山本一如は1949年、大阪府に生まれました。
初代 中村翠嵐に師事し、独立後は京都清水焼展をはじめとした展覧会で多くの賞を受賞しています。総本山仁和寺顧問、杉本勇乗氏より“一如”と命名されました。
素焼き後、一珍盛りと呼ばれる技法でケーキにデコレーションするように立体的に描線を盛り上げていき、そこに色ガラスと同様の成分を持つ鮮やかな釉薬を刷り込んで焼き上げることにより、独特の鮮やかな発色とガラス質の光沢による繊細な表現が可能となります。
氏はこの交趾一珍盛りに生涯をかけて取り組み、現在も「良い作品を残したい」という一心で作陶を続けています。
ポピュラーな黄交趾のほか、浅葱色や桜の花びらのような淡桃色など柔らかい色合いの作品も多く手掛けており、建水や茶碗等の茶道具のほか、マグカップなど伝統的な文様とモダンなデザインを掛け合わせた作品も制作しています。
小泉仁左衛門は、1659年から続く南部鉄器製作の伝統を受け継ぐ襲名制の作家名です。
初代仁左衛門は、当時の盛岡市(現在の岩手県盛岡市)を治めていた南部藩主・重直公に召し抱えられ、城下町で南部茶の湯釜を製作したことから、その歴史が始まりました。
特に三代目仁左衛門は、扱いやすい持ち手付きの釜を考案し、これが現在の南部鉄瓶の原型となったと言われています。
そして2023年8月、十代目の引退を機に十一代目がその伝統を継承し、新たな活動を開始しました。
小泉仁左衛門の作品は、岩手県二戸市で生産される耐久性に優れた浄法寺漆を使用するほか、型土や木炭など、盛岡市近郊で採れる素材を用いて製作されています。
さらに、地金には江戸時代に流通していた古銭「寛永通宝」を原料とする砂鉄を使用。この砂鉄は独自の方法で不純物を取り除かれ、錆びにくいという特性を生かして製品化されています。
そのデザインにも特徴があり、球体や平らに近い楕円形のフォルム、さらには凝った意匠の持ち手が施された作品は、実用性と美観の両面から高い評価を受けています。こうした特徴が、時代を超えて人々に愛され続ける理由の一つとなっています。
武野紹鴎は、戦国時代の堺を拠点とした豪商であり、茶人として侘び茶の発展に大きく寄与しました。
彼は千利休の師としても知られ、茶道史において重要な位置を占める人物です。
紹鴎は、若狭国守護武田氏の一族の出身で、父とともに堺に移住しました。幼名を松菊丸、通称を新五郎といい、堺の商人として活動する一方で、茶の湯の探求に没頭しました。
京都で三条西実隆に和歌や連歌を学び、その後、南宗寺の禅僧・大林宗套に参禅することで、禅の精神を茶の湯に取り入れました。
紹鴎は、村田珠光が確立した侘び茶を継承しつつ、茶室の小型化を進めるなどの革新を行いました。従来の豪華絢爛な茶室から、2畳や3畳の小間の茶室を考案し、親密で落ち着いた空間を重視する侘び茶の新しいスタイルを確立しました。また、竹を素材とした茶杓や水指、蓋置などを自ら制作し、簡素で清らかな美意識を体現しました。
紹鴎の教えは、千利休をはじめとする弟子たちに受け継がれ、茶道の発展に大きな影響を与えました。特に千利休は、紹鴎の美意識をさらに深化させ、茶の湯を精神的な境地へと高めました。
晩年、紹鴎は京都四条に草庵「大黒庵」を設け、茶事に専念しました。彼の所有していた道具や茶室の設計、茶事の形式は後世の茶道に多大な影響を与え、今日でもその功績は高く評価されています。彼の墓は、大阪堺市の南宗寺にあります。
津田宗及は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した堺の豪商であり、茶人としても非常に名高い人物です。
千利休、今井宗久と共に「天下三宗匠」と称され、茶道の発展に大きく貢献しました。
宗及は堺の豪商、天王寺屋の津田宗達の子として生まれました。宗及は若い頃から茶道に興味を持ち、堺で茶道を学びました。堺は当時、貿易の中心地として栄えており、多くの文化人や商人が集まる場所でした。宗及はその環境の中で、茶道具の目利きとしての才能を磨きました。
宗及は特に、茶道具の目利きとして知られています。
彼は茶入の切型を考案し、茶入の研究において第一人者とされています。茶入とは茶葉を保存するための容器であり、その形状や装飾には茶道の美意識が反映されています。宗及の審美眼は非常に高く評価されており、彼が選んだ茶道具は後世にも高く評価されています。
また、豊臣秀吉に仕え、秀吉の九州征伐にも同行しました。茶頭としての役割を果たし、秀吉の信頼を得ていました。
しかし、千利休が茶道の中心人物となった後、宗及の地位は相対的に低下しました。1590年の北野大茶会を最後に、宗及は茶頭としての地位を失いました。
宗及は1591年に亡くなりました。
彼の死後、嫡男の宗凡には後継者がなく、家系は途絶えましたが、次男の江月宗玩は大徳寺の住職となり、宗及の影響は続きました。宗及の娘である南窓栄薫は宮中医の半井云也に嫁ぎ、その子供も大徳寺の住職となりました。
彼の遺産は、茶道の発展に大きく寄与し、現在も多くの茶道家や研究者によって尊敬されています。堺市の南宗寺には彼の墓があり、宗及の功績を偲ぶために多くの人々が訪れます。
今回は表千家七代 天然宗左 如心斎についてご紹介致します。
如心斎は表千家六代 原叟宗左 覚々斎の長男に生まれ、初めは宗巴や宗員と名乗ります。
弟には、裏千家七代家元の竺叟宗室 最々斎と同八代家元の一燈宗室 又玄斎がおり、それぞれ千家を継ぐ優秀な兄弟が揃います。
如心斎の残した功績としては、又玄斎らと「七事式」と呼ばれる茶の修練に必要な七つの式作法を制定したことや、現在の茶道における家元制度の基盤を築いたことが挙げられます。
17世紀の終わりごろから江戸時代は中期に入り、武力にとって代わる、学問を中心とした政治が社会に泰平をもたらします。財政も安定し、産業や文化の発達と共に人々の暮らしもまた、次第に豊かになっていきました。
町人などの富裕層が広がるにつれ、茶道人口は増大していきます。そのような時代の流れの中、茶の湯を遊芸とする風潮が徐々に高まりを見せます。
そこで如心斎達は、茶の湯の間口を狭めることなく遊芸性を取り入れ、そして利休以来伝承されてきた教えも失われないよう、「七事式」でその二つを見事に両立させました。
七事式はそれぞれ、「茶カブキ」、「廻り炭」、「廻り花」といった千利休の時代から伝わる3つの式と、「花月」、「且座」、「一二三」、「数茶」の新たに加えられた4つの式で成り立ちます。
七事式という名前の由来は、無学和尚が碧巌録の『七事随身』から用いて名付けたとされています。
「花月」に由来する「花月楼」と呼ばれる茶室は、七事式に最適な八畳床付の造りとなっており、稽古の実践の場として重宝されました。
その他に、大坂の豪商・鴻池了瑛が大徳寺玉林院に建造した茶室「蓑庵」は、特に如心斎好みのものとされています。
如心斎は亡くなる数ヶ月前、息子で後に表千家を継ぐ啐琢斎に宛てた「云置」という書き置きを残します。
そこには千家の後継者をより明確にし、象徴とした存在にさせるような、厳格な決まり事が記されていました。
これが家元制度の基盤となり、千家が確固たる茶の名家として存続していくことに繋がります。
また、表千家四代江岑宗左や五代随流斎がそうしたように、千家に伝来する茶道具や記録を整理し、極書を行いました。
こうした様々な活躍もあり、如心斎は千家中興の祖という名声を得ています。
如心斎の好み物としては、前述の「花月楼」や「蓑庵」といった茶室の他にも、ツボツボ大棗などの蒔絵を用いた棗が好み物として多く残されています。
今井宗久は、戦国時代に堺で活躍した豪商および茶人です。
千利休、津田宗及と並び「天下三宗匠」と呼ばれました。
彼の出自は明確ではなく、近江国高島郡の今井氏や大和国の今井荘という地域の出身という説があります。宗久は若い頃に堺に移住し、納屋宗次という商人の元で経験を積みました。納屋宗次は堺の代表的な商人であり、宗久は彼の元で力をつけ、独立後は納屋業に加えて鉄砲の製造にも手を広げました。
宗久は商才に恵まれており、鉄砲の製造や南蛮貿易を通じて巨万の富を築き上げました。特に、鉄砲の大量生産により堺は日本有数の鉄砲産地となり、宗久の影響力は大きくなりました。彼は堺の自治組織である会合衆の一員となり、商人としての地位を確立しました。
商人として成功を収めた宗久は、茶の湯の世界にも足を踏み入れました。彼は武野紹鴎(たけのじょうおう)に師事し、茶の湯の技量を磨きました。紹鴎の娘と結婚し、その財産や茶器を引き継いだことで、宗久は堺を代表する茶人となりました。彼は千利休や津田宗及とともに、信長の茶頭としても活躍しました。
宗久の人生において重要な転機は、織田信長との出会いでした。1568年、信長が上洛を果たした際、宗久は単独で信長に謁見し、名物茶器を献上しました。この行動により、宗久は信長の信頼を得て、堺の豪商たちを代表する立場となりました。信長は堺の商人たちに戦費として矢銭を要求しましたが、宗久はこれを仲介し、商人たちを説得して信長の要求を受け入れさせました。この功績により、信長は宗久に多くの特権を与えました。
1582年に信長が本能寺の変で亡くなった後、宗久は豊臣秀吉に仕えることになりました。しかし、茶の湯の世界では千利休の影響力が次第に強まり、宗久は次第にその活動を控えるようになりました。秀吉の北野大茶会以降、宗久は茶の湯の世界に顔を出さなくなり、1593年に74歳で生涯を終えました。
今井宗久は、商才と茶の湯の技量を兼ね備えた稀有な人物でした。彼の商業活動は、堺を日本有数の商業都市に押し上げる一因となり、信長の成功にも大きく寄与しました。宗久のような政商は、戦国時代の日本において重要な役割を果たしました。彼の生涯は、商人としての成功と茶人としての優れた技量が交錯する、戦国時代の一つの象徴といえます。