裏千家五代家元 常叟宗室 不休斎 についてご紹介致します。
裏千家四代・仙叟宗室の長男であり、六代・泰叟宗室 六閑斎の父に当たります。
不休斎は、その短い生涯と特有の茶道具が注目される人物です。
母を早くに亡くし、父・仙叟宗室とともに京で茶道を学びました。25歳で宗匠を継ぎますが、体が弱く、加賀藩内の老錬な茶人たちとの関係に苦しみます。そのため、松山藩の藩主・前田綱紀に推挙されて松山に移住し、新たな環境で充実した日々を送りました。しかし、享年32歳という若さで急逝し、宗匠としての活動はわずか7年に過ぎませんでした。
常叟宗室は宗匠として「宗室」の名を名乗りますが、宗匠として活動を始める前には法名でこの名を名乗り、後の代継ぎからは「宗室」の名が襲名されることになりました。
不休斎が遺した茶道具は少ないものの、その美意識が色濃く反映されたものが多いです。
中でも「甲赤茶碗」が特に有名です。この茶碗はシンプルな形状ながら、鮮やかな朱色が施されており、簡素でありながら華やかさで力強い印象を与えます。
これらの茶道具は、元禄時代の成熟した町人文化を反映するものとして捉えられるとともに、彼の環境の変化による心持ちを反映しているとも考えられます。
不休斎の書付がある作品、また茶杓や茶碗などの不休斎本人が手掛けた作品は、その名高さや時代性から高い人気を持ちます。
今回は表千家四代 江岑宗左 蓬源斎についてご紹介いたします。
江岑宗左は千宗旦の三男であり、表千家を始めた人物になります。
その他に、『千利休由緒書』や『江岑夏書』といった、千家に伝わる茶の湯の教えを書物に書き残したことも功績として挙げられます。
江岑は1642年、父宗旦が大徳寺で修行を行っていた時の先輩である沢庵和尚や玉室和尚、剣豪として有名な柳生宗矩の協力もあり、紀州徳川家の茶頭として出仕することになります。
ちなみに紀州徳川家は御三家と呼ばれる分家の一つであり、江戸の将軍家に次ぐ地位を持っている家元です。
そこに勤めるということはすなわち、千家の格もより上がることを意味しました。
初代藩主の徳川頼宣は江岑を重宝し、それ以降も江戸幕府が続いていた間は、代々表千家が紀州徳川家の茶頭を任されました。
そして1646年に宗旦が隠居すると、千家の家督は江岑へと譲られ、不審庵も継承されます。
これが表千家の始まりです。そして大徳寺から「宗左」の名を授けられると、表千家はそれ以降代々、宗左を襲名するようになります。
弟の仙叟宗室は、宗旦が隠居の際に不審庵の裏側に建てた今日庵を継ぎ、裏千家を起こします。
兄の一翁宗守は元々塗師でしたが、のちに千家に戻ると、官休庵という茶室を建て武者小路千家を襲名します。
このような経緯から三千家は成立し、現在に至るまでそれぞれの茶の湯の教えが継承されております。
また江岑は養子として迎えた随流斎(表千家五代)のために、利休から代々伝承されてきた千家茶道の教えを丁寧に書物へと書き残しました。
それが冒頭にもありました、『千利休由緒書』や『江岑夏書』です。
その書物のおかげにより、利休以来の教えが失われることなく今日まで続いていると言えます。
江岑の好み物の数はそう多くありませんが、かつての利休のように竹の花入や「柴の庵」と呼ばれる茶碗など、質素な茶道具を好んで使用しました。
他にも、和歌山城下の三木町に建てた下屋敷に滞在していた際、茶湯点前に使うある小棚を好んでいました。それが三木町棚(別名 江岑棚)と呼ばれる棚です。
三木町棚はその後も表千家の人間に愛用されていきます。その中でも、表千家の書付が入った三木町棚は高い評価となる場合がございます。
茶道裏千家六代家元 泰叟宗室 六閑斎についてご紹介致します。
裏千家五代・常叟宗室 不休斎の長男であり、七代・竺叟宗室 最々斎の養父に当たります。
能書家であり、絵や歌にも優れた人物であったといわれております。
茶の湯は表千家六代・覚々斎から学びます。16歳から松山藩(現・愛媛県)に出仕し始め、その後京や江戸、加賀を頻繁に往来する生活となります。しかし、元来体の弱かった六閑斎には大きな負担となりました。妻を早くに亡くした影響もあり、自身も33歳の若さでこの世を去ることとなりました。
父の不休斎が早逝であり、次代の最々斎も25歳と、この時代は早逝が続いております。
作品としては「丙午の茶碗」が中でも有名であり、また短命ながらも多くの書や絵がその美意識とともに伝わっております。
六閑斎本人の作品や、花押や書付のある作品は高い評価が期待できます。
茶道裏千家七代家元 竺叟宗室 最々斎についてご紹介致します。
表千家六代・原叟宗左 覚々斎の次男として生まれ、長兄は表千家七代・天然宗左 如心斎です。
また、同じく三男は裏千家八代・一燈宗室 又玄斎であります。
表千家の子でありますが、裏千家六代・六閑斎に世継ぎがいなかったため18歳で養子に入り、七代を継ぐこととなりました。
六閑斎が33歳で早逝し、唐突な七代襲名となった最々斎ですが、彼もまた25歳の若さで早逝しており、生き様や茶の点て方といったことがほとんど後世に残っていない人物となります。
ただ、好み物(茶人が職人に意を伝え、制作を依頼した茶道具)については、短い在世の中でも比較的残されております。
伝わるものでは「寒雲棗」「駒留棗」が特に有名であり、現在でも多く写し(優れたある作品を手本として制作された作品)が作られております。
最々斎の好み物の他、本人直筆の書や自作の茶杓などは高い評価が期待できます。
茶道裏千家八代家元 一燈宗室 又玄斎についてご紹介致します。
表千家六代・原叟宗左 覚々斎の三男として生まれ、長兄は表千家七代・天然宗左 如心斎、次兄は裏千家七代・竺叟宗室 最々斎です。
また、裏千家九代・不見斎の実父に当たります。
又玄斎は、裏千家中興の祖と呼ばれております。
町人文化の発達により、大衆が茶を嗜むようになったのがこの時代です。茶道人口の増加を受けて、多くの門人に分かりやすく茶の湯を伝えるため長兄・覚々斎とともに編まれたのが「七事式」です。
また又玄斎は、秘伝であった千家の茶の湯の作法や道具の使い方を、その禁を破り『浜之真砂』という書物にまとめました。
これらの取り組みが功を奏し、江戸中期の千家流茶道の隆盛に繋がりました。
町人文化に茶の湯を広げた又玄斎ですが、好み物(茶人が職人に意を伝え、制作を依頼した茶道具)には古流の侘びを感じさせるものが多いです。有名な「龍頭茶入」の他、四代や十一代に劣らず多くの好み物が残されています。
好み物の他、本人直筆の書や自作の茶杓などは高い評価が期待できます。
千利休の実子であり、「道安風炉」などで知られる千道安についてご紹介致します。
道安は天文15年(1546年)、千利休と三好長慶の妹である宝心妙樹(お稲)の間に長男として生まれます。初名は紹安。
母の宝心妙樹が亡くなると、後妻に宗恩を迎えた利休との関係は悪化し、道安は家を出ます。その後、和解に至るまで10年もの間、二人の面会はなかったといわれています。
宗恩の連れ子である千小庵とは、一度たりとも同じ茶会に参加することがなかったといわれるほど相容れない関係でした。
その小庵と共に豊臣秀吉に仕え、茶頭八人衆に数えられるほど、道安は茶人として頭角を現していきます。
利休の切腹後、飛騨高山藩金森長近の元に身を寄せ、しばらく謹慎することになります。
そして「小庵召出状」によって千家再興が認められると、堺に戻り本家である堺千家の家督を継ぎました。
その後は再び秀吉や細川三斎の茶道を務めることもありましたが世継ぎには恵まれず、道安の死後、堺千家は断絶してしまいます。
千道安に関するエピソードは『茶話指月集』に残されており、利休や秀吉との関係性を垣間見ることができます。
道安が残した功績としては、茶道具の灰匙に金属を用いたことが有名であり、『茶話指月集』にもその話があります。
それまでの灰匙は竹に土器をさしたものが使われていたそうで、道安が金属のものを使うと、初めはそれを見て笑った利休ものちに金属製のものを使うようになりました。
他にも、小座敷に天窓を開けたり、道安囲や道安風炉を考案したりと、独創的な茶人であったと言われています。
道安風炉の特徴として、その形状から様々な釜との合わせやすさが挙げられ、表千家八代啐琢斎の好み物として道安風炉を写した鉄道安風炉が作られるなど、多くの茶会にて好んで使用されてきました。
そのため、風炉師の山崎宗元や釜師の和田美之助など、道安風炉は作家によって高い評価となる場合があります。