1825年~1898年 野口 幽谷(のぐち ゆうこく)は、幕末から明治期に活躍した南画家になります。東京都千代田区神田出身で、父は大工だった棟梁源四郎の次男として誕生。幼少期に患った天然痘からくる虚弱体質だった為大工を継ぐことができず、宮大工の鉄砲弥八に図面製作を学びます。弥八から図面の技能を磨くにはまず、絵画を学ぶように言われ、知人の紹介で椿椿山の画塾琢華堂に入門し、漢学(中国伝来の学問の総称)を大黒梅陰に学びました。ある時、椿山から「画はなんのために描くのか?」と聞かれ、「気ままに自分の心を画き、気ままに生活したい」と答えたことから、幽谷に咲く恵蘭のような心と評されて幽谷の画号を贈られたという。1854年師椿山が没すると、渡辺崋山に私淑して画を独学で学びます。1872年欧州の博覧会をはじめ作品を出品し、画才が認められる。その後も宮中で障壁画制作に任命、各会の審査委員を歴任し、1893年帝室技芸員となる。幽谷は、師思いとも知られ、1855年安政の大地震で自分の自宅が半壊したにも関わらず、師椿山の家の被害がひどく自分の家を後後回しにし、幽谷自ら大工だった経験を活かし修復にあたったといいます。
掛軸作家一覧
呉春
呉春(ごしゅん 1752年~1811年)は江戸時代中期の絵師です。四条派の始祖。初期の画号は松村月渓。呉春は京都の金座年寄役の家に六人兄弟の長男として生まれる。はじめは家業の金座を継ぎ平役を務めていた。金座は高給なため家は裕福であった。このころから非常に手先が器用であったという逸話が残されている。絵を学び始めた時期は不明であるが、1770年頃に大西酔月の門を叩いたとされている。しかし数年たつと酔月が亡くなってしまいます。その後、1773年に与謝蕪村の内弟子として入門し、俳諧や南画を学び始める。生活に困っていなかった呉春は最初は趣味や余技として学び始めたのでしたが、1775年の「平安人物誌」に早くも名前が載ります。この前後から何かしらの事情で金座を辞め、本格的に俳諧や絵師の道に進みます。呉春は師・蕪村が亡くなった際に円山応挙から助言をもらいます。それをきっかけに呉春の作風は円山派風へと変化していきます。応挙がなくなると呉春は京都画壇の中心となり、その画派は呉春が住む場所からとり「四条派」と呼ばれるようになりました。
森 徹山
森 徹山(もり てつざん 1775年~1841年)江戸時代後期の絵師です。徹山は大阪で森周峰の子として誕生。主に出身の大阪で森派、四条派として活躍しました。森周峰の実子でありますが、叔父の森狙仙の養子となり、森派を継いでいます。徹山16歳の時、「浪華郷友録」では森周峰、森狙仙の次に徹山の名前が記載されており、すでに狙仙の養子となって名の知れた絵師だったことがわかります。狙仙の勧めで晩年の円山応挙のもとで画を学ぶこととなり、のちに応挙十哲に数えられる程になりました。徹山は大阪と京都を行き来し、円山派を大阪に広めました。画風は実父の周峰から学んだ狩野派と、養父の狙仙ゆずりの動物写生に円山派の写実を加味するなど、感情豊かな画になっているのが特色です。特に動物画を得意としていた徹山ですが、狙仙とは違い猿以外にも珍しい動物なども描いております。晩年には熊本潘細川家に仕え、67歳で病没しました。
長沢 芦雪
長沢 芦雪(ながさわ ろせつ 1754年~1799年)芦雪は江戸時代の絵師です。長澤蘆雪と表記されることもある。円山応挙の高弟で、師とは対照的に大胆な構図、斬新で奇抜な画風を展開した。丹波国篠山にて生まれる。後に芦雪は父のことを、篠山藩から淀藩に出仕した上杉彦右衛門であると述べた資料が残っている。同時代の著名な絵師に比べると履歴を残す資料は少なく、いつ頃応挙の弟子になったのも定かではない。現在見つかっている作品の中で最も早い時期の作品は1778年で芦雪が25歳のとき。このころには応挙の弟子になっていたことがわかる。しかし、落款から応挙入門前と思われる作品も見つかっており、入門前から十分な力量をもっていたと推測されます。芦雪の性格は奔放でそれが快活である一方、傲慢な面もあったと伝えられています。曾我蕭白、伊藤若冲とともに「奇想の画家」や「奇想派」などと言われており、大小の極端な対比や、写実を無視した構図など応挙の作風からは逸脱している。またそのような性格のせいか「応挙に破門された」というような悪評や逸話が多く、芦雪の死も毒殺や自殺などと言われ、事実は定かではない。
駒井 源琦
駒井 源琦(こまい げんき 1747年6月12日~1797年9月27日)江戸時代中期の絵師です。姓は駒井、本名は源、名は琦で駒井源琦と表記されることが多い。円山応挙の高弟で、長沢芦雪と共に二哲と評されていました。芦雪は、独自の画法で作品を製作しておりましたが、源琦は対照的に師・応挙の画風を最も忠実に継承した絵師です。特に清楚な唐美人画で知られています。源琦は京都の根付彫り職人の子として生まれます。早くから応挙に学んだと推測されていますが、いつ頃から応挙に師事したかは定かではない。20代での作品は「後三年合戦絵巻」模本と「十二類絵巻」の模写作品しか残っていない。1775年、源琦が29歳の時、「平安人物誌」にて20名載る絵師の一人に選ばれた。この20名に連なるのは応挙、伊藤若冲、池大雅、与謝蕪村、曽我蕭白などで、一流の絵師として認められたときでもある。今日までに伝わる源琦の作品は主に40代以降の作品が大半である。また大作は少なく、小品が多い。画風は先に書いた通り応挙に忠実で、応挙との合作や応挙の模写作品も珍しくはありません。また作品の七割近くに年記を入れており、源琦の真面目な性格がうかがえます。
李 思訓
李 思訓(り しくん 651年~718年)唐時代玄宗朝に仕えた官僚である。画に長じており、子の李昭道とともに北宗画の祖とされています。若いころから芸才に優れており、唐の第3代皇帝の高宗の時に、江都令に就任しました。しかし武則天よって多くの李氏皇族が数多く害に遭ったために、官を捨てて隠れていました。705年、唐が復興したため、中宗により宗正卿に任じられます。書画においての李思訓は「一時の妙」と称され、山水画、樹木画、神仙画は高い評価を受けています。李思訓の山水画は「李将軍山水」として後世に金碧山水画風を代表するものとして有名になった。彼の画風は着色にこだわりが強く、貴族的なものでした。唐第9代皇帝の玄宗の命より、蜀道嘉陵江の山水を大同殿に描いた。李思訓が大同殿に描いた泉からは夜に水がほとばしる音がたっていたとう伝承があります。なお李思訓の子供たちも絵画に優れていた。
岸駒
岸駒(がんく 1749/56年~1839年)岸駒は江戸時代中期から後期の絵師です。出身、出生は諸説ありますが石川県金沢市の説が有力である。幼少期は生活が苦しく、手習いしようにも師につくことができなかった。そのため店の暖簾 …
横山 華山
横山 華山(よこやま かざん 1781年または1784年~1837年)華山は江戸時代後期の絵師です。中国風に「黄華山」と署名している例もあり。出生や出身が諸説あり定かではないが、京都出身とされています。福井藩松平家の藩医 …
渡辺 崋山
渡辺 崋山(わたなべ かざん 1793年10月20日~1841年11月23日) 江戸時代後期に活躍した画家。また武士でもあり、三河国田原藩の藩士でもあった。田原藩士である父、渡辺定通の長男として生まれました。しかし定通が …
織田 杏斎
織田 杏斎(おだ きょうさい 1845年11月24日-1912年11月24日)明治時代の画家です。尾張国名古屋にて長男として生まれました。父は絵師の織田共樵、父に画について教わるが1862年に父が死去。その後は張晋斎に師 …
田中 訥言
田中 訥言(たなか とつげん 1767年-1823年)江戸時代後期の絵師です。復古大和絵の祖として知られています。門下には幕末の大和絵師の宇喜多一蕙や尾張国出身の復古大和絵画家の渡辺清などがおります。訥言自身は尾張国名古 …
西郷 孤月
西郷 孤月(さいごう こげつ 1873年-1912年)は明治時代に活躍した日本画家です。日本美術院の創設者のひとりでもあります。筑摩県筑摩郡松本深志町(現在の長野県松本市)に生まれる。1886年に小石川餌差町の私立知神学 …
谷 文晁
谷 文晁(たに ぶんちょう 1763年10月15日-1841年1月6日)は、江戸時代後期の南画家です。文晁の祖父は民政家、父は漢詩人として名をしられていました。このような環境で育った文晁は文才を持ち合わせ、漢詩が「五山堂 …
上原 古年
上原古年は梶田半古および松本楓湖(ふうこ)の門人です。1877年、東京浅草に生まれの版画家、日本画家です。初め梶田半古に師事した後、松本楓湖に師事して日本画を学んでいます。岡倉覚三(天心)に招かれて5年間、日本美術院に …
平福 百穂
平福百穂は日本画家、歌人で画家平福穂庵(順蔵)の四男として、秋田県仙北市に生まれました。本名は貞蔵。幼い時から秋田市の豪商である那波家のコレクションなどで、秋田蘭画を見て育ったが、1890年から父から絵を学びはじめる。 …
金島 桂華
金島桂華は広島県出身の日本画家です。 14歳の時に大阪に出て、西家桂州や平井直水といった画家のもとで日本画を学びました。 19歳で京都に移り、竹内栖鳳の画塾「竹杖会」に入門します。1918年の第12回文展で初入選すると …
中村 岳陵
中村岳陵は、本名を中村恒吉といい、日本画家です。日本画に油絵の表現を取り入れた、独自の日本画のスタイルで注目された作家です。1890年、静岡県下田市に生まれた中村岳陵は、初期のゴーギャン、ルソーといった西洋の画家に影響を …
伊藤 小坡
伊藤小坡は三重県伊勢市宇治浦田町に生まれ、京都を中心に風俗画、美人画を描いた日本画家です。歴史風俗画を得意としていました。伊勢にある猿田彦神社の宮司の長女として生まれています。幼少の頃より古典文学、茶の湯、柔術を習い、 …
石崎 光瑤
石崎光瑤は富山県南砺市に生まれの日本画家です。文展・帝展・新文展に数多くの作品を出品、京都市立美術専門学校の教授を務めるなど、大正・昭和前期を代表する日本画家として活躍しました。文展・帝展を中心に活動し、写実に基づく鮮 …
柳沢 寿江
小室 翠雲
小室翠雲は群馬県出身の日本画家であり、南画家です。 1874年、日本画家の小室桂邨の息子として生まれます。 南画を田崎草雲に学び、日本美術協会で受賞を重ね、日本美術院の会員となり、日本画会と南画会の幹事として名声を上げま …
狩野 栄信 (伊川院栄信)
狩野栄信(かのう ながのぶ)は江戸時代後期の作家で狩野派8代目の絵師です。7代目の狩野惟信の子として江戸で生まれ、1785年11歳で奥絵師として勤め始め、1802年に法眼(仏教における位)に叙す。1808年に父惟信が亡く …
菅 楯彦
「浪速の絵師」と呼ばれた日本画家で関西画壇の長老と呼ばれていた人物として有名なのが菅楯彦です。 鳥取県に生まれた菅楯彦は武家社会の崩壊により日本画家であった父が絵で生計を立てることにしたことがきっかけで生後間もなく大阪に …
狩野 探幽
江戸時代初期の狩野派の絵師で京都生まれ。狩野孝信の子になります。早熟の天才肌の絵師と評され安土桃山時代までの狩野派に典型的な、豪奢で迫力を感じさせる画風とは異なり、「淡麗瀟洒」と評される、簡明で余白を巧みに活用した作風を …
森 狙仙
森狙仙は、江戸時代後期に大阪で活躍した絵師です。狩野派や円山派を踏襲した写実を基調とする独自の画風によって知られています。はじめ、勝部如春斎について狩野派の技術を学び、如寒斎と号しました。天明4年(1784年)師の如春 …






