前 史雄

前史雄さんは沈金の技術で人間国宝(重要無形文化財)に認定された漆芸家です。
沈金とは、輪島塗の加飾技法のひとつで、漆器にノミなどの刃物で模様や絵を彫り込み、そこに金箔や金粉を刷り込んだり貼ったりする技法で、沈金の彫り方には、線、点、こすり、片切り彫り、という4種類の技法があります。
前史雄さんはこのほかに「角のみ」という技法を新たに考案した人物です。
前史雄さんが考案した「角のみ」という技法は沈金ノミで少しづつ削っていく技法です。
前史雄さんの作品は奥深い絵画的表現と自らで編み出した鑿による彫跡が特徴であり、それらを見事に融和させた作品は見目麗しく沢山の人を魅了します。
前史雄さんはそのような作品を数多く世の中に生み出しております。

前史雄さんは1940年に「前大峰」氏の元に生まれます。
金沢美術工芸大学を卒業後には、故郷の中学、高校で美術教師を務めるつつも「前大峰」氏に輪島塗の沈金技法を学びました。1968年に日本伝統工芸展に初入賞した後には、1973年に文部大臣賞と受賞し、1989年より石川県輪島漆芸技術研修所次長に就任。
1999年には重要無形文化財(人間国宝)に認定されました。

角 偉三郎

角偉三郎は1940年生まれの漆工芸作家です。

父親は輪島塗の下地職人で母親は蒔絵職人という、漆塗一家に生まれました。
1955年に沈金の名人である「橋本哲四郎」に弟子入りし技術を学び、20代前半に「橋本哲四郎」から学んだ沈金技法を生かし絵画的なパネルを作成しました。
その事をきっかけに1962年に修行を終えるとアメリカの現代美術に強い影響を受けながら、沈金技法を活かした漆パネルなどの絵画風の作品に取り組み、日本現代工業美術展に初入選します。

その後は、数々の賞を受け活躍を重ねて日展無鑑査となりますが、1970年代の初めに石川県・柳田村(現在の能登町)合鹿で古い置き忘れの合鹿椀に出会い、魅了されたことが転機となり、漆を素材として活用した芸術表現から漆を素材として生活の中で活用する器に価値を見出しました。

1982年、角 偉三郎氏は芸術家として一線を退きます。そして初めて実用の椀だけの個展を開催致しました。
以降は漆と器の可能性や、故郷・輪島の職人との協働に深く思いを巡らせ、独自の境地を切り開いていきました。
1994年にはドイツのベルリン国立美術館にて日本人で2人目の個展が開催され、作品はベルリン国立美術館、英国のヴィクトリア・アルバート王立美術館、フランスのパリ民族美術館でも所蔵されました。
その後も全国の百貨店等や画廊で個展を開催する等の活動を行っていきました。
また、角氏の作品はベルリンでの展覧会を重ねたことによりヨーロッパ等の海外での評価も高まり人気を博しています。
2005年、65歳で逝去されました。

川之邊 一朝

「川之邊一朝」は幕末から明治時代の幸阿弥派の伝統的な蒔絵を伝承した蒔絵師です。
「川之邊一朝」の代表作品として11年もの歳月を費やして完成させた超大作「菊蒔絵螺旋御用棚」があります。
「川之邊一朝」は幼児期より書籍を好み書籍に親しみ書籍の模写をしていました。
その姿を見た両親は蒔絵師にしようと考えました。
その後、「川之邊一朝」が12歳の時に徳川将軍家細工所棟梁幸阿弥因幡長賢の仕手頭である武井藤助に入門を勧められて通い弟子になり修行を重ねました。
「川之邊一朝」は21歳で独立した際に初めて一朝と名乗ります。
その2年後には徳川家の蒔絵方となり文久1年に婚礼調度に携わる等の活躍致しました。
明治維新直後は、幕府が滅亡し辛酸をなめましたが北上する旧幕府脱走兵の韮山笠40~50個に金粉を蒔絵したり横浜貿易のハンカチ箱や食卓、花瓶等に蒔絵を施して生活をし飢えや空腹を凌いだとのことです。
その後は、明治6(1873)年のウィーン万国博「富士十二景蒔絵書棚」出品。
第1回内国勧業博覧博・花紋賞、第2回内国勧業博覧博・妙技賞、明治33年にはパリ万国博覧博・名誉大賞等の内外の博覧会で活躍しております。
11年もの歳月を費やした御一聖一個の書棚(菊蒔絵螺旋書棚)は明治36(1903)年に完成させます。
その功績を高く評価された「川之邊一朝」は漆工会の発展に貢献したとして正六位の位階を受けております。
明治43(1910)年、81歳で没し、良隠院探微一朝日充居士として今戸の妙高院に葬られました。

神坂 雪佳

神坂雪佳は、絵師としてだけでなく、優れた工芸品デザイナーとしても明治から昭和にかけて活躍し、京都の地で琳派の復興に大きく貢献するなど、多くの功績を残しました。また、その典雅な作風によって海外でも非常に高い評価を受けている日本人芸術家の一人です。

雪佳は、明治維新を目前に控えた1866年、京都御所に仕えた武士・神坂吉重の長男として生まれました。幕末から明治にかけての激動の時代、武士たちは職を失い、その子息たちも新たな生き方を模索せざるを得ませんでした。武士にとっては苦難の時代の到来でした。

雪佳は16歳の時、四条派の絵師・鈴木瑞彦に師事し、画家としての道を歩み始めます。西欧文化が流入する明治の時代にあっても、雪佳の目の付け所は一味違っていました。彼は、日本の伝統的な装飾美術こそが自身の進むべき道であると見定め、それを志すようになります。

23歳の時、工芸会で指導的立場にあった図案家・岸光景に入門し、工芸意匠を学び始めました。光景のもとで図案制作に取り組む中、雪佳の才能と努力は図案にとどまらず、染織や陶芸など京都の伝統的な工芸分野にも多大な影響を及ぼすようになります。彼が関わった工芸作品の評価は次第に高まり、その名声は広がっていきました。

雪佳の絵画作品は、京都に継承されてきた伝統と雅の文化を、独自の解釈と平明な手法によって表現したもので、情緒豊かな季節感を湛える草花や花鳥画など、彼ならではのユニークな作品を多数生み出しました。中でも、琳派の特徴である大胆なデフォルメやクローズアップによる構成、さらに宗達に由来する「たらし込み」などの技法を取り入れた作品は、華やかでモダンな雰囲気を醸し出し、近代琳派の確立に寄与しました。

その後も雪佳は絵画にとどまらず、人々の暮らしを彩るあらゆる分野で才能を発揮し、京都の工芸界を活性化させました。非常に多才であり、まさに総合デザイナーと呼ぶにふさわしい人物です。

初代 村瀬 治兵衛

現在三代目まで続いている村瀬治兵衛、その初代は名古屋の木地師の家に生まれました。木地職人としての技量は非常に高く、削り落とした木が透けて見えるほどに薄い極薄挽きを得意としています。

しかし、初代治兵衛は木地師の技量だけでは満足しませんでした。そこで漆塗りを始めます。ちょうどそのころ北大路魯山人に出会い、漆塗り用の椀や器の木地の制作を依頼されます。これがきっかけとなり、初代治兵衛は自らの塗り方を確立していきます。ときには魯山人から直接指導を受けたこともあったようです。

こうして、繊細な薄挽きの中に、削った木肌の大胆さが感じられる治兵衛作品の特徴ともいえる部分が完成します。

息子に二代目を継がせた後は、作陶の道に進みます。次第にその腕も上達し、最終的には表千家・裏千家から極め書きをもらうほどになります。

音丸 淳

音丸淳は香川県出身の漆工芸家です。父は人間国宝、音丸耕堂で、幼い頃よりその技術を学んでいました。1951年の日展で初入選を果たし、その後も4回入選しています。東京美術学校工芸科を卒業後は、イタリアへ留学し、ブレラ美術大学にて海外の芸術を学びました。帰国後は日本伝統工芸展にて文化財保護委員長賞や総裁賞を受賞、さらに1984年には紫綬褒章、1999年に勲四等旭日小授章受章など多大な功績を残しています。

父から学んだ伝統的な讃岐彫の彫漆の技法と、自ら創作する絵画的な意匠の掛け合わせは、日本伝統の漆芸でありながら現代的デザインをもつものとなり、その作品は国内のみならず国外でも高く評価され人気となっています。