岸駒(がんく 1749/56年~1839年)岸駒は江戸時代中期から後期の絵師です。出身、出生は諸説ありますが石川県金沢市の説が有力である。幼少期は生活が苦しく、手習いしようにも師につくことができなかった。そのため店の暖簾や看板で字を覚えます。金沢にいたころは矢田四如軒あるいは森蘭斎に絵を習ったと伝わっているが確証はありません。しかし岸駒の画風から蘭斎の画系である南蘋派に学んだことは間違いないとされています。1778年に絵師として名を立てようと上京しますが、父が亡くなり帰郷します。翌年に母を連れて再度上洛します。岸駒はこのころから中国画から学んだことを作品に記し、南蘋派の画法を取り込んだ精密な絵や洋風画を学んでいきました。1782年の「平安人物誌」に初めて名前が記載され、一流絵師の仲間入りを果たします。以降も岸駒が死の年の版まで漏れなく記載されており、京都を代表する絵師であり続けました。
岸駒が得意としていたのは迫力のある虎の絵です。なぜそこまで迫力のある絵が描けたのかというと、岸駒は虎の頭蓋骨を中国の商人から手に入れており、それに虎の頭の皮を被せ、様々な角度から写生しました。また歯の本数や各部分の寸法などを細かく研究した結果、迫力の虎図が完成しました。こうした緻密な努力が誕生の裏にはあったのです。
掛軸作家一覧
横山 華山
横山 華山(よこやま かざん 1781年または1784年~1837年)華山は江戸時代後期の絵師です。中国風に「黄華山」と署名している例もあり。出生や出身が諸説あり定かではないが、京都出身とされています。福井藩松平家の藩医の家に生まれます。幼いころは家が貧しく生計を立てるために北野天満宮で砂絵を描いてその日暮らしをしていたといいます。その後、西陣織業を営む横山家の分家にあたる横山惟馨の養子になり、本家横山家が支援していた曾我蕭白に私淑(直接教えを受けることはできないが、模範として学ぶこと)。直接誰かに師事したような形跡はなく、養父の惟馨から学んだと推測されているが定かではない。のちに岸駒に師事することとなり、大作を描き続けます。一般的に絵師は晩年になると筆力が衰えるとされているが、華山は最晩年まで大作を描き続けたという。華山の絵ではほかでは見られない特徴的な墨の使い方をしており、墨を絵具の一種として扱い、墨で書くというよりかは墨で塗るといった新しい感覚を見ることができます。日本の美術史ではあまり有名ではなかったためか、欧米の美術館やコレクターによる収蔵品が多く、ボストン美術館に13点、大英博物館に6点所蔵されている。最近になりようやく日本でも本格的な回顧展が開かれるようになりました。
渡辺 崋山
渡辺 崋山(わたなべ かざん 1793年10月20日~1841年11月23日)
江戸時代後期に活躍した画家。また武士でもあり、三河国田原藩の藩士でもあった。田原藩士である父、渡辺定通の長男として生まれました。しかし定通が養子であることや、定通が病気がちで医療費がかかったことにより、幼少期は貧窮の中で育ちました。画家としてみた崋山は年少の頃より生計を支えるために画業の道を志しました。出始めは大叔父にあたる平山文鏡に画の手ほどきを受け、続いて白川芝山に師事しましたが、付届け(俗にいう賄賂)ができていなかったために破門されます。父定通はこれを憐み、つてを頼り金子金陵に弟子入りを頼み、受け入れられます。金陵は崋山に目をかけたことで崋山の画力は向上しました。また金陵の師である谷文晁にも教えを受けた際に、文晁は崋山の才能を見抜きます。それもきっかけになり崋山は師文晁に倣って南画のみならず様々な系統の画派を広く吸収していきました。画家を志した理由は幼少期の貧しさ故であったが、その才が多きく花開き、また画家になる過程で出会った人脈などは崋山にとって発想をおおきくするために得がたいものになりました。
織田 杏斎
織田 杏斎(おだ きょうさい 1845年11月24日-1912年11月24日)明治時代の画家です。尾張国名古屋にて長男として生まれました。父は絵師の織田共樵、父に画について教わるが1862年に父が死去。その後は張晋斎に師事します。杏斎は明や清時代などの中国絵画を勉強し、西洋画を学ぶために一時写真家にも転身しました。1874年に写真館をも開きますが、その後は画家に戻っています。1884年に内国絵画共進会で褒状、絵事功労褒賞を受賞、宮内省御用品に選ばれました。1912年11月24日に死去しましたが、筆塚(徒弟が師匠などの死をしのんで建てる記念碑)が名古屋の八事興正寺にあることから慕われていたこがうかがえます。
田中 訥言
田中 訥言(たなか とつげん 1767年-1823年)江戸時代後期の絵師です。復古大和絵の祖として知られています。門下には幕末の大和絵師の宇喜多一蕙や尾張国出身の復古大和絵画家の渡辺清などがおります。訥言自身は尾張国名古屋の出身で、幼いころに日蓮宗の寺に入門、のちに比叡山延暦寺で天台宗を修めます。画は狩野派一派である石田幽汀に学び、石田幽汀の死後は土佐派の土佐光貞の門に入ります。土佐派の中で訥言の評価は高く、22歳の時には法橋位を得ています。訥言は有職故実に精通しており、当時の形式的な画風よりも大和絵の復刻を目指し古絵巻を熱心に模写、のちに復古大和絵の祖として知られるようになりました。眼病を患っており医療費のために画会を開いた考えられていて、視力を失った際に舌を噛んで命を絶ったといい伝えれています。現在確認されている作品は300点以上。著名な門人の作品には訥言に倣ったと思われるようなものが複数残っており、訥言の影響力の大きさを見ることができます。
西郷 孤月
西郷 孤月(さいごう こげつ 1873年-1912年)は明治時代に活躍した日本画家です。日本美術院の創設者のひとりでもあります。筑摩県筑摩郡松本深志町(現在の長野県松本市)に生まれる。1886年に小石川餌差町の私立知神学校美術科へ入学し、絵の勉強を始める。1888年に狩野友信に師事して日本画の修業を始める。1889年には東京美術学校の第一期生として絵画を学ぶ。1898年日本美術院の設立に尽力。しかしその後は酒と遊蕩に明け暮れるようになり、才能をどんどんと失っていった。しかし一遍1912年台湾にて孤月は大作「台湾風景」を描きます。その後はまた才能を発揮するかと思われましたが、病にてその年に人生の幕を閉じました。
谷 文晁
谷 文晁(たに ぶんちょう 1763年10月15日-1841年1月6日)は、江戸時代後期の南画家です。文晁の祖父は民政家、父は漢詩人として名をしられていました。このような環境で育った文晁は文才を持ち合わせ、漢詩が「五山堂 …
上原 古年
上原古年は梶田半古および松本楓湖(ふうこ)の門人です。1877年、東京浅草に生まれの版画家、日本画家です。初め梶田半古に師事した後、松本楓湖に師事して日本画を学んでいます。岡倉覚三(天心)に招かれて5年間、日本美術院に …
平福 百穂
平福百穂は日本画家、歌人で画家平福穂庵(順蔵)の四男として、秋田県仙北市に生まれました。本名は貞蔵。幼い時から秋田市の豪商である那波家のコレクションなどで、秋田蘭画を見て育ったが、1890年から父から絵を学びはじめる。 …
金島 桂華
金島桂華は広島県出身の日本画家です。 14歳の時に大阪に出て、西家桂州や平井直水といった画家のもとで日本画を学びました。 19歳で京都に移り、竹内栖鳳の画塾「竹杖会」に入門します。1918年の第12回文展で初入選すると …
中村 岳陵
中村岳陵は、本名を中村恒吉といい、日本画家です。日本画に油絵の表現を取り入れた、独自の日本画のスタイルで注目された作家です。1890年、静岡県下田市に生まれた中村岳陵は、初期のゴーギャン、ルソーといった西洋の画家に影響を …
柳沢 寿江
伊藤 小坡
伊藤小坡は三重県伊勢市宇治浦田町に生まれ、京都を中心に風俗画、美人画を描いた日本画家です。歴史風俗画を得意としていました。伊勢にある猿田彦神社の宮司の長女として生まれています。幼少の頃より古典文学、茶の湯、柔術を習い、 …
石崎 光瑤
石崎光瑤は富山県南砺市に生まれの日本画家です。文展・帝展・新文展に数多くの作品を出品、京都市立美術専門学校の教授を務めるなど、大正・昭和前期を代表する日本画家として活躍しました。文展・帝展を中心に活動し、写実に基づく鮮 …
小室 翠雲
小室翠雲は群馬県出身の日本画家であり、南画家です。 1874年、日本画家の小室桂邨の息子として生まれます。 南画を田崎草雲に学び、日本美術協会で受賞を重ね、日本美術院の会員となり、日本画会と南画会の幹事として名声を上げま …
狩野 栄信 (伊川院栄信)
狩野栄信(かのう ながのぶ)は江戸時代後期の作家で狩野派8代目の絵師です。7代目の狩野惟信の子として江戸で生まれ、1785年11歳で奥絵師として勤め始め、1802年に法眼(仏教における位)に叙す。1808年に父惟信が亡く …
菅 楯彦
「浪速の絵師」と呼ばれた日本画家で関西画壇の長老と呼ばれていた人物として有名なのが菅楯彦です。 鳥取県に生まれた菅楯彦は武家社会の崩壊により日本画家であった父が絵で生計を立てることにしたことがきっかけで生後間もなく大阪に …
狩野 探幽
江戸時代初期の狩野派の絵師で京都生まれ。狩野孝信の子になります。早熟の天才肌の絵師と評され安土桃山時代までの狩野派に典型的な、豪奢で迫力を感じさせる画風とは異なり、「淡麗瀟洒」と評される、簡明で余白を巧みに活用した作風を …
森 狙仙
森狙仙は、江戸時代後期に大阪で活躍した絵師です。狩野派や円山派を踏襲した写実を基調とする独自の画風によって知られています。はじめ、勝部如春斎について狩野派の技術を学び、如寒斎と号しました。天明4年(1784年)師の如春 …
山口 素絢
江戸期の京都で隆盛を誇った日本画流派である円山応挙を祖とする「円山派」。山口素絢は応挙の弟子として円山派を代表する絵師「応門十哲」にあげられる人物です。 美人画を得意とし、優美な女性像を描き人気を博しました。一方花鳥画や …
大橋 翠石
大橋翠石は岐阜県大垣市生まれの日本画家です。日本美術史の中でも特別な存在で、世に「虎の翠石」として名高い画家です。特に長い冬毛が美しいアムールトラを多く画題に選び、その描くところの虎は毛の描写の細かさ、威風堂々とした体 …
冨田 溪仙
富田渓仙は明治から昭和初期に活躍した日本画家です。 福岡県博多に生まれ、福岡藩御用絵師だった衣笠守正(探谷)に狩野派を学んだ後、京都に出て四条派の都路華香に師事します。のち仙厓義梵、富岡鉄斎に傾倒。各地を旅し幅広い研鑽 …
表千家十三代 無盡宗左 即中斎
茶道の話になると歴史の教科書にも出てくる千利休はみなさんご存じかと思います。その利休を祖とする千家流茶道の本家(表千家)の十三代目を受け継いだのが即中斎です。 利休が作り出した茶道は400年という長い歴史の中で根幹は変わ …
沈 南蘋 (沈銓)
緻密に写生された色鮮やかな動植物。中国、清代の画家・沈 南蘋によってもたらされた新たな画風は、当時硬直していた日本絵画界に新しい風をもたらします。 南蘋は絹織物商の子として生まれますが、絵に興味を持ち画家・胡 湄に入門。 …
亀井 南冥
亀井南冥(字 道載)は江戸時代、九州で活躍した儒学者です。また現在国宝に指定されている志賀島の金印研究の第一人者でもありました。 南冥は1743年に九州・筑前国に生まれました。医者であった父の影響をうけ幼い頃より学問に触 …






