池田 満寿夫

池田満寿夫は、1934年生まれの昭和を代表する作家・芸術家です。

1980年代にテレビなどのメディア出演を多くしていたことからご存じの方も多いかと思います。池田満寿夫を一躍有名にしたのは、芥川賞を受賞した「エーゲ海に捧ぐ」ではないでしょうか。

文学の他にも彫刻や陶芸、映画監督などとマルチな才能を発揮しておりますが、その中でもやはり画家としての一面は、官能的な「池田芸術」が前面に押し出たものが多く、国際的にも親しまれています。

そんな池田満寿夫は数多くの作品を輩出しており、制作した版画は1000点余り、陶芸作品は3000点を超えるとみられています。版画は絵画作品の中でもかなり力を入れられており、木版やシルクスリーン、リトグラフなどを制作していますが、中でもドライポイント技法による銅版画は高い評価を得ております。

池田満寿夫の官能的な芸術世界は、深層意識を駆り立てるような不思議な魅力を感じられます。機会がございましたら、是非一度ご鑑賞ください。

小磯 良平

昭和の日本洋画界をけん引した画家、小磯良平。現地で学んだヨーロッパの伝統的な絵画技法に、自身の描写力や色彩感覚を調和させた、モダンで気品のある画風が特徴となっています。

小磯は1903年、神戸の旧家に生まれました。外国人居留地のある神戸で、幼い頃から西洋に触れる機会が多かった小磯は、旧制中学校入学後、のちにモダニスト詩人となる竹中郁と出会います。彼の影響もあり、さらに西洋へ関心を持つようになり、1921年に目にした洋画展で、自身も洋画家になることを志します。

1922年、東京美術学校西洋画科に入学し、猪熊弦一郎や荻須高徳などと共に洋画を学びました。1926年、在学中にも関わらず帝展へ出品した『T嬢の像』が驚くべきことに特選を獲得し、一躍その名を画壇に知られる存在となりました。卒業制作では竹中をモデルにした作品を出品し、首席卒業しています。

1928年、フランスへ渡り、竹中とともにヨーロッパ各地を巡り、様々な芸術に触れ、その感覚を磨きました。帰国後は新制作協会の立ち上げなどに参加しますが、戦時中は従軍画家として戦争画を描きました。

戦後は制作の一方で後進の育成にも努め、母校である東京藝術大学で教授として教壇に立っています。長年の功績が認められ、1983年には文化勲章を受章しました。

小野 竹喬

小野竹喬は岡山県に生まれた、風景画を得意とした日本画家です。

日本の自然の美しさを技法だけはなく自然の真実を追求しながら東洋の南画や、同時代の画家たちの作品にも学ぶことで写実的な古典領域から、次第に画風を変化させていきました。

竹橋を名乗っていた時期には京都の竹内栖鳳に師事し、西洋近代絵画の写実表現をとりいれた栖鳳に学びながら自らも西洋絵画の真髄をふんだんに取り入れていく等西洋絵画への関心が強く表れていたと感じられます。
1918年に約1年間渡欧している中で東洋絵画における線の表現を再認識し、渡欧後は竹喬を名乗るようになります。1939年頃から日本画の素材を素直に活かす為に線も色も古い大和絵の表現を学ぼうとし、線描と淡彩による南画風の表現へと変化していくことになりました。この変化が小野竹喬の作品の方向性を決定づけることになります。

晩年には松尾芭蕉の「おくの細道」をもとにその句意を絵画化にする作品を手掛けていき、その10点からなる「奥の細道句抄絵」は小野竹喬の晩年の代表作です。また、水墨画の精神性を模索し続け、生涯にわたって自身の可能性を追求し続けた人物です。

伊東 深水

大正から昭和にかけて活躍した浮世絵師・日本画家である近現代日本画の巨匠 伊東深水は、歌川国芳から連綿と続く浮世絵の「玄冶店派」の伝統に現代風俗画を取り入れた最後の浮世絵系美人画家と称され、今もなお高い人気を誇っています。

13歳のとき、日本画家の鏑木清方に入門し、生地の深川と師の清方に因んで、「深水」の名を与えられました。本名は一 (はじめ)といいます。

伊東深水は炬燵にあたる女性の後姿を描いた『十六の女』で大正4年の文展に初入選を果たします。

その作品は勝川春章の『婦女風俗十二ケ月 十月 炉開』に着想を得たと思われ、そこでは亥の月(旧暦十月)の初亥の日に風炉の使用をやめて囲炉裏に変える 炉開きの様子が描かれています。

戦後は美人画とも並行し作品を手掛け、独自の題材で日本画を制作することが多かった。
人気のあまり、戦後には多くの作品が複製版画として広く行き渡るようになりました。

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