三浦竹泉は京焼の窯元の名前で、明治時代から続いております。
茶道具、特に煎茶道具を得意としており、京焼の中でも人気のある窯元です。最近では海外でも人気があり、中国でも高い評価がついております。
初代は1853年の京都に生まれ、30歳の時に五条坂にて独立、窯を構えます。先進的な意識が強く、ヨーロッパの色彩技術を取り入れるなど京焼の革新を行いました。
二代は初代の長男として生まれ、初代の死後、竹泉を襲名します。初代に劣ることのない無類の才を発揮しましたが、わずか5年後に亡くなります。
三代は初代三浦竹泉の末子にあたる方になります。二代の早世もあり、1921年には三代を襲名します。その後10年ほどで、家督を四代(二代の長男)に譲りますが、その後も自身は「竹軒」と名を改め、制作を行いました。
四代は昭和期に長く竹泉として活躍され、煎茶器をはじめ多くの作品を残されました。
現在は五代が当代となります。製作の傍ら、京焼研究にも注力された方で、京焼歴史研究の第一人者とも呼ばれています。
山中静逸(やまなか せいいつ)は愛知県碧南市出身の南画家、書家、政治家であり号を静逸または信天翁(しんてんおう)としました。
また、富岡鉄斎(とみおか てっさい)の生涯の友として知られる人物です。
山中静逸は1822年に愛知県碧南市に山中子敏(やまなか しびん)の二男として生まれます。父の山中子敏も文人であり画家でした。また、実家は東浦村の大地主で裕福な家庭だったといわれています。
幼少時代から大阪に出て篠崎小竹(しのざき しょうちく)に学んだが、1847年に父である山中子敏が亡くなり、家業を継ぎ寺子屋を開きました。
しかし、京都に出て国事に奔走していた二男である弟の死をきっかけに山中静逸は三男の弟に家業を継ぎ、漢学を学ぶため上京し朱子学者であった斎藤拙堂(さいとう せつどう)に学びます。
三年後には国事に尽くす為、京都に向かい梁川星巌(やながわ せいがん)、梅田雲浜(うめだ うんぴん)、頼三樹三郎(らい みきさぶろう)らと交わり、国事に尽力しました。
この頃に生涯の友となる富岡鉄斎と出会います。
安政の大獄では多くの同志を失い、難を逃れて身を隠し、幕政改革に奔走した。
明治維新後には岩倉具視(いわくら ともみ)とも親交を深め、1868年の鳥羽伏見の戦いでは、朝廷側の食料や軍事費の調達する役目を担い、明治天皇の東京遷都の際には御用掛も勤めました。
明治新政府となり、1869年に岩手県知事、1870年には宮城県知事と歴任しました。
京都で学者、詩人、画家としても活躍し南画においては日本国内のみならず海外でも高く評価されました。1873年すべての官職から引退、京都の下加茂に住み、文芸の道を楽しみました。
1885年に64歳の生涯を終え、明治政府より正五位を受け、1913年には従四位を受けました。
池田製についての文献資料が少ないため、詳細は分かりませんが、池田製の作品は金工作品の中でも高い技術が注目されており、素材価値以上の高値で取引されています。
江戸時代末期、戦の少ない時代が永く続き、刀は武具としてではなく美術品としての価値を持つようになります。
高度な彫金技術、象嵌技術が求められ、日本国内の金工技術は江戸時代末期から、広く西洋に門戸を開くことになった文明開化後の明治時代にかけて、最高潮を迎えました。
高度な技術が人気となり明治初期の頃は沢山の金工作品が海外に輸出されていました。
こうした時代背景もあり、明治時代初期の美術工芸品は金工に限らず、漆芸や彫刻とあらゆる面で高く評価されております。
そのため、明治金工は日本国内のみならず海外のコレクターにも大変人気があります。
丁子紅子さんは今注目の若手現代日本画家です。
1991年に埼玉県で生まれた丁子紅子さんは、繊細できめ細かなタッチ感、透き通るような透明感で見る者を釘付けにするデザインを描く作品が特徴的です。主に女性を描いています。女子美術大学絵画学科日本画専攻卒業後、第36回現代童画展奨励賞をはじめ、以後様々な賞を受賞、また、2012年から個展も展開し、多岐にわたって活躍されています。
丁子紅子さんの作品は、なんといっても繊細なタッチ感と、見る人それぞれの気持ちを取り込めるようになるべく色を使わないように描く、というところが特徴的です。髪の一本一本がまるで生きているかのように描かれ、透き通るような無表情の女性に引き込まれ、見る人の感情が入り込める作品を世に出されています。
松古窯の歴史は古く、その歴史は江戸時代の萬古焼から始まります。
萬古焼とは伊勢桑名の豪商であった沼波弄山が朝日町小向に窯を築いたのがはじめとされており、松古窯はその流れを汲み松古窯の初代信春が江戸時代後期に窯を開いた歴史ある窯元の一つです。
佐久間芳丘は1911年に三重県で古焼窯元『松古窯』の三代目である佐久間芳隣の次男として生まれ、幼少期より祖父である二代目芳春から作陶の技術を学びました。
佐久間芳丘はとても研究熱心で、独自に古陶磁器や萬古焼の赤絵、盛り絵の研究を重ね、萬古伝来の赤絵作品や唐津、三島、志野、高麗、伊賀など幅広い作陶を続け、茶道具を中心に千家家元の書付道具などを多く作陶しております。
福王寺法林は山形県出身の日本画家です。
1920年に生まれ、現在まで多くの絵画作品を残されております。
幼い頃に父親と猟に出掛けた際に銃が暴発し、左目の視力を失ってしまう事故に見舞われますが、それにより生来の負けず嫌いからか、よりたくましく生きるきっかけになったと言います。
絵を描くことが好きだった法林は小学2年にして狩野派の上村廣成氏に師事し、16歳で画家を目指して上京します。
貧しい下積み時代を過ごしていた法林は21歳の頃に戦争へと駆り出されることになりますが、大金をはたいて岩絵具を買い「必ず生きて帰ってこの絵具で絵を描く」と誓って中国へ出征します。戦争中に壮絶な日々を過ごしながらも26歳で復員した法林は、献身的な愛子夫人の応援もあり、第34回日本美術院展覧会で初入選を果たします。その後も奨励賞や白寿賞を受賞するなど、画壇に名前を残すようになりました。
代表作である「ヒマラヤ」をテーマにした作品群は東京三越で行われたヒマラヤ展で展示された絵がネパールの王に気に入られたことがきっかけで始まりました。
8000m級の山々の過酷な環境に何度も訪れ、命を落としかけながらも描き続けた作品は、まさに法林の命が刻まれていると言っても良いほどの大作となっています。