藤哲斎(とう てっさい)は、昭和期に活躍した広島県の彫刻工芸作家です。
広島は筆の名産地であり、哲斎もはじめは筆に文字を彫る仕事をおこなっておりましが、研鑽を積んでいくのちに煎茶道具に彫刻を施すようになっていきました。
昭和30年に広島県美展で作品が入選し、地元を中心に人気を集めることとなりました。
作品には竹を使用した煎茶道具が多くあります。哲斎の培った技量と細やかな表現力は特に茶量(茶合、仙媒)作品に強く表れ、現在でも多くのファンがおります。広島の活動が中心だったため、中国地方の煎茶をされている方に人気がありました。
哲斎が彫る茶量の図案は様々あり、人物や動物、草木といった細やかな表現が必要なものから煎茶人好みの漢詩文や中国古典を取り入れたものまで、幅の広い組み合わせで作品に趣を生み出しました。
茶量以外でも茶巾筒や煎茶盆など、いずれも作家性のある煎茶道具を制作しており、今なお多くの人々を惹きつけております。
七代 堅叟宗守 直斎は茶道 武者小路千家の家元です。
直斎が活躍したのは江戸時代。今から300年ほど前の1725年に生を受けます。
直斎は六代 真伯宗守 静々斎に子がいなかったことから養子として引き取られ、茶を学びます。
静々斎が1745年に53歳で亡くなると直斎が七代目を襲名します。
武者小路千家、正式には官休庵ですが、直斎は官休庵中興とも呼ばれています。
時代は江戸時代中葉。時の将軍は八代将軍徳川将軍でした。
吉宗と聞くと目安箱の設置や某テレビ番組などでも有名で人気がありますが、時代は変革期と言っても過言ではないよう様相を呈していました。
幕府財政は破綻寸前で、吉宗はその財政立て直しのため質素倹約、増税を課します。その結果庶民を始め、様々な人たちが影響を受けました。
茶の湯は高尚なものです。そのため茶道の千家の家々もその影響はまぬがれません。
そんな中で直斎は辣腕を振るいます。
表千家、裏千家とも協力し、現在へと続く家元制度を整え、時代の荒波に対し協力して乗り越えていきます。
また、それまで4畳半以上8畳程の広さの茶室が伝統として受け継がれていた中で、15畳という広さの弘道庵を作ったことも画期的でした。
歌や書に秀で、多才な才能を発揮していた直斎でしたが58歳という若さでこの世を去りました。
千宗左而妙斎は、茶道表千家十四代家元です。
表千家とは、千利休を祖とする茶道流派の一つです。裏千家・武者小路千家と共に茶道三千家とも呼ばれる、茶道では大変有名な流派となります。
而妙斎(幼名:岑一郎)は1938年、そんな表千家の十三代家元・即中斎の長男として生まれます。
1967年に大徳寺の方谷浩明老師から「而妙斎」の斎号を与えられて、宗員となりました。1980年の先代・即中斎の逝去に伴って、翌年1981年に表千家家元十四代宗左を襲名します。1990年の利休400年忌を迎えるにあたっては而妙斎が亭主となり、三千家合同でお茶会が行われました。
2000年には芸術文化分野において優れた業績を残した者に与えられる紫綬褒章を受章します。
その後2018年に長男・猶有斎に家督を譲り、自身は隠居します。昭和から平成にかけて表千家を発展させた方として、広く名が知られております。美術品だと、茶道具の書付などで見かける場面が多いかもしれません。
鈴木 玩々斎は竹芸作家で、明治から昭和にかけて活躍しました。
16歳の頃に竹芸作家の山下巧竹斎に師事し、腕を磨いた後独立、その翌年森華堂より「元々斎」の号を受け、その後「玩々斎」に改名します。改名後は浪華籃友会展、大阪工芸展などの展覧会に出展し高い評価を受けています。
作風は主に煤竹や竹根を使用し花籠や敷物、煎茶道具や華道具などを手掛けており、非常に細密に作りこまれた網目の美しい作品や荒々しい印象を受けるような芸術性の高い作品なども手掛けています。使う素材も煤竹・鳳尾竹、紫竹、斑竹、古矢竹など作品によって使い分け、編み方も六ツ目編み・亀甲編み・菊底編み・花紋編み・透かし編みなど様々で技術の高さと作品に掛けるこだわりが垣間見られます。
また作家自身が昭和25年に亡くなっていることもあり、作品が50~100年ほど経っていることで竹が程よく風化することで美しい飴色になっている物も多く人気が高くなっています。
伊勢崎晃一朗は、1974年生まれの備前焼作家です。
人間国宝である備前作家・伊勢崎淳の長男として生まれ、現在においても活躍の幅を広げておられます。
東京造形大学の彫刻科を1994年に卒業し、その後はアメリカにて研鑽を積みました。1998年からは父・淳の弟子でもあった陶芸家、ジェフ・シャピロのもとで二年間陶芸を学びます。そして2000年に備前に戻り、父・淳のもとで陶芸家としてのスタートラインに立ちました。
以降は多くの展覧会で受賞を重ねつつ、個展やグループ展を開催する人気作家となっております。
伊勢崎晃一朗の作品では、オブジェ的な造形のものがよく見られます。今までにないような凝った造形を創り出す一方で、手の取りやすさなど使い勝手の点でもきちんと計算されており、まさにアート性と用の美が両立した現代的な備前焼といえます。
土色に関しても、備前伝統の重厚な色味のものから海鼠釉や金彩などを取り入れた豊かな発色を持つものまで様々であり、広くユニークな作品が楽しめる作家さんです。
中川義實は明治時代頃に活動した岡山県出身の金工師です。
義實について残された資料は少なく、明治時代頃までの金工師をまとめた『古今金工一覧』と父・正阿弥勝義の手紙の宛先と内容からその活躍を知る事が出来ます。
『古今金工一覧』によると「夏雄門中川氏十四代目ナリ東京後ニ京師住」とあります。ここから加納夏雄に師事した中川家の14代目である事が見受けれます。加納夏雄は京都の名工として知られ、中川家は父・正阿弥勝義の生家で岡山の金工師の名門として知られます。また、勝義との手紙から東京や京都・大阪にいたことは間違いありません。手紙の内容から神戸に光村家という顧客を抱えており、刀装具を依頼されていたことが分かります。
義實の作品は刀装具のほかに鉄瓶や香炉から仏像まで広く残されています。そのいずれも美麗であり、細緻に富んだ仕上がりとなっております。
残念ながら世にあまり認知されておらずインターネットでは海外向けの販売サイトのみヒットし日本語のサイトが全く出ない人物となっております。少しでも中川義實が世に広まり、緑和堂にお持ちいただけることを心よりお待ちしております。