乃木 希典

乃木 希典は明治を代表する陸軍軍人です。
武士道的な忠誠・献身の象徴的存在として広く知られ、「軍神」と称されました。
また、漢詩や和歌を多く残すなど、文学的な側面も併せ持っていました。

1877年の西南戦争では薩摩藩士による反乱鎮圧の任務にあたりますが、連隊旗を敵に奪われるという失態を経験。乃木はこの事件を生涯の恥とし、のちの徹底した忠誠心や自己犠牲的な行動に影響を与えたとされています。

また、1896年からは日本統治時代の台湾で総督を務め、治安維持やインフラ整備を進めました。
しかし、官僚との対立などもあり、短期間で退任しています。

1904年からの日露戦争では、第3軍司令官として「旅順要塞攻囲戦」を指揮。第3軍は3度の総攻撃と白襷隊の突撃を敢行し、最終的に旅順を陥落させますが、代償として多くの死傷者を出しました。

戦後は学習院院長に就任し、皇族・華族の教育に尽力しました。
1912年に明治天皇が崩御すると、葬儀の日に妻とともに殉死し、日本中に衝撃を与えました。

近代では、軍神としての称賛とともに、犠牲を多く出した愚将としての批判もあり、評価は二分されています。

裏千家十六代 玄黙宗室 坐忘斎

1956年、裏千家十五代汎叟宗室鵬雲斎の長男として誕生し、同志社大学文学部心理学科卒業後の2002年12月に鵬雲斎家元の跡を継ぎました。

今現在でも多種多様な活動を行っている玄黙宗室は、文筆家としての活動も盛んに出版作業を行っております。茶人としても多数の作品を展示しており、襲名から僅か半年の間に50点以上の作品や好み物を発表し、活発的な活動から様々な作品の製作意欲の高さを感じさせられます。

現在は若い茶道人の育成と、茶道文化を明確化することに力を注いでいます。

白隠 慧鶴

白隠 慧鶴は、江戸時代中期に活躍した禅僧です。
臨済宗の中興の祖として知られており、白隠禅師とも呼ばれています。

白隠は、1686年に駿河国原宿(現・静岡県沼津市原)で生まれました。
幼い頃に寺で地獄にまつわる話を聞き、その恐ろしさから数日間泣き伏せました。
そして「どうすれば救われるのか」と考えた白隠は、15歳で松蔭寺単嶺和尚のもとで出家します。
その後は各地を巡りながら厳しい修行に励み、やがて深い悟りに至りました。

白隠は、坐禅や公案修行を重視するとともに、日常生活のあらゆる行為を修行と捉える姿勢を説きました。
また、仏法をより広く庶民に伝えるために多くの書画を残しており、力強い筆致の禅画や、地獄・極楽を描いた作品は親しみやすく、人々に禅の心を伝える役割を果たしました。

白隠の教えは、後世の弟子たちによって今日まで受け継がれています。
彼は精神文化や美術の分野にも大きな影響を与えた、日本の禅を語るうえで欠かせない人物といえるでしょう。

島崎 藤村

島崎 藤村は、日本を代表する文豪の一人です。

1872年、島崎は筑摩県馬籠村(現在の岐阜県中津川市馬籠)で生まれました。
代々本陣や庄屋を務めた家柄で、父・島崎正樹は国学者でした。
10歳の頃に上京し、泰明小学校に入学。その後、明治学院普通部本科に進学し、在学中にキリスト教の洗礼を受けました。

卒業後は、北村透谷らとともに文学雑誌『文学界』を創刊し、詩人としての活動を本格化させます。
またこの頃、島崎は女学校の教員を務めていましたが、教え子の佐藤輔子を愛してしまい、翌年に辞職しています。

1897年、詩集『若菜集』を発表し、浪漫主義の詩人として注目を集めます。
以降、詩から小説へと活動の幅を広げ、自然主義文学の旗手として地位を確立しました。

1943年には『東方の門』の連載を始めましたが、同年、脳溢血のため亡くなりました。
最期の言葉は「涼しい風だね」であったと伝えられています。

島崎は、時代の流れと自らの経験を重ねて作品を変化させた、日本近代文学において重要な作家として今でも高く評価されています。

代表作には『破戒』『夜明け前』『新生』などがあります。

西郷 南洲(隆盛)

西郷南洲(さいごう なんしゅう)は、江戸時代末期から明治時代初期にかけて活躍した日本の政治家・武士・軍人で、幕末維新の立役者の一人です。

自分の立場にかかわらず周囲の人を大切にし、下や仲間に慕われ、多くの人をまとめる力がありました。義務・誠実・忠義を重んじ、自己中心ではなく大義のために動きました。

歴史的には明治維新の立役者として高く評価され、「西郷どん」として現代のドラマや書籍でも親しまれています。

簡単に言うと、西郷南洲は 「正義感と誠実さを持ち、人々に慕われながら行動した、最後の武士的な人物」 です。

書画・行書を多く制作した一面もあり、現代でも直筆の作品は高い人気を持ちます。

親鸞

鎌倉時代の僧・親鸞(しんらん)は、浄土真宗の宗祖として知られ、「親鸞聖人」と尊称されています。

1173年に京都で生まれ、争いや災害、疫病、大飢饉が相次ぐ不安定な世の中で幼少期を過ごします。

叔父に伴われて9歳で出家し、比叡山延暦寺にて修業に励みました。
しかし、20年修行を続けても悩みが絶えなかった親鸞は、山を下りて聖徳太子ゆかりの六角堂に籠もることを決めました。

六角堂で過ごしてしばらく経ったある晩、聖徳太子が夢に現れました。
親鸞は、これをきっかけに法然のもとを訪ね、教えを学ぶようになります。

その後、親鸞は「阿弥陀仏の力を信じて念仏を唱えれば、善人・悪人関係無く皆が救われる」という法然の教えを広めましたが、他宗から強い反発を受けたことで朝廷が弾圧に踏み切り、越後へ流罪となってしまいます。

のちに罪を許された親鸞は関東へ向かい、布教活動を行いながら約20年間滞在しました。
63歳になると京都へ戻り、亡くなるまで布教と執筆活動に励んだといいます。

親鸞の教えは受け継がれ、今では日本国内で最多の信者数を誇る宗派として、人々の心の支えとなっています。

自筆の書や、後年の復刻工芸などは美術品としても親しまれております。

勝 海舟

勝海舟は、幕末から明治期にかけて活躍した政治家・軍人・思想家で、日本の近代化に大きな影響を与えた人物です。 勝海舟は、幕府海軍の創設に力を尽くし、日本の近代海軍の基礎を築きました。1860年には咸臨丸に乗って、日本人とし …

東皐 心越

東皐 心越は、江戸時代初期に中国から渡来した禅僧です。 心越は、1639年に中国浙江省で生まれました。 幼い頃より仏門に入り、1676年に清による圧政から逃れるため、日本へ亡命しました。 長崎に移住し、日本各地を訪れてい …

清巌 宗渭

清巌 宗渭は、江戸時代前期に活動した臨済宗の僧です。 近江(滋賀県)に生まれ、9歳で大徳寺の「玉甫紹琮」について得度しました。 師が亡くなると「賢谷宗良」のもとにつきました。 のちに大徳寺第170世を務め、多くの寺院の開 …

隠元 隆琦

隠元 隆琦は、中国福建省生まれの禅僧です。 臨済宗や曹洞宗と並ぶ、日本の三大禅宗のひとつである「黄檗宗」の開祖として知られています。 1592年に福建省で生まれた隠元は、28歳で出家。35歳で悟りを開きました。 長崎の唐 …

小堀 遠州

小堀 遠州は、江戸時代初期に活躍した茶人・作庭家・建築家です。 「遠州」という名前は通称であり、本名は「小堀 政一」です。 1579年、近江国(現在の滋賀県)に生まれた遠州は、父親から英才教育を受けて育ちました。 159 …

仙厓 義梵

仙厓 義梵は、脱力感のあるユニークな禅画で知られる禅僧です。 1750年、仙厓は美濃(現在の岐阜県)に貧しい農民の子として生まれました。11歳で出家得度し、「仙厓義梵」の名を与えられます。 40歳で聖福寺の住職となり、6 …

即非 如一

即非如一は、江戸時代前期に中国・明から日本へ渡来した臨済宗の僧侶です。 1616年、福建省福州府福清県に生まれた如一は、早くに父親を亡くしました。18歳で出家した後、黄檗宗の開祖である「隠元隆琦」に師事しています。 隠元 …

細井 広沢

細井 広沢は、江戸時代中期に活躍した儒学者・書家・篆刻家です。 1658年、遠江国掛川(現在の静岡県)に生まれた細井は、11歳で江戸に出ました。 その後は、1672年から坂井漸軒に「朱子学」を、1677年から北島雪山・都 …

伊藤 蘭嵎

伊藤 蘭嵎は、江戸時代中期に活躍した儒学者です。 1694年、蘭嵎は儒学者の「伊藤仁斎」の五男として京都に生まれました。 父親の仁斎は、一般的な朱子学よりも古義学こそ正しい儒学であると考え、町民に学問を広めた人物です。 …

小田 雪窓

1901年、小田雪窓は鳥取県に生まれました。 1913年、12歳で故郷鳥取の廣徳寺にて得度し、臨済宗の僧となります。その後、修行を重ね、1921年には18歳で京都へ移り、妙心寺に落ち着きました。 1947年、師である瑞巌 …

立花 大亀

立花大亀は臨済宗の僧侶であり、茶道や書道、禅の世界で名を馳せた人物です。 大阪府に生まれた大亀は、22歳の時に南宗寺で得度(僧侶になるための出家)します。その後は臨済宗大徳寺派の徳禅寺住職を経て、大徳寺の住職まで務めまし …