親鸞

鎌倉時代の僧・親鸞(しんらん)は、浄土真宗の宗祖として知られ、「親鸞聖人」と尊称されています。

1173年に京都で生まれ、争いや災害、疫病、大飢饉が相次ぐ不安定な世の中で幼少期を過ごします。

叔父に伴われて9歳で出家し、比叡山延暦寺にて修業に励みました。
しかし、20年修行を続けても悩みが絶えなかった親鸞は、山を下りて聖徳太子ゆかりの六角堂に籠もることを決めました。

六角堂で過ごしてしばらく経ったある晩、聖徳太子が夢に現れました。
親鸞は、これをきっかけに法然のもとを訪ね、教えを学ぶようになります。

その後、親鸞は「阿弥陀仏の力を信じて念仏を唱えれば、善人・悪人関係無く皆が救われる」という法然の教えを広めましたが、他宗から強い反発を受けたことで朝廷が弾圧に踏み切り、越後へ流罪となってしまいます。

のちに罪を許された親鸞は関東へ向かい、布教活動を行いながら約20年間滞在しました。
63歳になると京都へ戻り、亡くなるまで布教と執筆活動に励んだといいます。

親鸞の教えは受け継がれ、今では日本国内で最多の信者数を誇る宗派として、人々の心の支えとなっています。

自筆の書や、後年の復刻工芸などは美術品としても親しまれております。

勝 海舟

勝海舟は、幕末から明治期にかけて活躍した政治家・軍人・思想家で、日本の近代化に大きな影響を与えた人物です。

勝海舟は、幕府海軍の創設に力を尽くし、日本の近代海軍の基礎を築きました。1860年には咸臨丸に乗って、日本人として初めて太平洋横断航海を成功させています。また、西洋の海洋技術を積極的に取り入れるなど、海軍の近代化を強く推進しました。

中でも特に有名なのが、1868年の江戸無血開城です。西郷隆盛との会談を通じて、戦火を避けた平和的な城の引き渡しを実現しました。これにより、戊辰戦争での無駄な犠牲を避けることができたのです。この行動は、勝の現実的で平和的な考え方をよく表しています。

また、教育者・思想家としても大きな役割を果たしました。神戸海軍操練所や海軍兵学寮などで多くの人材を育て、西洋の科学技術や思想を積極的に取り入れる姿勢は、多くの志士たちに影響を与えました。『海舟日記』などの著作も残しており、当時の様子を知る貴重な資料となっています。

明治新政府でも、海軍卿などの役職を務め、1885年には伯爵に任じられました。その後も、元老院議官や枢密顧問官として新政府に貢献しています。

坂本龍馬とも深い関係があり、龍馬に大きな影響を与えたことでも知られています。開かれた進歩的な考え方は多くの人に支持され、今もその精神は語り継がれています。

書画作品などを残しており、現在でも美術的評価を得ております。

東皐 心越

東皐 心越は、江戸時代初期に中国から渡来した禅僧です。

心越は、1639年に中国浙江省で生まれました。
幼い頃より仏門に入り、1676年に清による圧政から逃れるため、日本へ亡命しました。

長崎に移住し、日本各地を訪れていた彼は、清のスパイと疑われ幽閉されました。
しかし、半年ほど経った頃に水戸藩の「徳川光圀」の尽力により釈放されます。
その後は水戸に移り、中国の文化を伝えるとともに光圀との親交を深めました。

心越と光圀に関するこんな逸話も残されています。

『ある日光圀は、心越の力量を試すため茶室に呼んだ。
心越がお茶を口にしようとした瞬間、準備しておいた鉄砲を家来に一発放たせた。
しかし、心越は落ち着いて一滴もこぼさず飲み干した。

光圀が「失礼した」と詫びると、「鉄砲は武門の常、ご配慮無用」と答え、安心した光圀はお茶を飲もうとした。
その時、心越は「喝」と大声で一喝。光圀の手は思わず震え、茶碗を落としてしまうが、心越は「喝は禅家の常でございます」と言った。』

と、このように心越を試そうとしたのにかえって自分が試されてしまったのです。

彼は、詩文書画篆刻などに優れており、中国の様々な文化を日本に伝え、日本の発展に貢献しました。
また、日本における琴楽の中興の祖とされています。

清巌 宗渭

清巌 宗渭は、江戸時代前期に活動した臨済宗の僧です。

近江(滋賀県)に生まれ、9歳で大徳寺の「玉甫紹琮」について得度しました。
師が亡くなると「賢谷宗良」のもとにつきました。

のちに大徳寺第170世を務め、多くの寺院の開創に関わりました。

清巌は書をよく行いました。
南宋の書家である「張即之」の影響を強く受けていたとされています。

また、茶の湯にも通じており、「清巌禅師十八ヶ条」という茶の湯に関する書を残しています。

千利休の孫である「千宗旦」の参禅の師でもあり、彼に教えを説きました。

清巌の作品は、茶席の掛物として高い人気を誇り、その一行書は現代においても高い評価を得ています。

隠元 隆琦

隠元 隆琦は、中国福建省生まれの禅僧です。

臨済宗や曹洞宗と並ぶ、日本の三大禅宗のひとつである「黄檗宗」の開祖として知られています。

1592年に福建省で生まれた隠元は、28歳で出家。35歳で悟りを開きました。

長崎の唐人社会から来日してほしいという強い要望があり、四度目でこれを受け、63歳で弟子20人と共に来日しました。その後、宇治に新たな寺を創建し、名前を中国の自坊と同じ「黄檗山萬福寺」としました。

また、隠元は煎茶・隠元豆・孟宗竹(たけのこ)・木魚などを日本へ持ち込んだ事でも知られています。

隠元は、掛軸や語録、書物など多くの作品を残しました。

弟子である木庵性瑫即非如一とともに「黄檗の三筆」と称されるほど、書の腕前は見事だったといいます。

黄檗宗の僧に対する規則を定めるなど、停滞していた日本の禅宗の発展に貢献しました。

禅の教えや隠元が持ち込んだ文物は、日本の歴史や文化の発展に大きく影響を与えています。

代表作には『隠元禅師語録』『普照国師語録』などがあります。

 

小堀 遠州

小堀 遠州は、江戸時代初期に活躍した茶人・作庭家・建築家です。

「遠州」という名前は通称であり、本名は「小堀 政一」です。

1579年、近江国(現在の滋賀県)に生まれた遠州は、父親から英才教育を受けて育ちました。
1593年より「古田織部」から茶の湯を学び、茶道や建築など様々な分野で活躍しました。

「名人になる」と織部に評価され、古田や千利休の流派を基盤とした「遠州流」という流派を確立しました。
簡素な中に華やかさを交えた小堀独自の美意識は、「綺麗さび」という言葉で知られています。

生涯で400回もの茶会を開催し、幅広い階層の人々と交流を深めました。

彼が建築や造園に携わった代表的な作品には、『南禅寺金地院』『桂離宮』『仙洞御所』などがあります。

仙厓 義梵

仙厓 義梵は、脱力感のあるユニークな禅画で知られる禅僧です。 1750年、仙厓は美濃(現在の岐阜県)に貧しい農民の子として生まれました。11歳で出家得度し、「仙厓義梵」の名を与えられます。 40歳で聖福寺の住職となり、6 …

即非 如一

即非如一は、江戸時代前期に中国・明から日本へ渡来した臨済宗の僧侶です。 1616年、福建省福州府福清県に生まれた如一は、早くに父親を亡くしました。18歳で出家した後、黄檗宗の開祖である「隠元隆琦」に師事しています。 隠元 …

細井 広沢

細井 広沢は、江戸時代中期に活躍した儒学者・書家・篆刻家です。 1658年、遠江国掛川(現在の静岡県)に生まれた細井は、11歳で江戸に出ました。 その後は、1672年から坂井漸軒に「朱子学」を、1677年から北島雪山・都 …

伊藤 蘭嵎

伊藤 蘭嵎は、江戸時代中期に活躍した儒学者です。 1694年、蘭嵎は儒学者の「伊藤仁斎」の五男として京都に生まれました。 父親の仁斎は、一般的な朱子学よりも古義学こそ正しい儒学であると考え、町民に学問を広めた人物です。 …

小田 雪窓

1901年、小田雪窓は鳥取県に生まれました。 1913年、12歳で故郷鳥取の廣徳寺にて得度し、臨済宗の僧となります。その後、修行を重ね、1921年には18歳で京都へ移り、妙心寺に落ち着きました。 1947年、師である瑞巌 …

立花 大亀

立花大亀は臨済宗の僧侶であり、茶道や書道、禅の世界で名を馳せた人物です。 大阪府に生まれた大亀は、22歳の時に南宗寺で得度(僧侶になるための出家)します。その後は臨済宗大徳寺派の徳禅寺住職を経て、大徳寺の住職まで務めまし …

愛新覚羅 溥傑

愛新覚羅 溥傑は、清・満洲国の皇帝である愛新覚羅溥儀の同母弟です。 ラストエンペラーの実弟として、波乱万丈な生涯を歩みました。 皇帝一族である愛新覚羅家は、その政治的・歴史的な役割のほかにも書家として高名です。 書の格と …

呉 清源

呉清源は、昭和期に日本で活躍したプロの囲碁棋士です。その活躍から「昭和の棋聖」とも呼ばれております。 生まれは1914年の中国福建省、その後は北京で過ごし、幼少の頃より父から囲碁を教わっていました。非凡な実力はこの頃から …