尾身周三は、1943年新潟県に生まれ、1960年新宿造形美術卒業後現在まで日本の古民家を中心に描いている油彩画家です。
民家を写実的に20年以上描き続けてその数は数万点にも及び「民家の尾身」と言われています。民家を描き続ける理由として古き良き日本の懐かしい風景へのあこがれがあったそうです。
またこの様な田舎の風景は、土地開発なので無くなってしまう風景です。しかしそれを「仕方ないこと」と割り切りながらも絵画として残されています。
活動としてはNHKなどのテレビで特集され、無所属でありながら5回の受章歴があり、現在も民家を描きながら、都電荒川線沿線の風景など別の風景にも力を入れて精力的に活動されていらっしゃいます。
木村盛康は京都を代表する陶芸家です。
兄は木村盛和。兄弟共に天目釉を研究しております。
盛康は1935年五条坂にて生まれます。1957年に兄盛和に師事。
翌年1958年に京都美術展初入選。その才能を開花させます。
作品の特徴は何といってもやはり天目の美しさ。既存の天目とは一線を置き
盛康にしか導き出せない松樹天目やアンドロメダ。独自の天目を新しい世界を生み出したい。そんな気持ちが盛康の天目には色濃く反映されています。
天目は釉薬と炎だけで模様をつけるため盛康の描きたい天目に到達するまで幾度となく失敗してきたといいます。
その結果宇宙を連想させるような美しい天目が完成し、国内のみならず海外からも高い評価を受けております。
ボストン美術館、ダラス美術館、故宮美術館、大英博物館など多数の有名美術館に作品が収蔵されており人気がうかがえます。
盛康は自分の名を後世に残したいわけではなく、美しい作品を残したいと語ります。天目の感動をあたえるのは人ではなく作品だと思い、そんな美しい作品を残すのを目標に作陶を続ける天目の第一人者と言えるのではないでしょうか。
淡々斎は裏千家十三代鉄中宗室(円能斎)の長男として1893年に生まれました。

淡々斎が三十歳の頃、父の没に伴い十四代を継承しました。一般的には道具関係ですと淡々斎と呼ばれることが多いのですが、のちに別号「無限斎」と付いたことから、両号ともに使用されています。
淡々斎は明治、大正、昭和と日本が混乱を招いている時代を生き抜きました。
主な功績として「淡交会」結成があり、現在でも数多くの会員が在籍しております。他に今日庵財団法人化、海外への茶道普及活動など裏千家の伝統を守り伝えました。
淡々斎の作品など見ていると度々目にするのは和歌であったり水墨画など、非常に多彩な才能をお持ちであったことがうかがえます。
関わった作品で特に有名な物がございます。それは、北野天満宮献茶の儀のために作らせた「楽焼青磁の花入」です。
今日庵に伝来する本歌の写しとするこの作品は単に美しいわけではなく、内面の姿勢から美しい作品です。
茶道の伝統を残しつつ、自由な発想で新しい時代を築いた立役者といえるでしょう。
中村勇二郎は、伊勢型紙(道具彫)にて重要無形文化財保持者「人間国宝」に認定された型紙彫刻師でございます。
江戸小紋柄を代表としてこれまで数多くの型紙を制作されてきました。
伊勢型紙道具彫とは、着物生地に柄を染めるのに用いる技法になります。
和紙を何枚にも重ね加工した紙を彫刻刀を使用し、図柄を彫りぬきます。この型紙を作るにはとても高度な技術力が必要となります。1983年に伝統工芸品として認定されております。
中村勇二郎は1902年三重県に生まれます。
幼少期から型紙師である父を手伝い、高校卒業後には父のもとで本格的に修行を始めます。
模様を作成するのに必須である彫刻刀を自ら手作りをするようになり、その数なんと3000本以上の彫刻刀を制作され多くの作品に生かされてきました。
作品の特徴として着物全体に均一な模様を描かれることで、その模様は細かすぎて無地に見えてしまう程とされています。
そんな実力を評価され、1955年人間国宝に認定されました。
人間国宝新作展に大作の出品を毎年され、当時の皇太子殿下に「瑞雲祥鶴の図」を献上、以来皇室に型紙を献上し続け「神業」と評価を頂いた程です。
1963年頃からは後継者養成の為、講師も務められてきました。
多くの作品を制作し評価されてきましたが、1985年83歳にて逝去されました。
長谷川一望斎は尾張徳川家の御用鍔師の家系です。
鍔とは、刀装具の一種で、刀身と柄(つか)の間に装着されている金具の事です。 刀の重心を調節する役割もあります。江戸時代末期、戦の少ない時代が永く続き、刀は武具としてではなく美術品としての価値を持つようになります。
高度な彫金技術、象嵌技術が求められ、日本国内の金工技術は江戸時代末期から、広く西洋に門戸を開くことになった文明開化後の明治時代にかけて、最高潮を迎えました。
こうした時代背景もあり、明治時代初期の美術工芸品は金工に限らず、漆芸や彫刻とあらゆる面で高く評価されております。
長谷川一望斎は現在で三代目となりますが、一望齋『春洸』を襲名した後は茶道具を制作する一方で、竹次郎としても金工制作を続け、数多くの金工作品を発表しています。
耳野卯三郎は大正から昭和時代にかけて活躍した洋画家です。
耳野卯三郎は1891年に大阪で生まれます。
画家を目指し1907年に葵橋洋画研究所に入り絵画の技術を学び、その後東京美術学校(現材の東京芸術大学)に入学します。
初入選は1914年の第8回文展で『朝のカフェ』を出品し入選しました。
1916年に東京美術学校を卒業し文展、帝展、日展に出品を続け、1934年に帝展へ出品した『庭にて』が帝展特選の入選を果たしました。
文展、帝展、日展と数多くの場所で活動を続けていた耳野卯三郎ですが、油彩画だけでなく、童画や児童雑誌の挿絵を手掛けたことでも有名です。芸術を通して数多くの場面で活躍したことで耳野卯三郎は各方面から高い支持を集め、現在でもマニアの間では高い支持を集めております。