深川製磁は1894年に佐賀で創業した有田焼ブランドです。
もともと佐賀の有田には、深川栄左衛門という方が設立した「香蘭社」という有田焼のブランド会社がありました。その深川栄左衛門の弟・深川忠次が独立し、創業したのが「深川製磁」です。
1900年のパリ万国博覧会にて、日本館のエントランスに深川製磁の大花瓶が飾られたことで、その名を世界に知らしめることとなりました。
深川製磁では、生地作りから焼成までの全工程を自社工房で行っております。生地の整形にはじまり、「フカガワブルー」と呼ばれる青色をはじめとした数百種類の絵具の調合などが、専門の職人たちによって行われます。
職人たちの確かな技術によって、代名詞ともいえる透明感のある白や鮮やかな絵付が 作られているのです。
古くから宮内省御用達を拝命し、製品を上納してきた他、89年にはチャイナ・オン・ザ・パークと呼ばれる磁器のテーマパークを有田に新設するなど、広く人々に寄り添うブランドです。
現在は佐賀・有田の他、六本木・大阪・博多にも直営店が出店しております。
中山正は、新潟県生まれの木版画家です。
1927年に新潟県新潟市に生まれ、多摩美術大学に入学し油絵を学びますが、中退し版画家としての活動を始めます。1959年にリトグラフ画集「ラッパ手」を出版、その後は拠点を海外に移し1962年からイタリアのミラノ。1965年からはイギリスで活動を行いました。1963年のミラノで「騎士の無い馬」という画集を出版。イギリスにいる間はバースで芸術アカデミーにて教鞭を取ったりもしていました。1982年にはアメリカでも木版画集を出版します。その後は日本の銀座和光での個展開催や、東京国際版画ビエンナーレ、クラコウ国際版画ビエンナーレ、ノースウエスト国際版画展、などの展示会に出品するなど精力的に活動を行っていました。
そんな中山正が作り上げる作品は、馬、蝶、鶴、長い髪をなびかせた少女などをモチーフにした作品を多く描いています。抽象画を描くこともありますが、具象画作品も抽象画作品も共通して言えることは、どれもが神秘的な雰囲気の作品で神々しさを感じざるを得ません。本人曰く、「かたち」を大事にしており、芸術家とは具象・抽象を問わずこの世界になかった「かたち」を求めて創造するものであり、その創造とはこの世に一つしかない「かたち」を探すことだと残しています。
晩年の作品は、ペルシャ美術や、イラン美術、ルネサンスなどのスタイルに影響を受けており、日本古来の技法である木版画技法を駆使してそれらを表現していました。
アンドレ・コタボは1922年にフランス南東部の町、サン=マルスランに生まれます。
リヨンの美術学校に進学し、そこで絵を学びます。
そして14歳の時、イタリアのローマの店先にあったゴッホの絵に感銘を受け、それを複製しようとナイフで描いたことが、その後の彼の作風を形作ります。
彼の作品を表現する時、よく用いられる言葉が「重厚なマチエール」。
マチエールとは、作品の材質がもたらす効果、というものですが、彼の絵を見るとよく分かります。
何層にも厚く塗られた絵具は、彼のナイフによって流れるように動きを作り、デフォルメされた絵から彼のオリジナリティを存分に感じさせます。
彼はジャン・フサロなどと共にリヨン派を形成し、その中でも現代具象画家として評価を確立します。
少年時代にゴッホから感銘を受けたからか、自身の内面にあるものをいかに描き出すかに力点を置いていたようで、思いつかない時は何度でもカンバスを破り描き直したというエピソードがあります。
ネイト・ジョルジオはアメリカの画家です。
1961年に生まれ、独学で画法を学び、ポートレート・アーティストとして活動を続けていました。1988年にマイケル・ジャクソンがプライベートコレクションとして所蔵するジョルジオの作品に注目が集まり、脚光を浴びることとなりました。
1993年にはジュエリー、スポーツ記念品、アパレルなどを取り扱うブラッドフォード・エクスチェンジ社に委任され、「スーパースターズ・オブ・カントリーミュージック」シリーズの製作を始めます。これを機として、1995年からはファインアーティスト(大衆芸術、純粋芸術アーティスト)として本格的に活動を開始します。
鮮やかな夢のようなタッチで風景を描く作風が特徴的で、どこか安らぎを与えてくれるような優しい表現が印象的なアーティストです。マイケル・ジャクソンに認められた画家として大きく認知を得ており、1997年の来日展以降、日本でも人気を集めています。
天野タケルは日本の画家・彫刻家です。
世界的に有名な画家でありイラストレーターである天野喜孝の息子になります。
日本だけでなく、フランスのパリ・イギリスのロンドン・アメリカのニューヨーク・香港などで個展を開催しており世界的な注目と人気を博しています。
天野タケルは、1997年に渡米しアメリカ、ニューヨークで版画を学びます。ニューヨークで培った技術と発想で「NEW ART」と呼ぶ独自の表現方法を確立させました。「NEW ART」は宗教画や静物画などの伝統のある題材とポップアートを融合させたもので、黄色やピンクといったビビットな色彩を背景にシンプルな線で描く人物画や、どくろやろうそくによってはかなさを表した作品となっています。ポップで明るくシンプルな作品は万人に受けるですが特に若者への反響が多く、CDジャケットやアパレルブランドなどとコラボするなど多くの注目を集めています。
モチーフは様々で、人物画、静物画、風景画、抽象画、などいろんなジャンルを描いています。さらには作風も様々で平面、立体、アクリル、スプレーなど、型にとらわれることなくいろんな技法で常に新しいアート作品を生み出しています。そんな多くの作品がある中で特にVenusシリーズが人気です、鮮やかな色彩の中に単調な線で描かれる女性をモチーフにした作品シリーズです。日本でも天野タケルのVenus展が開かれるなど天野タケルを代表するシリーズとなっています、ちなみにその展覧会ではブロンズや真鍮製の立体アートが展示されたりなどもしています。
白井半七は代々襲名で受け継がれる「今戸焼」の陶芸家になります。
今戸焼とは、東京都台東区の今戸周辺で焼かれていた陶磁器です。江戸時代から明治時代にかけ、日用雑貨・茶道具・瓦に至るまでの多種の生産をされてきました。
初代白井半七は京都の土風炉師より技法を学び、1684年~88年頃土風炉や茶器などの制作をしていました。二代は初代の技法を継承し、「今戸焼」を作り上げました。
四代、五代頃では、京都の伏見人形の影響を受けた「今戸人形」の制作を多くしておりました。今戸人形は浅草寺参拝者のお土産品として人気がでて一躍有名となりました。
七代は1923年の関東大震災の被災で窯が崩壊したことをきっかけに兵庫県伊丹市に移窯をされます。代々「半七」名を襲名し、四~六代は「芦斎」、七代は「楽半」と号をしていました。その頃までは「隅田川半七」・「隅田川焼」・「今戸焼」と呼ばれました。八代の頃からは兵庫県宝塚市に移窯します。八代の特徴として乾山写しを意識した京焼の華やかな作風を取り入れます。九代も写しを得意とし、そのほかにも独自の作風の作品の制作をされていました。兵庫県三田市に移窯もされましたが、1987年に亡くなりました。