王 錫良

王錫良は、中国の美術工芸作家です。

1922年の景徳鎮に生まれ、若くから珠山八友の一人である王大凡に師事し、磁器と絵画を学びました。

1950年頃に在籍していた陶器科学研究院では、王大凡をはじめとする景徳鎮磁器の実力者たちと共に過ごし、目耳と腕を養いました。四十、五十代に差し掛かってからは祖国を旅し、自然に対する造詣を深め、創造に落とし込みました。

王錫良は、シンプルに表現された風景画や人物画を得意とします。中国絵画の潮流を汲み、かつその中で自然的で滑らかな構図が意識されています。高尚さを排し、自然へ帰するような作風が、中国で広く愛される彼の魅力です。

1979年には、景徳鎮で初めての「中国工芸美術大師(中国の人間国宝)」の受賞者となっています。2016年には個人作品のオークション総売上高が1億元(日本円で19億円)を超えており、名実ともに中国屈指の芸術家であるといえるでしょう。

山中 静逸(信天翁)

山中静逸(やまなか せいいつ)は愛知県碧南市出身の南画家、書家、政治家であり号を静逸または信天翁(しんてんおう)としました。

また、富岡鉄斎(とみおか てっさい)の生涯の友として知られる人物です。

山中静逸は1822年に愛知県碧南市に山中子敏(やまなか しびん)の二男として生まれます。父の山中子敏も文人であり画家でした。また、実家は東浦村の大地主で裕福な家庭だったといわれています。

幼少時代から大阪に出て篠崎小竹(しのざき しょうちく)に学んだが、1847年に父である山中子敏が亡くなり、家業を継ぎ寺子屋を開きました。
しかし、京都に出て国事に奔走していた二男である弟の死をきっかけに山中静逸は三男の弟に家業を継ぎ、漢学を学ぶため上京し朱子学者であった斎藤拙堂(さいとう せつどう)に学びます。
三年後には国事に尽くす為、京都に向かい梁川星巌(やながわ せいがん)、梅田雲浜(うめだ うんぴん)、頼三樹三郎(らい みきさぶろう)らと交わり、国事に尽力しました。
この頃に生涯の友となる富岡鉄斎と出会います。
安政の大獄では多くの同志を失い、難を逃れて身を隠し、幕政改革に奔走した。

明治維新後には岩倉具視(いわくら ともみ)とも親交を深め、1868年の鳥羽伏見の戦いでは、朝廷側の食料や軍事費の調達する役目を担い、明治天皇の東京遷都の際には御用掛も勤めました。
明治新政府となり、1869年に岩手県知事、1870年には宮城県知事と歴任しました。

京都で学者、詩人、画家としても活躍し南画においては日本国内のみならず海外でも高く評価されました。1873年すべての官職から引退、京都の下加茂に住み、文芸の道を楽しみました。
1885年に64歳の生涯を終え、明治政府より正五位を受け、1913年には従四位を受けました。

梶田 半古

梶田半古は、明治から大正にかけての日本画家です。
門弟には小林古径や前田青邨、奥村土牛らがおり、近代日本画界を語る上では重要な立ち位置にいる人物です。

東京出身で、家は代々幕府の鷹狩でしたが、父は彫金を業としていました。
苦しい家計を助けるために若い頃より輸出品の扇子や団扇、ハンカチに絵を描く仕事、いわゆるデザインをする仕事に従事し家庭を支えていたそうです。

絵については13歳の時に浮世絵師で楊洲周延の弟子・鍋田玉英より学びました。しかし、眼病や家庭の事情で長くは続かず、師が変わっては断念するを繰り返し苦悩の日々が続いておりました。
15歳の頃に就いた輸出品会社で下絵の仕事をしていた時、同じ会社にいた菊池容斎の門人・鈴木華邨より絵の教えを受け、華邨から菊池容斎の木版画集『前賢故実』を紹介されます。そこで全図を暗記するほどまでに模写し独学で人物画を修得するなど驚異的な努力を見せました。
この成果が翌年の東洋絵画共進会で褒状という形で現れ、その後1891年、日本画の革新を目指す日本青年絵画協会の結成に発起人の一人として加わるほどまでになりました。この頃の梶田半古は21歳です。

1895年には内国勧業博覧会で褒状を受賞。1896年には日本青年絵画協会が日本絵画協会に発展、1898年には日本美術院が創立される際に特別賛助会員となって活躍するなど、日本画界に目覚ましい貢献ぶりを見せました。

半古は1917年、48歳でこの世を去ります。令和になって墓じまいとなってしまった東京巣鴨にある梶田半古の墓石の傍らに、門弟の小林古径によって書かれた「梶田半古先生之碑」があったそうです。

半古は、当時の流行であった華やかで目を引く大作ばかりが重視される風潮に警鐘を鳴らしていたため、文展参加よりも小説や新聞の挿絵の仕事に多く取り組んでいました。そのためか、梶田半古の作品は所在が確認できない作品が多くあり、日本画界の重要人物でありながらその研究が進んでいないそうです。

藩 天寿

潘天寿は中国・浙江省寧波市に生まれた画家・美術教育家です。幼少期から書道、絵画、切手彫刻などに興味を持ちます。特に書道と絵画に熱中し生涯をささげる決意をしたほどでした。

学政時代は成績も優秀で、卒業後は教師として小学生を教えていました。1923年に中華民国女性労働者学校の教師として働き、上海美術アカデミーの中国絵画学科の講師も兼任しました。この頃に呉昌碩・王一亭・黄賓虹・朱一亭と知り合い、特に呉昌碩の影響を大きく受け花鳥画や山水画を多く描くようになりました。

その後も上海美術アカデミーの教授になったり、中国美術家協会副主任などにも任命されるなど、新中国の美術画壇に大きな影響を与えました。しかし、その後の中国文化大革命時代において潘天寿の美術思想は批判を受け、晩年は投獄生活を送るなど不遇の死を迎えてしまいます。革命後には潘天寿の名誉も回復し、現代では高い評価を得られており、同時期に活躍した斉白石、黄賓虹、呉昌碩と共に中国四大画家に並び称される作家となっています。

高橋 草坪

高橋草坪は日本の文人画家です。

文化元年頃に現在の大分県杵築市の商家・槇屋(高橋氏)休平の次男として生まれました。

本名は雨、字は草坪、元吉、通称は富三郎と言い、草坪はその号で、他に草坪寒民、草坪間人、草坪逸人などと号しました。

幼いころから絵に興味があり画才を現わしていた草坪は同郷の長谷部柳園に画を学びましたが、文政5年に田能村竹田が杵築を訪れたのを機に竹田に入門。その後竹田に画才を認められ、文政6年頃には竹田に従って初めての京遊に出ました。

そして竹田の友人である菅茶山、頼山陽、雲華上人、浦上春琴岡、田半江ら錚々たる文人と接して学問や作画の指導を受ける中で草坪の画技は一気に深まり、竹田の教え通りに世俗的な画風に染まることなく、勢力的に画技の追究を続けて行きました。

文人画家として名声も高まりますが、天保6年頃(所説あり)病により夭折しました。著書に家屋と人物描法のみを整理した『撫古画式』があります。

 

十三代 徳翁宗守 有隣斎

十三代 徳翁宗守 有隣斎は武者小路千家十三世家元です。

名は宗守、号は有隣斎・徳翁・宗安などで、聴松宗守に師事しています。

1913年に生まれ、第三高等学校をへて京都帝国大学文学部に進み国史学を専攻し、卒業後も大学院で日本文化史の研究に当たりました。

卒業後に武者小路千家12代聴松宗守(愈好斎)の娘千澄子と結婚、12代聴松宗守には息子がいなかった為婿養子となり、53年に13世宗守を襲名しています。

大学で学んだ知識を活かし、51歳で国内初となる茶道専門学校「千茶道文化学院」を開校、翌年には財団法人官休庵を設立させます。

大学での経験や学力、知識を持ち、茶儀に自らの学識を活かすなど聴松宗守と同じく学究肌の茶匠でした。

1983年の秋、古稀を境に徳翁の号を受け、1989年76歳の時に家督を長男に譲り、自身は宗安の号を襲名し隠居しました。

自分の意見を曲げず常に高みを目指し続け、茶道界において大変貴重な存在でありましたが86歳で逝去。著書に「利休とその道統」「新修茶道妙境」「茶花十講」などがあります。

黒田 悦子

黒田悦子は日本の画家です。 1942年、宮城県・石巻市に生まれました。 1962年に女子美術大学付属中等科入学し、1968年大調和展新人賞を受賞。 1971年女子美術大学専攻科を修了、その後シェル賞展で佳作を受賞など入選 …

大綱 宗彦

大綱宗彦は江戸時代後期の臨済宗の僧侶です。 安永元年京都に生まれ、6歳の時に大徳寺黄梅院、融谷宗通の下で得度を受け臨済宗大徳寺派の僧侶となりました。 臨済宗は仏の道を説くとともに茶の湯や書画をたしなむことを奨励した宗派で …

竹田 益州

 竹田 益州は昭和を代表する臨済宗の僧侶です。法諱は宗進、道号は益川、室号は金剛窟です。   1896年大分で生まれ、尋常小学校3年の時近くの施恩寺という禅寺に5、6日滞在したことが縁となり、1906年に滋賀県大津市堅田 …

岡田 米山人

岡田 米山人は江戸時代中期~後期の南画家です。 岡田半江はその子にあたります。 通称を岡田彦兵衛、あるいは米屋彦兵衛と称し一説には彦吉とも称しました。名を国、字は士彦、通称は彦兵衛、米山人は画号です。 若いころには播磨神 …

野呂介石

野呂介石は江戸時代後期に活躍した日本の文人画家です。 主に花鳥水墨画を得意とし、詩文にも定評がありました。 紀州藩に仕えており、祇園南海や桑山玉洲と共に紀州三大南画家と呼ばれています。また当時は長町竹石、僧愛石らと共に「 …

藤村 庸軒

藤村庸軒は、千利休の孫にあたる千宗旦の直弟子であり、山田宗徧、鈴木普斎、久須見疎安らとともに「宗旦四天王」と呼ばれる茶匠です。表千家の流れをくむ庸軒流の開祖であり、漢詩にも精通した文化人でもあります。 庸軒は表千家久田流 …

後藤瑞巌

後藤瑞巌は明治から昭和にかけての臨済宗の僧です。 岐阜県安八群南にて父・後藤吉左衛門、母・なおの五男として生まれ、小、中、高、大学と進学し、東京帝国大学在学中に鎌倉円覚寺にて参禅し得度(出家)します。 大学卒業後は渡米、 …

石川 丈山

石川丈山は安土桃山時代から江戸初期にかけての武将、文人です。江戸初期において漢詩の代表的な人物です。漢詩以外にも儒学、茶道、書道の他に庭園の設計にまで精通しており、『煎茶家系譜』の初代に丈山の名があることから煎茶の祖とも …

本阿弥 光悦

1558年~1637年 本阿弥 光悦(ほんあみ こうえつ)は、江戸時代初期に活躍した、書家、陶芸家、蒔絵師、芸術家、茶人等多岐にわたり活躍した方になります。生まれは、刀剣の鑑定を家業にする家元の長男として誕生し刀剣も触れ …

王 一亭(王震)

王一亭は書画家であり、実業家であり、政治家でもある稀有な経歴を持つ作家です。どの分野でも非凡な才能を発揮した著名人です。 王一亭には様々な名があり作品によって使い分けていました。本名は「震」という名ですが、作品名には「白 …

与謝 蕪村

与謝蕪村は松尾芭蕉・小林一茶と並び江戸時代における三大俳人に選ばれている俳人です。 与謝蕪村は摂津国(現大阪府)で生まれ、20代の頃に江戸に下り俳諧を学びます。27の頃に俳諧の師が亡くなり下総国(現茨城県)に住みますが、 …

中島 華陽

中島華陽は、江戸末期から明治にかけて活躍していた絵師です。中島華陽の活躍したこの時代は、従来の狩野派から写実性を取り入れた円山四条派が主流となっている時代でした。そんな時代に、自由な作風と独自の世界観で評価を得ていた横山 …

矢野 橋村

矢野橋村は愛媛県生まれの大正から昭和にかけて活躍した南画会の重鎮です。 号は知道人、橋村、橋村子明、古心庵、大来山人とあります。 1890年に愛媛県に生まれた矢野橋村は1907年に大阪に転居します。同じく1907年に大阪 …

狩野 尚信

狩野 尚信(かのう なおのぶ 1607年~1650年)は江戸時代初期の狩野派の絵師です。狩野探幽の弟にあたります。1607年、京都にて生まれます。1623年、徳川家光が上洛した際にお目見えし、家光から絵事を申し付けられま …

梶 喜一

梶喜一は京都府出身の日本画家で、鯉をよく描いた作家として知られています。 1904年に生まれ、16歳の時に都路華香に師事する一方で関西美術洋画研究所にも通って日本画を学びました。1924年に京都絵画専門学校に入学し、19 …

藤井 松林

1824年~1893年 藤井 松林(ふじい しょうりん)は、福山城下の長者町の武家屋敷で誕生しました。松林は、14歳の時に、御絵図師加勢になり絵画での腕を発揮する初めと言われております。この頃から、四条派の重役だった高田 …

田能村 竹田

田能村竹田は、豊後国岡藩(大分県竹田市)出身の南画家です。 1777年に生まれ、実家は岡藩主のお抱えの医者の家系でした。しかし生まれつき体の弱かった竹田は、22歳の時に藩主から医者の道に進まなくてもよいと言われ、学問の道 …

久隅 守景

久隅 守景(くすみ もりかげ 生没年不詳)は江戸時代前期の狩野派の絵師です。狩野探幽の弟子で、最も優秀な後継者と言われております。しかし守景の人生を記した資料や文献が少なく、謎が多き画家であります。生まれも不詳であり、狩 …

椿 椿山

1801年~1854年 椿 椿山(つばき ちんざん)は江戸時代後期の日本の文人画家になります。現東京都文京区小石川出身。旗本槍組同心の椿嘉左衛門定重が54歳のとき末子として誕生。椿山が7歳の時に父がなくなり、長じて世襲制 …