裏千家九代 石翁宗室 不見斎

茶道裏千家九代家元 石翁宗室 不見斎についてご紹介いたします。

 

裏千家八代・一燈宗室 又玄斎の子であり、十代・認徳斎の父に当たります。
また、不見斎の三男宗什は武者小路千家六代家元・好々斎です。

不見斎の大きな功績としては、1788年の天明の大火で焼失した「今日庵(こんにちあん)」を建て直したことがあります。
今日庵は1648年、千宗旦によって不審庵の後庭に建てられた、裏千家の中心となる茶室です。大火は京都の火事で過去最大規模のものとなり、今日庵も焼失免れませんでした。そこで不見斎はすぐさま復興に取り掛かり、翌年には今日庵を再建します。
さらに同年、利休二百回忌の茶会も成功させる八面六臂の活躍を見せました。

 

不見斎の好み物(茶人が職人に意を伝え、制作を依頼した茶道具)としては、「八角香合」や「松ノ木香合」が有名です。
また、屠蘇器などのような一式全体での品物を好み物としたのは不見斎が始めであると言われています。

高名な裏千家の家元であるため、その好み物は高い評価を持ちます。また、自身の制作した「茶掛」や「茶杓」といったお品物も高い評価が期待できます

 

 

裏千家十代 柏叟宗室 認得斎

茶道裏千家十代家元 柏叟宗室 認得斎についてご紹介致します。

 

裏千家九代・石翁宗室 不見斎の子として生まれ、十一代・玄々斎は認徳斎の婿養子に当たります。

父・不見斎と同様に、加賀前田藩の伊予久松家に仕えました。家督を継いだのは35歳と遅めですが、20歳の頃には利休二百回忌で花を生ける大役をこなすなど、才覚は早くに見せていました。

十代を襲名した後も法要茶会を多く取り仕切り、受け継がれてきた裏千家の地盤をさらに強固なものとしました。

 

又玅斎の好み物(茶人が職人に意を伝え、制作を依頼した茶道具)には、蒔絵や金泥の絵付などをあしらった絢爛なものが多いです。華やかな時代の反映とも言えるかもしれません。

好み物の他、自身で制作した「茶杓」や「茶掛」といったお品物も高い評価を持ちます。

裏千家十一代 精中宗室 玄々斎

茶道裏千家十一代家元 精中宗室 玄々斎についてご紹介いたします。

 

三河国奥殿藩四代藩主・松平乗友の子として生まれ、その後男児に恵まれなかった裏千家十代・認得斎の婿養子となりました。
十二代・又玅斎は玄々斎の婿養子に当たります。

 

武家の血筋である玄々斎は大名家と深い繋がりがあり、裏千家の後ろ盾ともなっていました。
しかし明治維新後、新政府の行った幕府由来の文化を排する動きにより、武家を後ろ盾としていた茶道は没落の危機にさらされてしまいます。

そこで1872年、玄々斎は政府に茶道の伝統性を訴える建白書を提出します。
これにより茶の湯の格式を政府に認めさせ、没落しかけた地位を再確立させました。

その他の功績としては、旅先で茶を楽しめる「茶箱点前」の考案や、裏千家の作法を改革し、表千家茶道との差別化を行ったことなどが挙げられます。

 

又玅斎の好み物(茶人が職人に意を伝え、制作を依頼した茶道具)は、利休から続く古式のものから近代的な華やかな作品、また歴代茶人の好み物に又玅斎の意匠を加えた「再好み」と呼ばれるものがあります

好み物の他、自身で制作した「茶杓」や「茶掛」といったお品物も裏千家家元作品として高い評価を持ちます。

 

 

裏千家十二代 直叟玄室 又玅斎

茶道裏千家十二代 直叟玄室 又玅斎についてご紹介致します。

角倉玄寧の子として生まれ、裏千家十一代・玄々斎の婿養子となった人物です。
十三代・円能斎の父に当たります。

 

又玅斎は20歳で家督を継ぎ、32歳で引退しております。
時代は明治初期、明治新政府が近代化を推し進める流れの中で、茶道は陰りをみせていました。苦悩の多い時代に家督を継いだ又玅斎でしたが、先代の玄々斎とともに裏千家、引いては茶の湯の権威を保つことにつとめました。

息子・円能斎に家督を譲った後も畿内で茶人を育て、地方に茶を普及するなど円能斎以降の裏千家隆盛に側面から寄与しました。

 

又玅斎の好み物(茶人が職人に意を伝え、制作を依頼した茶道具)として有名なものには、「住吉釜」が挙げられます。
名が示す通り、こちらは住吉大社に伝わる釜に倣った作品となります。釜の絵は又妙斎自身が描いていることでも知られています。

そのほかの好み物や、自身で制作した「茶杓」や「茶掛」といったお品物も裏千家家元作品として高い評価を持ちます。

 

 

千利休(千宗易)

今回は日本史によく登場する千利休(千宗易)について、経歴と共に彼が茶道史にどのような影響を与えたのかを紹介いたします。


千利休
は16世紀、名だたる戦国武将が群雄割拠していた時代において、「茶の湯(わび茶)」を大成させた茶人です

わび茶の始まり自体は15世紀後半になります。
それまでの茶の文化というのは、美術工芸品(主に唐物)の鑑賞と喫茶が結びついたような形式で行われていました。
そこに現在の茶道に見られるような精神性を持たせ、”わび茶”と呼ばれる茶様式を始めたのが村田珠光です。

そして、珠光のわび茶をさらに推し進めたのが、堺の豪商であった武野紹鷗です。紹鴎は堺で禅の修行に取り組んだのち、”茶禅一味”という言葉があるように茶と禅の結びつきを深めました。
また、茶会の掛物に和歌を使うなど、茶が和風化していくきっかけとなる人物でもありました。

そのようにわび茶が発展していく流れの中で、わび茶を完成させ、茶聖と称されるほどの称賛を得たのが千利休でした。

 

大永二年(1522年)に堺で生まれ、北向道陳や前述の紹鴎らに茶を学んだ利休は、千宗易という名で次第に茶の湯界に頭角を現していきます。

その頃、世の流れとして茶の湯が政治的な道具として扱われることも少なくはありませんでした。
当時、経済の中心地である堺を掌握していた織田信長も自らの茶会を開き、後に「天下の三宗匠」と称される千宗易・今井宗久・津田宗及らの”堺衆”(堺の権力者)を参仕させました。
利休は信長に参仕するにあたり、「抛筌斎(ほうせんさい)」という号を新たに使い始めます。

 

信長没後も、天下統一を成し得た豊臣秀吉に利休は重宝されます。
禁中茶会(1585年)北野大茶湯(1587年)など、茶の湯界に権威を示す目的で秀吉が開催した、大規模茶会の茶頭の一人として利休は活躍していきます。

天皇が公で初めて茶の湯の席に入ったとされる禁中茶会においては、そこで初めて我々が聞き馴染みのある「利休」という居士号が天皇から与えられました。
そして北野大茶湯で主管を務めあげると、利休は茶人として確固たる地位と名誉を手に入れることとなりました。

その後、利休は秀吉と決裂し、1591年に自刃。
友好的だった二人の関係はなぜ悪化してしまったのか、その理由は利休が秀吉の怒りを買ったためとされています。
しかし、その怒りに繋がった原因については不明なところも多く、今日でも様々な説として憶測が飛び交っています。

 

秀吉は先の大規模茶会にて黄金の茶室を用いるなど、絢爛豪華なものを好みました。
それに対し、利休は以前から”わび”に徹した簡素な茶の湯を追求してきました。
その相違点も、仲違いした原因の一つだと言われています。

利休が具体的に何をしたのかというと、まずは茶室の改革が挙げられます。
天正十年(1582年)頃、それまでの主流であった四畳半・三畳台の茶室とは異なる、二畳敷の茶室を利休は生み出しました
その原形とされるのが、京都の妙喜庵に残る有名な茶室「待庵(たいあん)」です。

待庵は日本最古の茶室建造物であり、現代において一般的な茶室とされる草庵茶室の基調となった建物です。

また、天正十四年(1586年)に開かれた茶会には、「宗易形の茶碗」が使われていたとされ、利休が陶工・長次郎に作らせたという樂茶碗ではないかと考えられています。
黒と赤の釉薬が特徴的な茶碗であり、利休は特に黒のものを好んだとされています。
樂茶碗は長次郎の子孫である樂吉左衞門家が代々作り続け、その技術は現代においても受け継がれています。

他にも、竹で作られた花入や竹中節茶杓など、利休の求める”わび”の精神性が反映された茶道具が利休道具として定着していきます。

 

利休のわび茶は義子の千小庵、孫の千宗旦へと受け継がれていき、表千家裏千家といった現存するいくつかの流派へと枝分かれしていきました。

しかしどの流派にしても、その根底には利休が求めてきた”茶の精神”が宿っていることに間違いはないと言えるでしょう。

表千家十一代 瑞翁宗左 碌々斎

茶道表千家十一代家元 瑞翁宗左 碌々斎についてご紹介致します。

十代・吸江斎の子であり、十二代・惺斎の父に当たります。

 

碌々斎は、明治維新後の茶道衰退期、復興に尽力した茶人として有名です。

当時文明開化の折、茶の湯は明治新政府から軽んじられ、千家は没落の危機に瀕しておりました
19歳で家督を継いだ碌々斎は、30代の時に明治維新という時代の荒波と相対することとなります。新政府は特に、徳川に由来するものを廃することで新たな時代を作ろうとしたため、徳川の引立を得ていた表千家は立場を追われ、苦難することとなりました。

そんな中にあって、1880年に北野天満宮で開かれた献茶の儀で碌々斎は、そこでの見事な振る舞いが認められ、財界関係者などからの強い支持を得ます。

1887年には明治天皇に茶を献じ、表千家の復興の旗印を掲げました。

 

碌々斎の好み物(茶人が職人に意を伝え、制作を依頼した茶道具)として有名なものでは、北野天満宮での献茶の記念に制作された「北野三十本茶杓」がございます。
円能斎の好み物は素材の味を活かした茶道具が多く、素朴ながらも無駄が無く、格式高い精神性が表されております。

裏千家家元宗匠の花押や書付のある好み物は、高名な茶人監修の意味合いで高い評価が期待できます

 

 

見附 正康

見附正康は九谷焼の作家です。 1975年に石川県に生まれ、石川県九谷焼技術研修所在学中に九谷焼の名工・福島武山出会ったことで卒業後に師事します。その後は作品が認められない日々が続きますが、ある時オオタファインアーツの大田 …

柳原 睦夫

柳原睦夫は1934年に生まれた高知県の陶芸家です。 陶芸とは縁のない医師の家庭で生まれ育ち、デッサンを学ぶため京都市立芸術大学に進学しようとしましたが、縁故のある学長より同大学で陶磁器専攻の主任教授を務める富本憲吉に師事 …

藤 哲斎

藤哲斎(とう てっさい)は、昭和期に活躍した広島県の彫刻工芸作家です。 広島は筆の名産地であり、哲斎もはじめは筆に文字を彫る仕事をおこなっておりましが、研鑽を積んでいくのちに煎茶道具に彫刻を施すようになっていきました。 …

鈴木 玩々斎

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伊勢崎 晃一朗

伊勢崎晃一朗は、1974年生まれの備前焼作家です。 人間国宝である備前作家・伊勢崎淳の長男として生まれ、現在においても活躍の幅を広げておられます。 東京造形大学の彫刻科を1994年に卒業し、その後はアメリカにて研鑽を積み …

中川 義實

中川義實は明治時代頃に活動した岡山県出身の金工師です。 義實について残された資料は少なく、明治時代頃までの金工師をまとめた『古今金工一覧』と父・正阿弥勝義の手紙の宛先と内容からその活躍を知る事が出来ます。 『古今金工一覧 …

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金龍堂は、初代大國壽朗が発足した鉄瓶や金工品を得意とした工房です。 初代の大國壽朗の他にも松尾忠久、佐野直之らの有名作家が在籍していました。 金龍堂の歴史は古く、明治期~大正期にかけて多くの名品を世に残しました。 明治期 …

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初代木越三右衛門(木越正之)は、江戸時代に河北郡木越村で生まれました。農民の出身でしたが、鋳物師としての才能を見出され、横川長久のもとで修行しました。18歳の時には、師である横川長久の命により金沢天徳寺の梵鐘(釣鐘)を製 …

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荒井 正春

荒井正春は、福井県で三代続く蒔絵師の名跡です。 初代より当代まで相伝された蒔絵技法は、際立つ漆と金の美しさをもっており、古くからある伝統的な茶道具に古典的な技法ながらも新しい風を吹き込む先進的なモノづくりが特徴となってい …

益田 芳徳

益田芳徳は1934年、東京に生まれました。 中学生のころ、教員であった利根山光人に絵画を学び、画家を志すようになりました。 1954年、20歳のころに上越クリスタル硝子株式会社(2023年10月廃業)よりガラス作品の制作 …

大樋 年朗

大樋年朗(本名:奈良年郎)は、代々大樋焼を継承する本家「大樋長左衛門」の十代目となる人物です。 大樋焼は金沢にある、楽焼を源流とした陶芸窯、およびその流派です。 年朗は1927年に九代大樋長左衛門の長男として生まれ、早く …

川瀬 竹春

川瀬竹春(初代)は、岐阜県出身の陶芸家です。 1894年岐阜県安八郡輪之内町で生まれ、京都に移りました。 三代清風与平に指導を受けた後、初代三浦竹泉に師事。染付などの技法を体得します。 祥瑞(染付磁器の一種)による茶器を …