丁紹光(ティンシャオカン)は中華人民共和国出身の画家であり、国際派現代中国絵画の大巨匠です。
1939年に中国陝西省に生まれた丁紹光は1962年に北京中央美術工芸学院を最高成績で卒業し、昆明雲南芸術学院にて教授を務めました。その後、中国政府より依頼を受けて北京人民大会堂に「麗しき神秘的西双版納」を制作しました。
その後アメリカに移住し1986年にはアメリカSEAGAL社と契約して本格的にシルクスクリーンの制作を始めていきます。1992年のクリスティーズオークションにて岩彩画が東洋作家史上最高価格で入札、さらに1993年には国連公認作家に任命されアメリカでの評価も非常に高い作家となっています。
丁紹光の作品は「女性」や「母子」を題材にしたものを想像される方が多いかと思います。直線が多く用いられることにより中国の古来からの作風を踏襲しつつ、華麗な色彩は「ティン・ブルー」と呼ばれ多くの人の心に安らぎを与えてくれます。
昭和を生きた画家、原 精一。裸婦像を得意とし、憂いのある女性の美を描いた作品を数多く残しています。
原は1908年、神奈川の寺院の長男として生まれました。学生時代に萬鉄五郎の作品をみて感銘を受け、萬の数少ない弟子となります。その後は各絵画展に出品を行い、優秀な成績を修めました。
しかし時代は戦争へと突入し、原の元にも召集令状が届きました。原は1937年、中国戦線へと赴くことになりますが、戦地では従軍画家ではなく一兵士として脚色のない現実をスケッチしています。一度は帰国するも敗色濃厚となった1943年、再招集を受け今度は南方戦線へと配されます。何度も死線をくぐりながらも生き延び、1946年日本への帰国を果たしました。
戦後は国画会展や国際形象展で活躍する一方、女子美術大学の教授も務め、美術教育にも尽力しています。
戦場で数多くのデッサンを描いた為か、原のデッサン力は非常に高く、わずかな時間で対象の姿を的確に描き出し、暖かくそれでいて力強さも備える作品たちは多くの人々を魅了しました。
ジャンセンは1920年アナトリア(現在のトルコ)にて生まれました。父はアルメニア人、母はトルコ人と当時のオスマン帝国の情勢では非常に危うい立場でした。家族は危険な故郷を離れ、ギリシャに移り、その後フランスへと渡りました。
フランスで過ごす中でジャンセンは画家にになることを決め、パリの装飾美術学校の他、デッサン学校やアトリエで絵について学んでいきます。
1939年以降はフランスを代表する美術展であるサロン・ドートンヌ展を始め、多くの展覧会に出品しています。1950年代からは定期的にイタリアを訪れ制作を行いました。その実力が認められ、1960年代には世界各地で個展を開くようになります。2002年にはアルメニア正教会1700年記念として、アルメニア国立美術館にて「虐殺展」を開催し、アルメニア国家勲章を受章し、2003年にはフランスの最高勲章 レジオン・ドヌール勲章の受賞をするなど世界に認められた作家の一人です。
ジャンセンの作品は、自らの目で対象を見て、ありのままの姿を描いた作品で、デッサンを重視しています。線画家であったジャンセンの作品は、彼の目に映る世界をそのままに映し出しています。
主なシリーズ作品は、バレリーナ・ベニス・闘牛・マスカラード(仮面舞踏会)・虐殺と多くのシリーズものを残しています。
日本でもジャンセンの評価は高く、1993年には長野県にある安曇野にジャンセン専用美術館がたてられています。
大橋翠石は岐阜県大垣市生まれの日本画家です。日本美術史の中でも特別な存在で、世に「虎の翠石」として名高い画家です。特に長い冬毛が美しいアムールトラを多く画題に選び、その描くところの虎は毛の描写の細かさ、威風堂々とした体躯、生きているように鋭い眼光や動きを表現していると評価されています。明治33(1900)年のパリ万国博覧会で、日本人画家として唯一の金メダル(金牌)に輝き、4年後のセントルイス万国博覧会でも連続して金メダルを受賞した翠石は、当時、世界で最も高く評価された日本画家の一人でした。
大橋翠石は上京して渡辺小華(しょうか)に師事して絵を学びました。しかし翌年、師や母を立て続けに亡くして帰郷、更に濃尾大震災で被災し、父と家を失います。数々の不幸を乗り越える力を虎の絵に求めた翠石は、研鑽を重ねて独自の画風を完成しました。その後翠石は療養のため神戸の須磨に隠棲し、動物たちを描きながらたった一人で自分の芸術を追求し続けました。
徳岡神泉は京都市上京区生まれの日本画家です。1909年に土田麦僊の紹介で竹内栖鳳の画塾竹杖会に入り、本格的に画を学びます。翌年には京都市立美術工芸学校絵画科に入学します。卒業までの4年間に、金牌、銀牌を獲得するなど優秀な成績を修め、卒業制作の『寒汀』は学校買い上げの栄誉を受けます。その後、京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)へ進学します。
しかし、ここまで順調でしたが、思わぬ挫折を味わうことになります。当時の京都画壇では、官展に入選することが画家としての第一歩と考えられていた為、当然神泉も学校在籍時から文展へ出品しますが、ことごとく落選します。1919年、芸術上の煩悶から京都をはなれ、一時期静岡県庵原郡富士川町に住むが、1923年、画家としての再出発をかけて帰洛します。その後の歩みは順調で、1925年、第6回帝展に≪罌栗≫が初入選。第7回・第10回帝展で特選を重ねます。そして1939年、第3回新文展に出品した≪菖蒲≫において、その画業は大きな転機をむかえ、簡潔な構図と深い色調による神泉様式を確立します。
松林桂月は1876年に山口県萩市山田に生まれました。数えで18歳の年に上京し、画壇の大家・野口幽谷(1827–1898)に入門します。数年のうちに展覧会への入賞を果たすなど、みるみる頭角を現し、明治34(1901)年には同門の女流画家・松林雪貞(1880–1970)と結婚します。華麗な花鳥画を得意とした雪貞は、生涯にわたって桂月を支える大きな存在となります。
松林桂月は「最後の文人画家」とも評され、渡辺崋山や椿椿山ら崋椿系の流れをくむ精緻で謹直な描写を基礎に、近代の写生画の流行を十分に取り込みながら、そこに漢籍、漢詩の素養に裏付けされた品格の高い作風を特色としています。
明治・大正・昭和の日本近代画壇にあって、「南画」という分野に多大な業績を残し、文化勲章を受章しました。
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