中路 融人

 中路融人は1933年京都生まれの日本画家です。滋賀湖国の原風景に心惹かれ、60余年もの間その風景を追い求め描き続けました。「水と木が創作の舞台装置」とし、母の故郷・五個荘を訪れては数多くの作品を描きました。

酒屋の次男として生まれた中路融人でしたが、口べたで客の対応が苦手ということもあり。「自分は商売には向いていない」と思い、美術科の高校に進みます。しかし、日本画での成功は考えず、卒業後はデザイン事務所に就職。デザイナーとして働きながら、絵の勉強に励みました。そんな中路融人は21歳のときに大きな転機を迎えます。画塾の晨鳥社に入塾し、高名な画家の山口華楊に師事することになったのです。師から「自分の思うようにしなさい」と言われ自分の描きたいものは何かと考えた時に、子どものころによく行った母の故郷である滋賀県東近江市五個荘の風景を思い出し、自分が描きたいのはこれだと確信しました。

それから、五個荘を中心に滋賀の風景を描くようになります。湖西の堅田、雄琴、近江舞子などにも足を伸ばし筆を走らせました。琵琶湖や田園の風景は訪れるたびに違う。豊かな自然の表情を描きたいと思ったらすぐに出掛け、雑念を入れずに描く。忠実な写生で自分で感じたことを筆にのせる。これらを信条に風景画を描きました。

描いた作品は、日展などに出品し数々の賞を受賞しています。その功績が認められ、日本芸術院会員で2012年に文化功労者に選ばれました。他にも、滋賀県東近江市内の小学校での絵画教室開催や展覧会支援などで文化の発展に貢献したとして、昨年2月、同市の名誉市民に選ばれました。

 中路融人の作品はデッサンを大切にし、雪に輝く伊吹山や榛の木の立ち並ぶ田園風景、葦がゆれる湖畔など、一期一会の自然の表情を豊かに表現しています。

元永 定正

自然現象を用いた抽象作品を得意とした画家・元永定正。近年の具体美術の再評価とともに、現在その人気は国内外問わず非常に高いものとなっています。

定正は1922年、三重県に生まれました。学校卒業後は工具店や国鉄に勤務しましたが、その一方で漫画の投稿も行っていました。1944年地元に戻り油彩画を学びます。地元三重県の公募展などで入選を重ね、漫画の連載も行うようになりました。
1952年、神戸に転居し抽象画家・吉原治良らが主宰する芦屋市展に出品。第8回展に出品した抽象画は吉原に絶賛されました。同年に吉原の設立した具体美術協会に参加し、以後退会までメインメンバーとして活躍しました。
1960年代は海外での活動も増え、70年代には絵本制作に取り組み始めました。80年代90年代と精力的に制作に打ち込みましたが、2011年に亡くなりました。翌年、ニューヨークのグッゲンハイム美術館で展示された、定正監修の作品が遺作となっています。

日本画技法のたらし込みに着想を得て作られた、キャンバスに絵具を流した絵画や、水を用いた立体作品など斬新で大胆な手法が現代美術家として話題を呼ぶ一方、後年は絵本作家としても活躍し、遊び心のある作品を残しています。

吉田 博

まるで目の前にその情景が広がっているかのような色鮮やかな風景版画。時には日本を飛び出し、当時まだ珍しかった海外の風景も描いた版画家、吉田博。イギリス王室のダイアナ妃も愛した彼の版画は、今なお世界で高い人気を誇ります。

1876年、九州に生まれ、中学時代に洋画家の教師に腕を見込まれ養子となり、吉田姓となりました。学校卒業後は水彩画を始め、明治美術会に所属します。1899年アメリカへ渡り、美術館で水彩画の展覧会を開催します。この成功が吉田の画風に影響を与えました。1902年には太平洋画会を結成し、白馬会とともに明治日本の洋画壇を代表する会と成長していきます。1908年の第二回文展では最高賞を受賞し、以後文展・帝展で高い評価を受け、自身も審査員をつとめます。

木版画の道へ進んだのは1920年で、1921年に最初の版画を出版しますが、まもなく関東大震災で版木を全て失い、再び海外へと渡りボストンを拠点に活動するようになります。帰国後は新宿・下落合にアトリエを構え、「アメリカシリーズ」や「ヨーロッパシリーズ」などの版画作品を発表しました。
海外での知名度の高さから、戦後は進駐軍の米兵の間で人気となり、マッカーサー元帥の夫人も訪れています。

世界を旅し、時には自ら高山に登り、その風景を克明に写し取った吉田の版画は、浮世絵にはない写実性を備えた新版画の代表的な存在となりました。

 

池田 満寿夫

池田満寿夫は、1934年生まれの昭和を代表する作家・芸術家です。

1980年代にテレビなどのメディア出演を多くしていたことからご存じの方も多いかと思います。池田満寿夫を一躍有名にしたのは、芥川賞を受賞した「エーゲ海に捧ぐ」ではないでしょうか。

文学の他にも彫刻や陶芸、映画監督などとマルチな才能を発揮しておりますが、その中でもやはり画家としての一面は、官能的な「池田芸術」が前面に押し出たものが多く、国際的にも親しまれています。

そんな池田満寿夫は数多くの作品を輩出しており、制作した版画は1000点余り、陶芸作品は3000点を超えるとみられています。版画は絵画作品の中でもかなり力を入れられており、木版やシルクスリーン、リトグラフなどを制作していますが、中でもドライポイント技法による銅版画は高い評価を得ております。

池田満寿夫の官能的な芸術世界は、深層意識を駆り立てるような不思議な魅力を感じられます。機会がございましたら、是非一度ご鑑賞ください。

小磯 良平

昭和の日本洋画界をけん引した画家、小磯良平。現地で学んだヨーロッパの伝統的な絵画技法に、自身の描写力や色彩感覚を調和させた、モダンで気品のある画風が特徴となっています。

小磯は1903年、神戸の旧家に生まれました。外国人居留地のある神戸で、幼い頃から西洋に触れる機会が多かった小磯は、旧制中学校入学後、のちにモダニスト詩人となる竹中郁と出会います。彼の影響もあり、さらに西洋へ関心を持つようになり、1921年に目にした洋画展で、自身も洋画家になることを志します。

1922年、東京美術学校西洋画科に入学し、猪熊弦一郎や荻須高徳などと共に洋画を学びました。1926年、在学中にも関わらず帝展へ出品した『T嬢の像』が驚くべきことに特選を獲得し、一躍その名を画壇に知られる存在となりました。卒業制作では竹中をモデルにした作品を出品し、首席卒業しています。

1928年、フランスへ渡り、竹中とともにヨーロッパ各地を巡り、様々な芸術に触れ、その感覚を磨きました。帰国後は新制作協会の立ち上げなどに参加しますが、戦時中は従軍画家として戦争画を描きました。

戦後は制作の一方で後進の育成にも努め、母校である東京藝術大学で教授として教壇に立っています。長年の功績が認められ、1983年には文化勲章を受章しました。

小野 竹喬

小野竹喬は岡山県に生まれた、風景画を得意とした日本画家です。

日本の自然の美しさを技法だけはなく自然の真実を追求しながら東洋の南画や、同時代の画家たちの作品にも学ぶことで写実的な古典領域から、次第に画風を変化させていきました。

竹橋を名乗っていた時期には京都の竹内栖鳳に師事し、西洋近代絵画の写実表現をとりいれた栖鳳に学びながら自らも西洋絵画の真髄をふんだんに取り入れていく等西洋絵画への関心が強く表れていたと感じられます。
1918年に約1年間渡欧している中で東洋絵画における線の表現を再認識し、渡欧後は竹喬を名乗るようになります。1939年頃から日本画の素材を素直に活かす為に線も色も古い大和絵の表現を学ぼうとし、線描と淡彩による南画風の表現へと変化していくことになりました。この変化が小野竹喬の作品の方向性を決定づけることになります。

晩年には松尾芭蕉の「おくの細道」をもとにその句意を絵画化にする作品を手掛けていき、その10点からなる「奥の細道句抄絵」は小野竹喬の晩年の代表作です。また、水墨画の精神性を模索し続け、生涯にわたって自身の可能性を追求し続けた人物です。

伊東 深水

大正から昭和にかけて活躍した浮世絵師・日本画家である近現代日本画の巨匠 伊東深水は、歌川国芳から連綿と続く浮世絵の「玄冶店派」の伝統に現代風俗画を取り入れた最後の浮世絵系美人画家と称され、今もなお高い人気を誇っています。 …