豊原国周は、幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師です。
豊原周信、歌川国貞(三代 歌川豊国)の門に入り、のちに2人の名前を合わせて「豊原国周」と名乗りました。
豊原は「役者絵」を得意とし、大胆で迫力のある大首絵が高く評価されました。
美人画においてはその繊細で優美な作風で、月岡芳年や小林清親らと肩を並べて活躍したとされています。
また、かなりの変わり者だったことでも知られており、大酒飲みで散財癖があり、生涯で117回引っ越し、さらには妻を40人以上変えたという逸話が残されています。
彼は伝統的な浮世絵の手法を受け継ぎ、移り変わる時代の中でも存在感を失わずに活躍し続けました。
自由奔放な人柄と強い創作意欲が作品に色濃く反映されており、「明治の写楽」とも称されています。
小林清親は、「最後の浮世絵師」とも称される明治時代の浮世絵師です。
浮世絵、ポンチ絵、戦争画、新聞の挿絵など多彩なジャンルで活躍しました。
1847年、江戸で幕臣の子として生まれ、15歳で元服し家督を継ぎました。
徳川家茂上洛、鳥羽・伏見の戦いに参加し、幕府崩壊後は徳川慶喜を追って静岡へ移ります。
1874年に帰京し、母の死後、浮世絵師を志すようになりました。そして1876年に『東京江戸橋之真景』『東京五大橋之一両国真景』『東京名所図』を版行し、人気絵師としての地位を確立します。
彼は「光線画」という、木版画に西洋絵画の要素を融合させた新たな様式を生み出しました。夜景や街灯の光などを輪郭線に頼らず光と影の濃淡で描くのが特徴で、ぼかしや明暗のコントラストを巧みに用いています。
彼の作品は、文明開化による都市の変化を知る資料としても高く評価されており、激動の時代を光と影を通じて詩情豊かに捉えたとして、今でも多くの人に愛されています。
渓斎英泉は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師です。
美人画や風景画、春画、戯作など多岐にわたる作品を手掛けました。
1790年、英泉は江戸にて武士の子として生まれました。
12歳で狩野派の絵師である「狩野白桂斎」に師事しました。
10代後半の頃に、歌舞伎狂言作者であった「篠田金治」の見習いとなります。
しかし、20歳の頃に突然父と継母が亡くなり、3人の妹を養うため狂言作者の道を諦めることになりました。
その後、「菊川英山」に師事して美人画を学び、同時に葛飾北斎宅に出入りしてその画法を学びながら、浮世絵師としての道を歩み始めます。
はじめは師にならって儚げな女性が描かれていましたが、徐々に自らの様式を確立していきました。
目は切れ長で下唇が厚く、猫背気味の艶っぽい女性像が特徴的です。
波乱万丈な人生を送った彼が表現する世界は独特ですが、その魅力に多くの人が引き寄せられました。
代表作には『夏の洗い髪美人図』『江戸日本橋 見立吉原五十三対 扇屋内 花扇』『木曽街道六十九次』などがあります。
土屋光逸は、明治から昭和にかけて活躍した浮世絵師・版画家です。「日本三景」として知られる松島、天橋立、宮島の風景や、日常のふとした瞬間を叙情的に表現した作品を残しています。
土屋は、1870年に静岡県浜松市の農家にて生まれました。14歳の頃に上京し、16歳で浮世絵師・小林清親の元に入門。その後は、20年ほど清親の元で過ごし、石版画を学びました。この時期の作品で残されているのは、日清戦争を描いた『講和氏使談判之図』や、『万々歳凱旋之図』などの4点のみとなっています。
清親との死別や浮世絵の衰退なども影響して一時は画業から離れますが、「小林清親翁十七回忌記念展覧会」を開催していた渡辺庄三郎との出会いがきっかけとなり、62歳で新版画家として新たな一歩を踏み出すこととなります。
その後、版元の土井貞一と連携を取りながら版画作品を制作し続けました。
波乱万丈の人生を歩んだ土屋の作品は、柔らかく温かみのある色使い、光や影を巧みに操る画法で、今も人々の心を惹きつけています。
亀井 至一は江戸時代末期から明治時代の石版・木版画家です。
初め、国沢新九郎と横山松三郎に師事して石版と油絵を学びました。その後、第1回内国勧業博覧会に「上野徳川氏家廟之図」を、第2回内国勧業博覧会にも作品を出品、第3回内国勧業博覧会には「美人弾琴図」を出品し、知名度を上げました。
木版画も作製していましたが、後に玄々堂印刷所に入って石版画を学びました。代表作に「日光名所」、「東海道名所」などが挙げられる他、蜷川式胤の「観古図説」などが知られています。また、矢野竜渓の政治小説『経国美談』の挿絵、東海散士の政治小説『佳人之奇遇』の挿絵などの出版文化に影響を与えました。
歌川 芳虎は、江戸時代末期から明治中期にかけて活動した浮世絵師で、師匠に歌川国芳を持ち、その門人として武者絵をはじめ、役者大首絵・美人画・横浜絵・開化絵など多彩なジャンルを手がけました。
本名は永島辰五郎(辰之助・辰三郎とも)という通説があり、画号には「一猛斎」「錦朝楼」「孟斎」などが使われたとされます。
作画期は天保年間(1830〜1844頃)から明治20年頃(1887頃)と推定されます。
芳虎の作風の特徴として、まず武者絵では国芳流の大胆で動きのある構図を継承しながら、幕末の動乱や近代化の気配を背景に描くことで新しさも併せ持っていました。
嘉永2年(1849年)閏4月に発表された錦絵「道外武者御代の若餅」では、徳川 家康の天下取りを風刺した落首に着想を得た絵を出したことで出版後すぐ没収され、芳虎本人が手鎖50日の処罰を受けたという記録があります。
また、開港後の横浜に題材を求めた「横浜絵」や、西洋文化の流入を描いた「開化絵」など、時代変化を映す作品群も多く残しています。その自由奔放な性格も語られており、師・国芳との関係をめぐって破門の経緯が残されているものの、その後も「芳虎」の名を捨てずに活躍を続けたといいます。
浮世絵という枠組み内で、伝統的な武者・役者絵から、海を通じて入ってきた異国や文明開化を描く題材へと移行する時代の“橋渡し”的な絵師としての位置づけができます。絵師としての活動期・生涯とも不確かな部分が多いですが、残された作品から当時の世相や美術の潮流を読み取る上で、重要な存在です。