北村 辰夫(辰吉)

1952年に石川県輪島市で誕生した北村辰吉は、1973年頃に輪島漆器の製作を行うようになると、現代の技法に限らず古典の技法の研究も行い、技術力の向上を図りました。1985年には北村工房を設立し、着実に活躍の幅を広げていきます。
1986年には印籠制作を開始し、この頃から海外でも個展を行うなど、国内外で活動をより活発化していきます。

細密な技法から織りなす圧倒的表現力を生み出す北村の作品は、現代技法の中に垣間見える奥深い伝統性のある技法も見ることができる作風が特徴的です。

一度見ると忘れられないようなどこか力強さも感じられる表現力は唯一無二とも言えるでしょう。

茶平 一斎

初代一斎が「一斎」の号を茶道宗家宗偏流家元より受け、現在三代目と、輪島初の茶道具専門の塗師として今でも時代と高い技術力が受け継がれています。

特徴的なのが、蒔絵と金彩の豪華さは勿論ですが、そこから見える細かな技術が行き渡っている重みのあるデザインが一斎らしいところかと言えます。余すことなく魅せる各作品は、高い評価を得ています。

輪島塗に対する愛ある一斎の感性は、その精密度が高い技術力で作り出す漆器を通して日本のみならず、世界からも注目され、二代目一斎からは海外での活動も積極的に行っております。

2013年に二代目が死去、現在は三代目が継承し、約70年以上作品に対する想いと技術が今も継承されています。

原 羊遊斎

原 羊遊斎は、華やかな作風で知られる江戸時代後期の蒔絵師です。

伝統的な技法と独自の美意識を合わせた、緻密で洗練された蒔絵作品を多数制作しました。

1769年に江戸に生まれ、蒔絵師の「鶴下遊斎」に師事し、蒔絵を学びました。

20代後半になると、腕を買われて藩主の御用品を多く手掛けました。

彼の生涯については不明な点も多く、1845年、または1846年に亡くなったとされていますが定かではありません。

谷文晁大田南畝などの文化人とも交流があったとされています。

彼の作品は、東京国立博物館など多くの博物館や美術館に収蔵されています。五島美術館で開催された展覧会では、蒔絵茶箱、印籠、根付、蒔絵櫛など、多彩な作品が展示されました。

代表作には『桜紅葉蒔絵重香合』『蔓梅擬目白蒔絵軸盆』『梅木蒔絵印籠』などがあります。

中林 星山

中林星山は福井県鯖江市を拠点とし、棗や香合などのお茶道具を主に制作している、昭和26年生まれの現代の作家です。

彼は「ぶりぶり香合」で有名な蓑輪一星から蒔絵の技術を学び、螺鈿や金彩などといった装飾を得意とします。
作品の素材には、一般的に高級木材として扱われる「神代杉」や「黒柿」を使用することが多く、気品漂う作風が特徴的です。

「神代杉」は埋もれ木の一種で、自然現象によって樹木が地中に埋もれ、その影響から大変美しい木目が出来上がります。
「黒柿」は、柿の木から1万本に1本の確率で出てくると言われており、非常に貴重な木材として有名です。

中林星山の作品は、上記の高級素材が使用されている点に加え、特徴的な形状もまた、評価に影響する重要なポイントとなります。

特に、和楽器の琵琶や扇子の形をした香合などは評価が高く、他にも繊細な絵付けがされている昆虫や動物、植物などを題材とした作品や、螺鈿や金彩が上品に施されているお品物も評価が高くなる傾向にあります。

表千家七代 天然宗左 如心斎

今回は表千家七代 天然宗左 如心斎についてご紹介致します。

如心斎は表千家六代 原叟宗左 覚々斎の長男に生まれ、初めは宗巴や宗員と名乗ります。
弟には、裏千家七代家元の竺叟宗室 最々斎と同八代家元の一燈宗室 又玄斎がおり、それぞれ千家を継ぐ優秀な兄弟が揃います。

如心斎の残した功績としては、又玄斎らと七事式」と呼ばれる茶の修練に必要な七つの式作法を制定したことや、現在の茶道における家元制度の基盤を築いたことが挙げられます。

 

17世紀の終わりごろから江戸時代は中期に入り、武力にとって代わる、学問を中心とした政治が社会に泰平をもたらします。財政も安定し、産業や文化の発達と共に人々の暮らしもまた、次第に豊かになっていきました。

町人などの富裕層が広がるにつれ、茶道人口は増大していきます。そのような時代の流れの中、茶の湯を遊芸とする風潮が徐々に高まりを見せます。

そこで如心斎達は、茶の湯の間口を狭めることなく遊芸性を取り入れ、そして利休以来伝承されてきた教えも失われないよう、「七事式」でその二つを見事に両立させました

七事式はそれぞれ、「茶カブキ」、「廻り炭」、「廻り花」といった千利休の時代から伝わる3つの式と、「花月」、「且座」、「一二三」、「数茶」の新たに加えられた4つの式で成り立ちます。
七事式という名前の由来は、無学和尚が碧巌録の『七事随身』から用いて名付けたとされています。

「花月」に由来する「花月楼」と呼ばれる茶室は、七事式に最適な八畳床付の造りとなっており、稽古の実践の場として重宝されました。
その他に、大坂の豪商・鴻池了瑛が大徳寺玉林院に建造した茶室「蓑庵」は、特に如心斎好みのものとされています。

 

如心斎は亡くなる数ヶ月前、息子で後に表千家を継ぐ啐琢斎に宛てた「云置」という書き置きを残します。
そこには千家の後継者をより明確にし、象徴とした存在にさせるような、厳格な決まり事が記されていました。

これが家元制度の基盤となり、千家が確固たる茶の名家として存続していくことに繋がります。

また、表千家四代江岑宗左や五代随流斎がそうしたように、千家に伝来する茶道具や記録を整理し、極書を行いました。
こうした様々な活躍もあり、如心斎は千家中興の祖という名声を得ています。

如心斎の好み物としては、前述の「花月楼」や「蓑庵」といった茶室の他にも、ツボツボ大棗などの蒔絵を用いた棗が好み物として多く残されています

 

黒田 正玄

黒田正玄は、江戸時代初期から現在まで、千家十職の一つとして活躍を続ける竹細工師の一族です。現在は十四代目が制作を行っています。

武士であった初代が始めた竹細工は、有名茶人・小堀遠州に気に入られたことで、茶道界とのパイプを得ました。遠州に推薦され幕府御用達の柄杓師となった他、多くの茶人たちと関係を築いていき、ついには三千家の御用となるまでに成長します。幕府体制崩壊後は茶道の勢いも衰えますが、当時の当主・十代正玄により存続しました。

花入や蓋置、菓子盆、水指、棗といった茶道に欠かせない多くの道具を作っている他、多くの茶杓を納めており、茶杓下削りの作者として茶道界においては広く知られています。