ポール・セザンヌはポスト印象派を代表する画家であり、キュビスムをはじめとする20世紀美術に大きな影響を与えました。その功績から「近代絵画の父」と称されています。
1839年、セザンヌは南フランスのエクス=アン=プロヴァンにて、銀行員の家庭に生まれました。
法学部に通っていましたが、画家を志してパリへ渡り、ピサロと親交を深めました。
5か月ほど経った頃に自信を失くしてプロヴァンへ帰りますが、もう一度パリで絵を描くことを決めます。
また、この頃にモネやルノワールなどの印象派と出会いました。
その後は印象派の仲間とサロンに出展するなど、精力的に活動を続けました。
しかし、一瞬を切り取る印象主義よりも、永続的なものや本質を描きたいと考えはじめ、グループを離れて独自のスタイルを追求しました。
暗く重厚感のある作風や印象派らしい作風を経て、彼独自の鮮やかで大胆な筆使い、対象物をデフォルメした表現へと変化していきます。
1880年代からは故郷に戻り、ひとり静かに絵を描き続けました。
そして1906年、野外での制作中に大雨に打たれて体調を崩し、亡くなりました。
生前は十分な評価を得られませんでしたが、今ではポスト印象派を代表する一人として地位を確立しています。
代表作には『首吊りの家』『オーヴェルの眺め』『リンゴとオレンジ』などがあります。
アルフレッド・シスレーは、風景画で知られる印象派の画家です。
1839年、シスレーはフランス・パリにて裕福な家庭に生まれました。
18歳でロンドンに移りビジネスを学びますが、美術への強い興味から風景画に触れるようになります。
数年後、ビジネスの勉強を辞めることにしたシスレーは、画家を志します。
パリへ戻るとシャルル・グレールのアトリエで学びはじめ、クロード・モネやピエール=オーギュスト・ルノワールらと出会いました。
当時は古典的な絵画が主流で、見たものをそのまま描くという様式は不人気でした。
このような背景から、シスレーの描いた作品がサロンで入選を果たした際も、あまり評価されませんでした。
1870年、普仏戦争の影響で父親が破産し、絵で生計を立てなければならなくなりました。
しかし、シスレーの作品はなかなか売れず、それから生涯にわたり困窮した中で生活することになります。
そして1899年、モレ=シュル=ロワンにて喉頭癌のため亡くなりました。
シスレーの900点近い油彩作品の大部分はパリ周辺の風景を描いたもので、テイストを崩すことなく一貫して風景画を描き続けました。
静かな自然の美しさや穏やかな時の流れを繊細に表現しており、今では高い評価を得ています。
代表作には『モレの教会』『モレ・シュル・ロワン』『積み藁』などがあります。
ポール・ゴーギャンは、ポスト印象派を代表的する画家として知られています。
サマセット・モームの代表作『月と六ペンス』の主人公のモデルになりました。
ゴーギャンは、1848年にフランスにて生まれました。
1851年、父親が職を失ったことをきっかけに一家はペルーに移ります。
彼が7歳になった時、再びフランスへ戻りました。
商船の水先人見習いとして働き、兵役でフランス海軍に入隊しました。
その後、パリ証券取引所での職を得て、株式仲買人として働きながら絵を描き始めます。
画業に専念すると決めてからは、様々な画家と交流しながら自身のスタイルを模索していきました。
初期はルノワールやモネのような筆致でしたが、徐々に内面を反映した作風へと変わっています。
1891年、ヨーロッパの文明やしきたりから離れようとタヒチへ渡ります。
以降、さまざまな苦労を重ねながらも生涯にわたって絵を描き続けました。
ゴーギャンは、タヒチの女性を中心に、島の文化や宗教観を平面的な表現と南国らしい豊かな色彩で描きました。
また、エミール・ベルナールらと共に「総合主義」を提唱しています。
代表作には『タヒチの女(浜辺にて)』『黄色いキリスト』『説教あとの風景』などがあります。
1945年神奈川県横浜市で生まれた鈴木は、武蔵野美術大学に入学後、第一美術展奨励賞等を経てフランスに留学します。
1903年に創設され、現在も多くの芸術家が目指す芸術史でも歴史ある展覧会サロン・ドートンヌや1667年から開催されている世界最古の公募展ル・サロンへの出品など、ヨーロッパを中心に開催されている名だたる展覧会に出品を続けていました。
国内でも全国の百貨店や画廊で個展を積極的に開催しており、その人気は国内外問わず高いものとなっておりました。
主に油彩画で作品を手掛けており、色とりどりの鮮やかな色彩と自然や日常の風景画をモチーフにしたユニークで遊び心のあるデザインが特徴的です。
2018年に逝去するも、今現在でもその人気は衰えておらず、市場に作品が出品されると注目数が高い傾向にあります。
徳島県阿南市出身で、日本を代表する現代木版画家です。
数多くの賞を受賞し、1989年には紫綬褒章を受章、2004年には日本美術家連盟理事長も務め、更に多摩美術大学で教授も歴任しており、長年に渡り芸術分野において幅広い活躍をしている作家です。
その人気は国内だけではなく、ニューヨーク近代美術館・ポーランド国立美術館・スイス国立美術館等、世界各国の美術館に作品が所蔵されています。
透明感と重厚感を併せ持つ、鮮やかさもあり奥深さも感じることができる色彩表現が特徴的で、水性と油性絵具を木版に重ねていき、繊細ある色遣いが表現される作品は、インパクトもあり日本らしさも感じることができます。
倉田 冨美は、1937年に京都で生まれた日本画家です。
日本画家の丸山石根に師事し、日輝展では金賞2回、特選1回を受賞しています。
人物画を得意とし、舞妓を題材に多数の作品を手掛けました。
舞妓は15歳~20歳頃の芸子見習いの女性を指します。
まだあどけなさの残る少女たちが芸を覚え、少しずつ成長していく姿は美しさとともに奥ゆかしい日本の美意識が感じられます。
舞妓が芸妓になることを「衿替」を呼び、その直前の約2週間は「先笄」という髪型になります。この期間だけ見られる貴重な姿を描いた作品は、人気作のひとつとなっています。
また、表情だけでなく、年数で変化していく髪型や着物、化粧などに目を向けるとまた違った視点で楽しむことができます。
京都の風情と伝統を映し出す倉田の作品は、女性を通して静かに語りかけてくるようで、雅な空気感を繊細に表現する作風は高く評価されています。
代表作には『先笄』『舞妓』などがあります。