといいます。

さらに、定家は『明月記(めいげつき)』と呼ばれる日記を、約58年間にわたり書き続けた事でも知られています。宮廷の様子や政治の動きなどを記録したこの日記は、2000年に国宝に指定され、現在も貴重な史料とされています。また、和歌にとどまらず『源氏物語』や『伊勢物語』など古典作品の写本や校訂にも携わり、後世の古典研究に重要な足跡を残しました。

藤原定家は、和歌の創作だけでなく古典文学の研究にも尽力した人物として、中世以降の日本文学・文化に大きな影響を与えています。

松村 景文

松村 景文は、江戸時代後期に活躍した四条派の絵師です。

四条派は松村呉春を祖とする流派で、与謝蕪村の柔らかな文人画の要素と、円山応挙の写生を基盤とする様式を融合させた、抒情的な画風を特徴としています。

景文は、27歳年上の異母兄である呉春に師事し、さらに洗練された表現方法を確立しました。花鳥画を得意とした景文の作品は、余白を活かした構図と繊細な描線が床映えするとして広く愛されました。
四条派の画壇で中心的な役割を果たし、没後には人気の高さから多くの贋作が出回ったため、門人たちの間で「師の偽筆を作らない」という誓約書が交わされたと伝えられています。

また、同門の岡本豊彦と並んで「花鳥は景文、山水は豊彦」と評され、当時の京都画壇において高い評価を受けました。

代表作には『四季草花図』『玉路・山茶花図』などがあります。

徽宗

徽宗は北宋の第八代皇帝で、北宋最高の芸術家の一人とされています。
代表作『桃鳩図』は、日本で国宝に指定されています。

1082年に神宗皇帝の第十一子として生まれ、当初は皇位継承とは縁遠い立場にありましたが、兄の哲宗が嗣子を残さず崩御したため、1100年に即位しました。
即位後は贅沢な宮廷生活や大規模な造営事業を推進しはじめ、これらは財政を圧迫して国政の腐敗を招きました。

一方で北方では女真族が勃興し、宋は一時的に金と連携して遼を滅ぼしましたが、やがて金と対立するようになります。1127年には金軍の侵攻により首都が陥落し、徽宗とその子らが捕らえられる「靖康の変」が発生。これによって北宋は滅亡しました。その後、徽宗は金に連行され、「昏徳公」という屈辱的な称号を与えられ、異郷で幽閉生活を送ることになります。

徽宗は、政治家としては無能と評される一方で、書画や筆硯、文学、弓術においては非凡な才能を発揮しました。また、独自の書風「瘦金体」を創始したことでも知られ、書画の世界に多大な功績を残しました。
庭園や珍木奇石の収集にも関心を示し、山水・花鳥・人物など多様な絵を描いた文人・画人として現在でも高く評価されています。

海野 美盛

海野 美盛は、1864年生まれの彫金家・日本画家です。 水戸派の金工家・初代 海野美盛の弟子である海野盛寿の子として、江戸下谷に生まれました。 一塊の材料から像全体を立体的に彫り出す「丸彫」の人物や動物を得意とし、緻密な …

頓阿

頓阿は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて活躍した僧・歌人です。 「二条派」再興の祖とされ、慶運、浄弁、兼好とともに和歌四天王の一人として知られています。 頓阿は、若くして比叡山で天台教学を学び、高野山でも修行を重ねまし …

徳川 斉昭

徳川 斉昭は江戸時代に活躍した大名であり、江戸幕府十五代将軍・徳川慶喜の実父としても知られています。 また、斉昭は漢詩や漢文、書の作品を多く残し、文化人としても高い評価を受けています。 1800年、江戸小石川の水戸藩邸に …

今尾 景年

今尾景年は、京都出身の日本画家で、花鳥画を得意としました。 初め梅川東居に浮世絵を学び、その後、鈴木百年に入門しました。 青年期は百年の影響もあり、南画風の絵柄が見られましたが、四条派の流れを受けて写生に根ざした緻密な描 …

山元 春挙

山元 春挙は、京都を拠点に活躍した円山・四条派の日本画家です。 「春挙ブルー」と呼ばれる鮮やかな青の表現でも知られています。 春挙は1872年に滋賀県膳所町で生まれ、野村文挙や森寛斎に師事しました。 京都で活動を始めると …

橋口 五葉

橋口 五葉は、明治末から大正期にかけて活躍した装幀家・版画家です。 1881年、鹿児島県にて薩摩藩藩医で漢方医を務めた士族・橋口兼満の三男として生まれました。 幼少期から絵に強い関心を示し、はじめは狩野派の絵を学びます。 …

白隠 慧鶴

白隠 慧鶴は、江戸時代中期に活躍した禅僧です。 臨済宗の中興の祖として知られており、白隠禅師とも呼ばれています。 白隠は、1686年に駿河国原宿(現・静岡県沼津市原)で生まれました。 幼い頃に寺で地獄にまつわる話を聞き、 …

島崎 藤村

島崎 藤村は、日本を代表する文豪の一人です。 1872年、島崎は筑摩県馬籠村(現在の岐阜県中津川市馬籠)で生まれました。 代々本陣や庄屋を務めた家柄で、父・島崎正樹は国学者でした。 10歳の頃に上京し、泰明小学校に入学。 …

任 頤

任 頤(任 伯年)は、清末に活躍した中国の画家です。 花鳥・人物・山水画を得意とし、中国の伝統と西洋絵画の要素を融合させた独自の作風が特徴です。 また、海上派の蒲華、虚谷、呉昌碩とともに「海派四傑」と称されています。 任 …

西郷 南洲(隆盛)

西郷南洲(さいごう なんしゅう)は、江戸時代末期から明治時代初期にかけて活躍した日本の政治家・武士・軍人で、幕末維新の立役者の一人です。 自分の立場にかかわらず周囲の人を大切にし、下や仲間に慕われ、多くの人をまとめる力が …

斉白石

斉白石は中国湖南省出身の近代中国絵画を代表する巨匠です。 木工職人として生計を立てる傍ら独学で書がを学び、清朝末期から中華民国、さらに中華人民共和国の時代を生き抜きました。 花鳥図、魚、蝦、蟹、昆虫、野菜などい身近な題材 …

親鸞

鎌倉時代の僧・親鸞(しんらん)は、浄土真宗の宗祖として知られ、「親鸞聖人」と尊称されています。 1173年に京都で生まれ、争いや災害、疫病、大飢饉が相次ぐ不安定な世の中で幼少期を過ごします。 叔父に伴われて9歳で出家し、 …

本居 宣長

本居 宣長は、江戸時代を代表する国学者・医師です。 荷田春満・賀茂真淵・平田篤胤と共に、日本らしさを追求する「国学」という分野を確立させました。 宣長は、1730年に伊勢国松坂の木綿問屋である小津家に生まれました。 23 …

濱田 観

濱田観は、花鳥画を中心に活躍した兵庫・姫路生まれの日本画家です。繊細な筆致と淡い色彩で自然の美しさを表現しました。 大阪で洋画を学びつつ商業デザインにも携わる中、1929年に竹内栖鳳に師事。1933年、京都市立絵画専門学 …

勝 海舟

勝海舟は、幕末から明治期にかけて活躍した政治家・軍人・思想家で、日本の近代化に大きな影響を与えた人物です。 勝海舟は、幕府海軍の創設に力を尽くし、日本の近代海軍の基礎を築きました。1860年には咸臨丸に乗って、日本人とし …

東皐 心越

東皐 心越は、江戸時代初期に中国から渡来した禅僧です。 心越は、1639年に中国浙江省で生まれました。 幼い頃より仏門に入り、1676年に清による圧政から逃れるため、日本へ亡命しました。 長崎に移住し、日本各地を訪れてい …

織田 一磨

織田一磨は、主に都市の風景を描いたことで知られる版画家です。 生まれは東京ですが、12歳の頃に大阪へ移りました。 16歳になると、石版画工をしていた兄から石版画の技術を学びました。 その後1903年に東京へ戻り、川村清雄 …

山本 梅逸

山本 梅逸は、花鳥図を得意とした文人画家で「尾張南画の巨匠」と称されています。 1783年、梅逸は名古屋に生まれました。 幼い頃から絵が好きだった彼は、12歳で見事な襖絵を描きあげ周囲を驚かせたという逸話があります。 父 …