十三代 徳翁宗守 有隣斎

十三代 徳翁宗守 有隣斎は武者小路千家十三世家元です。

名は宗守、号は有隣斎・徳翁・宗安などで、聴松宗守に師事しています。

1913年に生まれ、第三高等学校をへて京都帝国大学文学部に進み国史学を専攻し、卒業後も大学院で日本文化史の研究に当たりました。

卒業後に武者小路千家12代聴松宗守(愈好斎)の娘千澄子と結婚、12代聴松宗守には息子がいなかった為婿養子となり、53年に13世宗守を襲名しています。

大学で学んだ知識を活かし、51歳で国内初となる茶道専門学校「千茶道文化学院」を開校、翌年には財団法人官休庵を設立させます。

大学での経験や学力、知識を持ち、茶儀に自らの学識を活かすなど聴松宗守と同じく学究肌の茶匠でした。

1983年の秋、古稀を境に徳翁の号を受け、1989年76歳の時に家督を長男に譲り、自身は宗安の号を襲名し隠居しました。

自分の意見を曲げず常に高みを目指し続け、茶道界において大変貴重な存在でありましたが86歳で逝去。著書に「利休とその道統」「新修茶道妙境」「茶花十講」などがあります。

大綱 宗彦

大綱宗彦は江戸時代後期の臨済宗の僧侶です。

安永元年京都に生まれ、6歳の時に大徳寺黄梅院、融谷宗通の下で得度を受け臨済宗大徳寺派の僧侶となりました。

臨済宗は仏の道を説くとともに茶の湯や書画をたしなむことを奨励した宗派であり、大網宗彦も茶の湯に造詣が深く、表千家の10代千宗左、裏千家の11代千宗室といった茶人らとも交流を持っていました。

他にも詩歌・書画に優れ、和歌は武者小路公隆に学び、千種有功や高松公祐、清水谷公正、賀茂季鷹らと親交し、生涯に2万余首の詠歌と3千数百の詩偈を作ったとされています。

師の跡を継ぎ黄梅院14世となった後、文政3年49歳の時に勅を奉じて開堂し大徳寺430世となりました。

晩年まで詩歌や書画、茶の湯を楽しむ悠々自適な日々を送っており、安政7年に89歳で示寂しました。

竹田 益州

 竹田 益州は昭和を代表する臨済宗の僧侶です。法諱は宗進、道号は益川、室号は金剛窟です。
 

1896年大分で生まれ、尋常小学校3年の時近くの施恩寺という禅寺に5、6日滞在したことが縁となり、1906年に滋賀県大津市堅田の臨濟宗大徳寺派祥瑞寺に入寺。翌1907年11歳で大友宗忠について得度を受けました。

1911年に京都紫野連合般若林に入学し、梶浦逸外、林恵鏡らと共に4年間学び、1918年より滋賀県堅田の祥瑞寺住職に就任。その後禅門高等学院教授、大徳寺山内塔頭の臨済宗大徳寺派大仙院住職、大徳寺執事長などを歴任します。

そして1954年に建仁寺住職、及び建仁寺派管長に就任。1989年まで臨済宗建仁寺派第八代管長を務めました。
 

1983年には建仁寺方丈で米寿祝賀会が開催され、竹田益州画帖「落草餘事」が記念出版されました。茶道の深い知識や見識を持っていた益州は多くの自筆書や自作茶杓を残し、茶陶器の箱書も記しています。 

1989年6月20日、京都の病院で遷化しました。

 

田中 阿喜良

田中阿喜良(本名:中島阿喜良)は1918年8月20日8月20日に大阪府で生まれた洋画家です。

彼が生まれた時代は第一次世界大戦の終わり。
この後に世界恐慌が発生し、第二次世界大戦へと向かっていく、軍国主義、全体主義という思想が強まっていく時代でした。
1937年に大阪府立高津中学校を卒業(19歳)し、38年に姫路高等学校入学を果たしますが、40年中退し京都高等工芸学校図案科に入学します。
1943年に同校を卒業しますが、時代はまさに第二次世界大戦の真っただ中です。画家を志しながらも応召し、無事に帰国した後、1947年の第2回行動美術展に「庭」を初出品し、彼の画家としてのキャリアがスタートします。
29歳のことでした。

その後、国内の様々な展覧会に出展し、数々の賞を受賞し、戦中派世代の旗手として注目を集めます。
1958年には外国美術の紹介が活発になったことから触発され、フランスへと旅立ちます。翌年にはサロン・ドートンヌに出展し、同年フランス・ビルヌーブ1等賞を受賞します。その後も多くの賞を受賞し、1961年にサロン・ドートンヌ会員となるなど、海外でもその実力を認められるようになりました。
田中阿喜良の独特な画風は、この少しあとに定着したようで、以降は田中阿喜良と言えば、「土のついたジャガイモのようだ」と表現されたような独特な画風になります。

生活の拠点はフランスでしたが、出展意欲は高く、世界のみならず日本でも多くの展覧会に出展、受賞するほか、1967年から3回に渡り日本でも個展を開くなど、多くの絵画を手掛けます。
1975年には神奈川県立近代美術館で「田中阿喜良展」が開かれるなど、国内外を問わず注目を集めた画家でしたが、1982年6月10日にパリにて心筋梗塞で亡くなります。享年63歳。

彼の作風は荒目のカンバスとビニール系の水性塗料を用いたマチエルを持つ白い下地に、パリの庶民を描くというような独特なものです。
特に作風が定着した晩年は、農婦やパイプを持つ男性など、パリを生きる人々、とりわけ年配の方々をモデルとした作品が多くあります。
彼自身よりも年配のモデルということは、第二次世界大戦という時代を、最も過酷な場の一つであるフランスという国で生き抜いた人々ということです。
同じ時代を生きた先達に対し感じるもの。
そこに何が込められているのかは分かりませんが、黒い色調の作風ながらどこか優しさを感じさせるこの彼の画風にその想いは宿っているようにも思います。

岡田 米山人

岡田 米山人は江戸時代中期~後期の南画家です。
岡田半江はその子にあたります。

通称を岡田彦兵衛、あるいは米屋彦兵衛と称し一説には彦吉とも称しました。名を国、字は士彦、通称は彦兵衛、米山人は画号です。

若いころには播磨神東郡剣坂村(兵庫県加西市西剣坂)の庄屋安積喜平治の下に寄食し、米をつきつつ書を読み勉学に励んだと伝えられていましたが、近年同地で襖絵などの作品、資料が発見されたことによりこれが裏づけられました。

その後大坂に出る意向を示すと喜平治より金銭的な支援を受け春米屋を営み、画号の米山人も稼業の由来であろうとされています。また安積家に仕えた乳母を妻に迎えています。

天明2年頃、商人でありながら伊勢国藤堂藩に仕え、寛政5年頃には津藩に大坂蔵屋敷留守居役の下役として仕え、その藩邸内に住んでいます。

絵は当時舶載のものを見たりしながらの独学だったようで、他の南画家には無い力強さと独特のセンスは近年評価が高まって来ています。浦上玉堂とは特に親交があり、田能村竹田に影響を与えています。

主要作品は『松下高士図』など、『秋山蕭寺図』が重要美術品指定となっています。

浜野 直随

浜野 直随は江戸時代中期から後期の装剣金工家です。

1745年に生まれ、本姓は遠山といいます。
当初では中村直矩(なおのり)の下で学んでおりましたが、後に親戚関係でもあった浜野派の初代浜野矩随(のりゆき)の下で弟子として学んできました。
浜野派とは、浜野政随(まさゆき)を祖としており、矩随や直随などの弟子を育成してきた町彫りを代表していた流派です。この頃浜野派・奈良派・横谷派の江戸での装剣金工三派として一躍有名となりました。

町彫りは室町時代から江戸時代にかけて将軍家に仕えていた後藤家以外の金工が製作する小道具のことです。絵画のような彫刻製作を行ったことから町彫りの始まりとされています。

20歳の時独立をして江戸・浅草に開業を致しました。
作品としては赤銅や四分一を用いて高彫り色絵(裏面から輪郭を打ち出し、表面には図柄を加工する金工作品の基本となる技法)にて人物を彫りいれた鐔や小柄がを製作しており、得意としてきました。
浜野派を代表するほどの優工ともされてきました。のちに甲府や越後(新潟県)などにも訪れ、晩年では信濃(長野県)に住まれました。多くの作品を作られてきましたが、1819年に逝去されました。

山田 昭雲

昭和20年代の初めごろ、農業をしながら木彫に励んでいた初代山田昭雲。 そこへ訪ねてきた棟方志功に版画を勧められた際、彫刻刀で彫り進める棟方とは違いノミを金槌で叩きながら刻む様子に「叩き彫り」という表現をされた事で「叩き彫 …

井上 稔

井上稔は1936年4月16日、京都市に生まれた日本画家です。 中村大三郎の弟子となり、日本画を学んで徐々に頭角を現していきます。 井上稔の影響かどうかは分かりませんが、兄である野々内良樹(1930~2009)ものちに日本 …

リュージュ

リュージュはスイスで生まれたオルゴールメーカーです。 創業者はシャルル・リュージュ。 彼が1865年にスイスのサンクロワに移住したところから始まります。 初めはオルゴールのついた懐中時計を作ります。 産業革命の波はかなり …

浦口 雅行

伝統的な青磁のみならず、作品にて新な技術や表現をされている陶芸家の浦口雅行さんです。ダイナミックに独特な作品によって多くの人を魅了してきました。 浦口雅行さんの作品には「浦」の文字が刻まれており、箱にも「浦」の文字の烙印 …

渡辺 武夫

渡辺武夫は出生地が東京都墨田区、出身地が埼玉県浦和市の洋画家です。 幼少期に東京都墨田区から埼玉県浦和市に移り住み、現代での高校2年生の時には画家になる決意を固めて、東京美術学校に入学をします。在学中である1938年に光 …

遠藤 昭吾

遠藤昭吾は、東京都生まれの洋画家で、川端画学校、阿佐ヶ谷洋画研究所で油彩画の基本を学びました。川端画学校は1909年(明治42年)に東京都小石川下富坂町に日本画家の川端玉章が創立した私立美術学校です。太平洋戦争の最中に廃 …

ミューラー兄弟

ミューラー兄弟とは、フランス・モーゼル地方出身のガラス工芸の一家であり、ランプなどのガラス作品を製作するメーカーでもあります。 9人の息子と1人の娘の10人兄弟を総称して「ミューラー兄弟」と呼ばれています。 普仏戦争の時 …

四代 山田常山

山田常山は初代山田常山から、四代山田常山まで続いている陶芸家です。朱泥、緑泥などの中国急須や常滑焼を中心に作品が多く作られています。四代山田常山は、1954年に愛知県常滑市にて生まれました。 1980年に美濃陶芸展で長三 …

松久 宗琳

松久 宗琳さんは京都生まれの正統派京仏師です。 1926年に仏師 松久 朋琳の長男として京都市に生まれました。幼少期は画家を志し絵画の勉強に励んでおりましたが、病を得て父の元に帰り、仏像彫刻の道を歩み始めます。 1962 …

野呂介石

野呂介石は江戸時代後期に活躍した日本の文人画家です。 主に花鳥水墨画を得意とし、詩文にも定評がありました。 紀州藩に仕えており、祇園南海や桑山玉洲と共に紀州三大南画家と呼ばれています。また当時は長町竹石、僧愛石らと共に「 …

山下 浦斎

山下甫斎は、1944年、石川県生まれの塗師です。 父の山下清峰より漆芸技法を学び、1978年に2代目山下甫斎を襲名しました。 山下甫斎の作る作品は、造形的な魅力だけでなく、侘びを感じさせるような美しい仕上がりに多くの茶人 …

柴崎 重行

柴崎重行は北海道八雲町にて、埼玉県からの移住二世として誕生しました。 現代では北海道の名産となった木彫りの熊ですが、柴崎重行はその先駆け的存在となった巨匠です。 今から約100年前、旧尾張藩からの移住が多かった八雲町はと …

金谷五郎三郎

金谷五郎三郎さんは、京都を代表する錺鋳物師で、代々同名を世襲しております。 茶道具や花器の製作において知られ、近年では装身具や建築装飾等の分野も手がけるなど、伝統の技に新たな活用を見出しています。 作品の特徴は、銀や銅、 …

村田 省蔵

村田 省蔵は、1929年石川県金沢市の生糸問屋の5男として生まれました。1944年に滋賀航空隊に入隊するが、1945年に終戦を向かえ中学に復学するという経歴を持っています。 復学後に第1回現代美術展にて宮本三郎の作品に惹 …

浮田 克躬

浮田 克躬(うきた かつみ) 東京都出身の画家になります。小学時代は、集団生活になじめず不登校となり、専ら好きな絵を書いていたそうです。 もともと、絵は好きでしたが1934年に第1回聖戦美術展をみて本格的に画家を志します …

伊万里焼・有田焼

皆様、こんにちは!緑和堂でございます。 今回は、伊万里焼と有田焼についてご説明させていただきます。 現代においての「伊万里焼」は佐賀県伊万里市で生産される焼き物であり、「有田焼」とは佐賀県有田町で生産される焼き物のことを …

レスリー・セイヤー

カリフォルニア在住の女流画家です。 1947年、アメリカのアリゾナ州フェニックスにて生まれました。 レスリー・セイヤーの作品は、色鮮やかで明るい花々をモチーフに描かれています。抽象画の柔らかいフォルムが色彩豊かな花とマッ …

金寿堂

京都に店を構えていた鉄瓶を制作する会社です。 蓋は銅製で、摘みが真鍮や銀製のものが多く、蓋の裏側には金寿堂の文字が刻まれています。 アジア圏で特に名前を知られており、名人には雨宮宗がいます。 錆びていても穴が開いていなけ …