平福百穂は日本画家、歌人で画家平福穂庵(順蔵)の四男として、秋田県仙北市に生まれました。本名は貞蔵。幼い時から秋田市の豪商である那波家のコレクションなどで、秋田蘭画を見て育ったが、1890年から父から絵を学びはじめる。同年末に父が急死すると、翌年から父の後援者の援助を受け、本格的に絵を学び始めます。同じ年の秋に開かれた亡父の追悼画会で画才を認められます。1894年に上京し、四条派の第一人者川端玉章の内弟子となります。1897年に川端塾の先輩だった結城素明の勧めにより東京美術学校に入学します。1899年に卒業後、1900年に素明らと无声会を結成、日本美術院のロマン主義的歴史画とは対照的な自然主義的写生画を目指します。自然主義と古典を融合させ、独特な世界観を生み出す画家として評価されています。
緑和堂では平福百穂の作品を強化買取中でございます。売却されたい作品がございましたら、お気軽にお問い合わせください。
高田博厚(たかたひろあつ)は、明治33年(1900年)8月19日、矢田郷村(現石川県七尾市岩屋町)に生まれました。晩年、七尾の知人の中に宛てた手紙の中で高田は、七尾湾の夕空に浮かぶ雲が大変美しかったと回想しているそうです。高田が2歳の時、父親が弁護士開業の為福井市に移り住みます。福井市順化尋常小学校、旧制福井中学校卒業後、18歳で上京するまでの青春時代を福井で過ごしました。中学校1年とき、東京美術学校に在学中の彫刻家・雨田光平氏の作品によって、初めて彫刻に触れ、文学、哲学、美術書に熱中していました。まもなく長年の友人(画家)に彫刻家で詩人の高村光太郎を紹介され、その交流などを通して独学で彫刻を勉強したようです。またその頃、当時白樺派に送られたロダンの彫刻(ロダン夫人)に強く打たれました。
緑和堂では、高田博厚の作品を強化買取中です。
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三代山田常山は「常滑焼(急須)」で重要無形文化財に認定された人物です。
常滑(とこなめ)の時代は古く、日本六古窯の中でも最も古い歴史を持つとされており、その始まりは奈良、平安時代を代表する遠投の影響を受けて、十二世紀初頭とされています。
常山は何故、常滑焼の急須にこだわったのか?
急須の文化は明治時代に中国からもたらされます。その立役者として「陶祖」と呼ばれる鯉江方寿(こいえほうじゅ1821~1901)がいました。鯉江は1878年に急須作りの技法を広めるべく中国から金士恒(きんしこう)を招きます。つまり、朱泥・紫泥急須(しゅでい・しでいきゅうす)の名産地、中国の宜興窯(ぎこうよう)の技術は現代の常滑急須の原点といえます。鯉江や金士恒から技法を学び「金士恒」の印を使うことを許された陶工は初代山田常山(1868~1942)、杉江寿門(すぎえじゅもん1826~1898)、片岡二光(かたおかにこう1821~1903)の三名のみとされました。
その初代 山田常山(1868~1942)と父にあたる二代 常山から学んだため、三代目にあたる常山も初代 常山の金士恒としての伝統と技術を受け継ぎ常滑焼の急須にこだわり続けたのでしょう。
また急須という制約された作陶でありながら、その造形は多様性を極め、常山作とわかるオリジナリティを兼ね備え、その形は実に100種類を超えるといわれています。
1958年に開催されたベルギーのブリュッセル万博のグランプリを皮切りに1961年に三代目を襲名してから国内外で数多くの出展と受賞を重ね1998年には国の重要無形文化財「常滑焼(急須)」の認定を受けます。
オリジナリティ溢れるその造形は、国内外問わず見る物を今もなお魅了し続けています。
岩倉寿は香川県三豊郡山本町(現 三豊市山本町)出身の日本画家です。香川県立観音寺第一高等学校、京都市立美術大学(現 京都市立芸術大学)日本画科卒業。同大学専攻科修了します。京都市立芸術大学名誉教授です。京都市立美術大学在学中に日展への初入選を果たす。1959年(昭和34年)同大学卒業後、晨鳥社に入り、山口華楊に師事します。日展を中心に活躍する一方、大学に残り、後進の指導に当たってきました。1961年(昭和36年)同大学専攻科修了。1962年(昭和37年)同大学教授に就任。1972年(昭和47年)の第4回新日展では「柳図」が、続く1976年(昭和51年)の第8回新日展では「山里」が特選となります。日展評議員となった1990年(平成2年)には「晩夏」が日展内閣総理大臣賞を受賞、2003年(平成15年)は改組日展出品作「南の窓」が日本藝術院賞を受賞。岩倉寿の作品は写実を極め、風景や花鳥などの題材を伝統に根ざした淡い色調の現代的色彩表現で描きます。
上村松篁の子として京都に生まれる。特別科学学級での同級に、伊丹十三がいた。父同様、花鳥画を描きます。幼い頃から父松篁 の飼う小鳥達と共に過ごして来たため、鳥達が常に身近に居ることはごく自然なことでした。上村淳之は絵の道に進むと同時に奈良平城へいじょうへ移り住み、この自然豊かな中にあるアトリエ「唳禽荘」(れいきんそう)で好きな鳥たちと共に暮らしながら移ろう季節を知り、またその生き様から多くを学びとり創作活動を続けて来ました。じっくり鳥たちと向き合いながら紡ぎだされた淳之の作品からは、清澄な空間にこめられた深遠なる自然への画家の真摯な眼差しが感じられ、独自の「花鳥画の世界」を見て取れます。
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歌川国貞は浮世絵師随一とも言われる数万点の作品を残し、国芳や広重を押さえて当時一番人気を誇った浮世絵師です。
初代歌川豊国に弟子入りし、22歳の頃の作品が最古の作品として確認され、それから79歳で亡くなるまで、歌舞伎や吉原、当時の文化風俗など、まさに「江戸文化の全て」を描き切り、浮世絵界のトップとして走り続けた大御所です。
歌川国貞は江戸で大人気の歌舞伎の舞台を描いた役者絵や、美しい女性を描いた美人画で特に名声を得ました。「役者絵」「美人画」という、浮世絵の王道ともいえる二大ジャンルで名声を得た国貞ですが、それ以外にも幅広いさまざまなジャンルに挑戦し、それぞれに優れた作品を残しています。
美人画においては文政後期(1825~)独特な猫背猪首型の女性を描いており、自信のオリジナリティを遺憾なく発揮しています。
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