渡辺 崋山

渡辺 崋山(わたなべ かざん 1793年10月20日~1841年11月23日)
江戸時代後期に活躍した画家。また武士でもあり、三河国田原藩の藩士でもあった。田原藩士である父、渡辺定通の長男として生まれました。しかし定通が養子であることや、定通が病気がちで医療費がかかったことにより、幼少期は貧窮の中で育ちました。画家としてみた崋山は年少の頃より生計を支えるために画業の道を志しました。出始めは大叔父にあたる平山文鏡に画の手ほどきを受け、続いて白川芝山に師事しましたが、付届け(俗にいう賄賂)ができていなかったために破門されます。父定通はこれを憐み、つてを頼り金子金陵に弟子入りを頼み、受け入れられます。金陵は崋山に目をかけたことで崋山の画力は向上しました。また金陵の師である谷文晁にも教えを受けた際に、文晁は崋山の才能を見抜きます。それもきっかけになり崋山は師文晁に倣って南画のみならず様々な系統の画派を広く吸収していきました。画家を志した理由は幼少期の貧しさ故であったが、その才が多きく花開き、また画家になる過程で出会った人脈などは崋山にとって発想をおおきくするために得がたいものになりました。

西山 翠嶂

西山 翠嶂(にしかま すいしょう)1879年4月2日~1958年3月30日は、大正から昭和にかけて活躍した日本画家になります。京都区伏見区の出身の作家で竹内栖鳳に日本画を学んだ経歴があります。1894年から各展覧会や博覧会で入賞を重ね、同門の西村五雲、橋本関雪とともに栖鳳門下として名を馳せました。努力家でもあり京都市美術工芸学校へも入学し日本画の更なる研鑽に励みました。後に翠嶂は竹内栖鳳の女婿となります。その後、文展、帝展に作品を出品し受賞を重ね1929年には抵抗美術院会員に推薦されるようになり、1937年に帝展が改組された後は帝国芸術院会員を勤めるとともに新文展審査員の職責を果たしました。竹内栖鳳の死後1944年に帝室技芸員に任命され、日本画壇の長老として重んじられました。70代になっても製作を続け、栖鳳の画風を継承した翠嶂の作域は人物、花鳥、動物、風景等に及ぶがその中でも得意としたのが、京都出身ならではの円山派や四条派を範とした人物、動物画になります。翠嶂は、後進の育成にも励み、母校の都市立絵画専門学校で教授および校長を務め、1921年頃自身の画塾「青甲社」を設立し技法を指導しました。輩出者には堂本印象、中村大三郎、上村松篁、森守明等の多くの門弟がおります。晩年には日展運営会理事、芸術院会員選考委員を務め日本美術界の発展に尽力しました。これらの功績により1957年に文化勲章を受章しました。1958年に心筋梗塞により京都市東山区の自宅で死処しました。

 

寺崎 広業

寺崎 広業(てらさき こうぎょう)1866年4月10日~1919年2月21日 秋田に誕生した寺崎は、幼少の頃父の職業が失敗し祖母によって育てられました。幼い頃から絵を描くことが好きで、その時から優れていたといいます。高校を中退後、素麺業を行いつつ、秋田医学校にも入学したが学費が続かず退学。好きな絵の道へ戻り16歳で手形谷地町の秋田藩御用達絵師だった狩野派の小室秀俊に入門、鹿角に至った時戸村郡長の配慮で登記所雇書記になり、生活はようやく安定したが絵に対する気持ちは少しも変わらなかった。寺崎は、再度放浪の旅へ出て足尾銅山で赴いて阿仁鉱山で知り合った守田兵蔵と再会し、紹介された旅館にお世話になり美人画を書きその絵で名を上げました。その後結婚し初の門下生稲田吾山を迎え入れ1898年に東京美術学校の助教授になった。校長の岡倉天心斥運動がおこり、天心派の広業は美校をやめた。岡倉と橋本雅邦は日本美術院を興し、橋本の門下の横山大観、下村観山らと広業もこれに参加した。1904年の日露戦争の従軍画家となり、そこで経た経験を生かして木版画による、戦争絵、美人画、花鳥画を多く描いております。1912年に文展に出品した「瀟湘八景」が同名の大観の作品とならび評判作となりました。その後、1913年美術学校の日本画主任、1917年に帝室技芸員を命ぜられ、芸術家として斯界の最上段に立つ様になったが病気を患い、1919年54歳でこの世を去りました。

西郷 孤月

西郷 孤月(さいごう こげつ 1873年-1912年)は明治時代に活躍した日本画家です。日本美術院の創設者のひとりでもあります。筑摩県筑摩郡松本深志町(現在の長野県松本市)に生まれる。1886年に小石川餌差町の私立知神学校美術科へ入学し、絵の勉強を始める。1888年に狩野友信に師事して日本画の修業を始める。1889年には東京美術学校の第一期生として絵画を学ぶ。1898年日本美術院の設立に尽力。しかしその後は酒と遊蕩に明け暮れるようになり、才能をどんどんと失っていった。しかし一遍1912年台湾にて孤月は大作「台湾風景」を描きます。その後はまた才能を発揮するかと思われましたが、病にてその年に人生の幕を閉じました。

倉島 重友

 倉島重友は1944年、長野県に生まれの日本画家です。1971年、東京藝術大学大学院美術研究科を修了します。1971年、再興第56回院展で初入選したのち平山郁夫に師事します。1974年には高松塚古墳壁画模写に参加します。2003年に「穣」で第9回足立美術館賞を受賞します。翌年、院展同人に推挙されます。その間、広島市立大学教授となり後進の育成にも尽力します。2004年には日本美術院同人となり、現在も院展の中心画家として第一線で活躍しています。倉島重友は自然とともに生きる人々を、感情豊かに描き出しています。

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岩沢 重夫

  大分県日田市豆田町に生まれの日本画家・岩沢重夫は幼少の頃は、学校に行く前に魚釣りのに行くほど川が大好きな少年でした。晩年の水辺に緑の山や季節の花を描いた小品を制作しましたが、それは全て魚釣りをするときの視点に基づいています。京都市立美術専門学校卒業後、京都画壇の巨匠・堂本印象に師事し、日展を主な作品発表の場として活躍しました。岩沢重夫の画業の初期より、風景画の新たな可能性を探る創作活動を続け、心に響く風景との出会いを求め、全国各地を巡りながらスケッチを重ねました。大自然の雄大な景観や、四季折々の光景をみずみずしい感覚とさわやかなその作品は、今日もなお多くの人々を魅了しています。

後藤 順一

 後藤順一は1948年生まれで京都府出身の日本画家です。少年の頃から画家を志し、京都市立芸術大学に入学します。日本画を専攻して大学院まで進み、1973年に卒業します。その翌々年には沖縄海洋博に作品を発表し、作家デビューを …

下保 昭

 下保昭は昭和から平成時代の日本画家です。下保昭は、昭和2年に富山県砺波市で誕生しており、昭和24年には西山翠嶂の師事し、さらには日展で活躍しています。また、昭和45年には日展常議員に選定されており、昭和57年には日本芸 …

清水 達三

清水達三は、人物画を得意としている日本画家で1936年に和歌山県で生まれました。美人画で有名な中村貞以に師事し絵を学び、1963年に人物画で院展入選を果たし画家として活動を始めます。 しばらく人物画を描いていましたが、風 …

松尾 敏男

松尾敏男は「花の松尾敏男」を称された花鳥画にて有名な作品が多い日本画家です。 1926年に長崎県に生まれた松尾敏男は東京府立第六中学校に在学中は体操選手であったが画家を志したことから同じく花鳥画に優れた作品を多く残した堅 …

高橋 天山

 高橋天山は東京都出身の日本画家です。1979年に東京造形大学を卒業します。油彩画より日本画に転向し、院展常任理事・今野忠一に師事します。1999年には日本美術院同人に推挙されます。2008年に雅号を高橋天山としています …

奥田 元宗

 奥田元宗は 1912(明治45)年、広島県双三郡八幡村(現在の三次市吉舎町)に生まれます。小学校4年生の頃から、図画教師であった山田幾郎教諭の影響で絵を描き始める。1930(昭和5)年に上京し、同郷の日本画家・児玉希望 …

後藤 純男

 後藤純男は昭和5(1930)年、千葉県東葛飾郡関宿町(現野田市)で真言宗豊山派住職の子として生まれます。昭和27(1952)年の再興第37回日本美術院展覧会(院展)初入選を皮切りに、昭和61年内閣総理大臣賞、平成18年 …

平松 礼二

平松礼二は1941年に東京都中野区に生まれた日本画家です。 愛知県立旭丘高等学校美術科、愛知大学法経学部卒業。 横山操に私淑し、1960年より青龍社展に出品します。 その後、個展を開催し、様々なコンクールに出品して多数の …

田渕 俊夫

 日本画家・田渕敏夫は東京都江戸川区出身です。1965年、東京藝術大学美術学部日本画科卒業します。1967年、同大学大学院日本画専攻修了。師系は平山郁夫となります。1968年、再興第53回日本美術院展覧会で初入選し、19 …

木村 圭吾

木村圭吾(きむら けいご)は、昭和十九年(1944年)に京都府京都市深草に生まれた日本画家です。中学時代から画家を志し、山村眞備に師事して日本画の基礎を学びました。その後、京都市立日吉ヶ丘高等学校日本画科を卒業し、さらに …

堀 文子

 堀文子は東京都出身の日本を代表する女流画家です。画家を志して、女子美術専門学校(現・女子美術大学)に入学し、在学中から新傾向の日本画制作を実践する新美術人協会展に出品します。戦後も創造美術、新制作協会日本画部、創画会へ …

石踊 達哉

 石踊達哉は1945年生まれの日本画家です。 満州で生まれ、終戦後日本に帰国して鹿児島で18歳までを過ごしました。 その後は名門・東京藝術大学へ進学し、大学院まで進みました。卒業後はシュルレアリスム色の強い人物画にこだわ …

金島 桂華

 金島桂華は広島県出身の日本画家です。 14歳の時に大阪に出て、西家桂州や平井直水といった画家のもとで日本画を学びました。 19歳で京都に移り、竹内栖鳳の画塾「竹杖会」に入門します。1918年の第12回文展で初入選すると …

小村 雪岱

 小村雪岱は埼玉県川越市生まれの大正から昭和初期の日本画家、版画家、挿絵画家、装幀家です。1908年、東京美術学校日本画科選科卒業します。1914年、泉鏡花『日本橋』(千章館)の装幀を手がけ、以後、鏡花本のほとんどの装幀 …

森田 沙伊

 日本画家の森田沙伊は1898年に北海道で生まれました。本名は才一です。幼い頃に四条派の画家佐々木蘭斎に学ぶます。1917年に上京し、川端画学校に入学します。東京美術学校で川合玉堂、結城素明に師事します。1928年帝展初 …

児玉 希望

 児玉希望は大正から昭和にかけての日本画壇で大きな足跡を残した児玉希望は、広島県安芸高田市に生まれ、上京して川合玉堂に絵を学びました。1921年に画壇の登龍門であった帝国美術院展覧会に初入選、その後も入選を続け、1928 …

堂本 印象

 堂本印象は1891年京都生れの日本画家です。本名三之助です。1910年京都市立美術工芸学校を卒業後、しばらく西陣織の図案描きに従事し、1918年、日本画家を志し て京都市立絵画専門学校に入学します。1919年に初出品し …

上原 古年

 上原古年は梶田半古および松本楓湖(ふうこ)の門人です。1877年、東京浅草に生まれの版画家、日本画家です。初め梶田半古に師事した後、松本楓湖に師事して日本画を学んでいます。岡倉覚三(天心)に招かれて5年間、日本美術院に …

尾形 月耕

尾形月耕は、1859年9月に江戸京橋で生まれた浮世絵師・日本画家です。 絵を描き始めたのは父の勧めによるもので、1881年頃には新聞や雑誌の挿絵を手がけるようになり、人気を博しました。当時、日本の出版業界が勃興していたこ …