籔内佐斗司は日本の彫刻家です。奈良県のマスコットキャラクターせんとくんの生みの親として世間に広く認知されています。
1953年に大阪市に生まれる。1978年東京芸術大学美術学部彫刻科卒業。彫刻家としての第一歩を踏み出す。1982年~1987年まで東京芸術大学大学院美術研究科保存修復技術研究室に勤め、仏像などの古典技法を研究し保存修復などにも参加しました。
1987年から彫刻家として活動を開始して数多くの作品を手掛けます。
また籔内佐斗司の作品にはパブリックアートも多く、その特徴的な作風から観光スポットや待ち合わせ場所などに活用され広く愛されています。
さらに広く世間に認知されたのはやはり奈良県のマスコットに起用されたせんとくんを生み出したことでしょう。
特徴的な作風を見事にマスコットに落とし込みブームのきっかけ作りに成功しました。
また籔内佐斗司は木彫りの型から鋳造を行いブロンズ作品制作も行っており、早い段階からブロンズにエディションナンバーを設け、価値を高めています。
人気は上がる一方であり、これからが大変楽しみな作家です。
山本一洋は日本の陶芸家です。純プラチナ彩を独自の技法で確立させ国内外から高い評価を受けています。
1944年に長崎に生まれる。1985年「純プラチナ彩」の研究に入る。
作風は伊万里焼にプラチナ特有の光沢を表現するプラチナ彩を取り入れた物が特徴的です。陶磁器にプラチナを用いることは技術的に難しいとされてきましたが、山本一洋は独自の技法で彩色に成功し純プラチナ彩を確立させました。
陶芸に純プラチナを用いる作家は世界でたった一人で唯一無二の存在です。
そして細密な文様に美しく輝く彩色はまさに宝石のようです。
称賛の意を込め「セラミックの宝石」と言われ国内外にて現在も高い評価を受けております。また作品を一つ製作するのに多大な時間を要するため、作品の入手が難しい作家の一人でもございます。
現在も各地で個展などを開催しております。一度山本一洋の超絶技巧を目にすると虜になることは間違いないでしょう。これからの活躍にも大いに期待が寄せられています。
梶田半古は、明治から大正にかけての日本画家です。
門弟には小林古径や前田青邨、奥村土牛らがおり、近代日本画界を語る上では重要な立ち位置にいる人物です。
東京出身で、家は代々幕府の鷹狩でしたが、父は彫金を業としていました。
苦しい家計を助けるために若い頃より輸出品の扇子や団扇、ハンカチに絵を描く仕事、いわゆるデザインをする仕事に従事し家庭を支えていたそうです。
絵については13歳の時に浮世絵師で楊洲周延の弟子・鍋田玉英より学びました。しかし、眼病や家庭の事情で長くは続かず、師が変わっては断念するを繰り返し苦悩の日々が続いておりました。
15歳の頃に就いた輸出品会社で下絵の仕事をしていた時、同じ会社にいた菊池容斎の門人・鈴木華邨より絵の教えを受け、華邨から菊池容斎の木版画集『前賢故実』を紹介されます。そこで全図を暗記するほどまでに模写し、独学で人物画を修得するなど驚異的な努力を見せました。
この成果が翌年の東洋絵画共進会で褒状という形で現れ、その後1891年、日本画の革新を目指す日本青年絵画協会の結成に発起人の一人として加わるほどまでになりました。この頃の梶田半古は21歳です。
1895年には内国勧業博覧会で褒状を受賞。1896年には日本青年絵画協会が日本絵画協会に発展、1898年には日本美術院が創立される際に特別賛助会員となって活躍するなど、日本画界に目覚ましい貢献ぶりを見せました。
半古は1917年、48歳でこの世を去ります。令和になって墓じまいとなってしまった東京巣鴨にある梶田半古の墓石の傍らに、門弟の小林古径によって書かれた「梶田半古先生之碑」があったそうです。
半古は、当時の流行であった華やかで目を引く大作ばかりが重視される風潮に警鐘を鳴らしていたため、文展参加よりも小説や新聞の挿絵の仕事に多く取り組んでいました。そのためか、梶田半古の作品は所在が確認できない作品が多くあり、日本画界の重要人物でありながらその研究が進んでいないそうです。
尾身周三は、1943年新潟県に生まれ、1960年新宿造形美術卒業後現在まで日本の古民家を中心に描いている油彩画家です。
民家を写実的に20年以上描き続けてその数は数万点にも及び「民家の尾身」と言われています。民家を描き続ける理由として古き良き日本の懐かしい風景へのあこがれがあったそうです。
またこの様な田舎の風景は、土地開発なので無くなってしまう風景です。しかしそれを「仕方ないこと」と割り切りながらも絵画として残されています。
活動としてはNHKなどのテレビで特集され、無所属でありながら5回の受章歴があり、現在も民家を描きながら、都電荒川線沿線の風景など別の風景にも力を入れて精力的に活動されていらっしゃいます。
木村盛康は京都を代表する陶芸家です。
兄は木村盛和。兄弟共に天目釉を研究しております。
盛康は1935年五条坂にて生まれます。1957年に兄盛和に師事。
翌年1958年に京都美術展初入選。その才能を開花させます。
作品の特徴は何といってもやはり天目の美しさ。既存の天目とは一線を置き
盛康にしか導き出せない松樹天目やアンドロメダ。独自の天目を新しい世界を生み出したい。そんな気持ちが盛康の天目には色濃く反映されています。
天目は釉薬と炎だけで模様をつけるため盛康の描きたい天目に到達するまで幾度となく失敗してきたといいます。
その結果宇宙を連想させるような美しい天目が完成し、国内のみならず海外からも高い評価を受けております。
ボストン美術館、ダラス美術館、故宮美術館、大英博物館など多数の有名美術館に作品が収蔵されており人気がうかがえます。
盛康は自分の名を後世に残したいわけではなく、美しい作品を残したいと語ります。天目の感動をあたえるのは人ではなく作品だと思い、そんな美しい作品を残すのを目標に作陶を続ける天目の第一人者と言えるのではないでしょうか。
淡々斎は裏千家十三代鉄中宗室(円能斎)の長男として1893年に生まれました。

淡々斎が三十歳の頃、父の没に伴い十四代を継承しました。一般的には道具関係ですと淡々斎と呼ばれることが多いのですが、のちに別号「無限斎」と付いたことから、両号ともに使用されています。
淡々斎は明治、大正、昭和と日本が混乱を招いている時代を生き抜きました。
主な功績として「淡交会」結成があり、現在でも数多くの会員が在籍しております。他に今日庵財団法人化、海外への茶道普及活動など裏千家の伝統を守り伝えました。
淡々斎の作品など見ていると度々目にするのは和歌であったり水墨画など、非常に多彩な才能をお持ちであったことがうかがえます。
関わった作品で特に有名な物がございます。それは、北野天満宮献茶の儀のために作らせた「楽焼青磁の花入」です。
今日庵に伝来する本歌の写しとするこの作品は単に美しいわけではなく、内面の姿勢から美しい作品です。
茶道の伝統を残しつつ、自由な発想で新しい時代を築いた立役者といえるでしょう。