山本 梅逸

山本 梅逸は、花鳥図を得意とした文人画家で「尾張南画の巨匠」と称されています。

1783年、梅逸は名古屋に生まれました。
幼い頃から絵が好きだった彼は、12歳で見事な襖絵を描きあげ周囲を驚かせたという逸話があります。
父親を早くに亡くしましたが、教育熱心だった母親から和歌を教わりました。

はじめは狩野派山本蘭亭に絵を学びました。
蘭亭は彼の絵の才能を見抜き、次に四条派張月樵の下で学ばせました。
その後、中国絵画コレクターだった富豪「神谷天遊」のもとで修行をしました。

1802年に天遊が亡くなると、兄弟子の中林竹洞と共に京都へ赴きました。
一度は名古屋に戻りましたが、1832年に再び京都へ出ると人気が高まり、南画家としての地位を確立しました。

彼は巧みな筆使いで、柔らかな花や自然の立体感、生物の動きを表現しました。
花鳥図を得意としていましたが、笛や煎茶道にも造詣が深かったといいます。

彼の作品には『文豹図』『墨梅図』『四季花鳥図』などがあります。

松林桂月

松林桂月は南画を代表する人物として知られています。
桂月は山口県出身で、上京後に野口幽谷に師事しました。幽谷に師事する前から独学で絵を描いていたようですが、師事のあとから名前が広まりました。日本美術協会展や文展で数多く賞を受賞しました。その後、日本南宗画院の設立や日本美術院展の審査員など、日本画の発展に大きく貢献しました。その活躍もあり、1944年帝室技芸員に任命されています。太平洋戦争終戦の半年後に行われた日展の審査主任となり見事に成功させ、その後も美術界に尽くしていきます。しかし、1953年病に倒れこの世を去ります。この時、新聞各社は「最後の南画家」と報じました。
その作風は、漢詩の教養を活かして描く「詩書画三絶」を目指し、細かな筆致と墨線のリズミカルさによる独特な世界観であると言えます。

山中 静逸(信天翁)

山中静逸(やまなか せいいつ)は愛知県碧南市出身の南画家、書家、政治家であり号を静逸または信天翁(しんてんおう)としました。

また、富岡鉄斎(とみおか てっさい)の生涯の友として知られる人物です。

山中静逸は1822年に愛知県碧南市に山中子敏(やまなか しびん)の二男として生まれます。父の山中子敏も文人であり画家でした。また、実家は東浦村の大地主で裕福な家庭だったといわれています。

幼少時代から大阪に出て篠崎小竹(しのざき しょうちく)に学んだが、1847年に父である山中子敏が亡くなり、家業を継ぎ寺子屋を開きました。
しかし、京都に出て国事に奔走していた二男である弟の死をきっかけに山中静逸は三男の弟に家業を継ぎ、漢学を学ぶため上京し朱子学者であった斎藤拙堂(さいとう せつどう)に学びます。
三年後には国事に尽くす為、京都に向かい梁川星巌(やながわ せいがん)、梅田雲浜(うめだ うんぴん)、頼三樹三郎(らい みきさぶろう)らと交わり、国事に尽力しました。
この頃に生涯の友となる富岡鉄斎と出会います。
安政の大獄では多くの同志を失い、難を逃れて身を隠し、幕政改革に奔走した。

明治維新後には岩倉具視(いわくら ともみ)とも親交を深め、1868年の鳥羽伏見の戦いでは、朝廷側の食料や軍事費の調達する役目を担い、明治天皇の東京遷都の際には御用掛も勤めました。
明治新政府となり、1869年に岩手県知事、1870年には宮城県知事と歴任しました。

京都で学者、詩人、画家としても活躍し南画においては日本国内のみならず海外でも高く評価されました。1873年すべての官職から引退、京都の下加茂に住み、文芸の道を楽しみました。
1885年に64歳の生涯を終え、明治政府より正五位を受け、1913年には従四位を受けました。

高橋 草坪

高橋草坪は日本の文人画家です。

文化元年頃に現在の大分県杵築市の商家・槇屋(高橋氏)休平の次男として生まれました。

本名は雨、字は草坪、元吉、通称は富三郎と言い、草坪はその号で、他に草坪寒民、草坪間人、草坪逸人などと号しました。

幼いころから絵に興味があり画才を現わしていた草坪は同郷の長谷部柳園に画を学びましたが、文政5年に田能村竹田が杵築を訪れたのを機に竹田に入門。その後竹田に画才を認められ、文政6年頃には竹田に従って初めての京遊に出ました。

そして竹田の友人である菅茶山、頼山陽、雲華上人、浦上春琴岡、田半江ら錚々たる文人と接して学問や作画の指導を受ける中で草坪の画技は一気に深まり、竹田の教え通りに世俗的な画風に染まることなく、勢力的に画技の追究を続けて行きました。

文人画家として名声も高まりますが、天保6年頃(所説あり)病により夭折しました。著書に家屋と人物描法のみを整理した『撫古画式』があります。

 

岡田 米山人

岡田 米山人は江戸時代中期~後期の南画家です。
岡田半江はその子にあたります。

通称を岡田彦兵衛、あるいは米屋彦兵衛と称し一説には彦吉とも称しました。名を国、字は士彦、通称は彦兵衛、米山人は画号です。

若いころには播磨神東郡剣坂村(兵庫県加西市西剣坂)の庄屋安積喜平治の下に寄食し、米をつきつつ書を読み勉学に励んだと伝えられていましたが、近年同地で襖絵などの作品、資料が発見されたことによりこれが裏づけられました。

その後大坂に出る意向を示すと喜平治より金銭的な支援を受け春米屋を営み、画号の米山人も稼業の由来であろうとされています。また安積家に仕えた乳母を妻に迎えています。

天明2年頃、商人でありながら伊勢国藤堂藩に仕え、寛政5年頃には津藩に大坂蔵屋敷留守居役の下役として仕え、その藩邸内に住んでいます。

絵は当時舶載のものを見たりしながらの独学だったようで、他の南画家には無い力強さと独特のセンスは近年評価が高まって来ています。浦上玉堂とは特に親交があり、田能村竹田に影響を与えています。

主要作品は『松下高士図』など、『秋山蕭寺図』が重要美術品指定となっています。

田能村 竹田

田能村竹田は、豊後国岡藩(大分県竹田市)出身の南画家です。

1777年に生まれ、実家は岡藩主のお抱えの医者の家系でした。しかし生まれつき体の弱かった竹田は、22歳の時に藩主から医者の道に進まなくてもよいと言われ、学問の道に進むこととなりました。

絵を描き始めたのは20歳頃で、地元の画家から学ぶ形で始まりました。竹田が本会句的に芸術一筋となったのは37歳であり、芸術家としては遅い年齢でした。しかしながらその深い教養や力量から豊後南画の始祖と呼ばれるまでになり、また帆足杏雨・後藤碩田・高橋草坪・田能村直入のいわゆる竹田門下四天王と呼ばれる優れた後継者を残しております。

竹田の作品は南画と呼ばれるいわゆる中国の画法でした。南画の基本的な考えは、たくさんの知識を付け、自然を身体で感じ、それを絵に表すというものでした。その中でも竹田は知識への探求が熱心であり、良い絵を描くためにはたくさんの知識と、旅をして得る事ができる見聞や体験が必要であると語り、それを実行に移していたのでした。

竹田は筆まめといえるほど数多くの作品を残しており、その作品は全国の美術館に所蔵されております。京都の出光美術館には竹田の作品が200点近くも所蔵されています。機会があれば、是非一度足を運んでみてください。

小室 翠雲

小室翠雲は群馬県出身の日本画家であり、南画家です。 1874年、日本画家の小室桂邨の息子として生まれます。 南画を田崎草雲に学び、日本美術協会で受賞を重ね、日本美術院の会員となり、日本画会と南画会の幹事として名声を上げま …

田能村 直入

田能村直入は幕末・明治の日本画家であり、南画(文人画)の振興に尽力した人物です。 直入は1814年、豊後国・岡藩(現大分県竹田市)に生まれ、親戚の伝手で南画家・田能村竹田(たのむらちくでん)の画塾に入門します。そしてすぐ …