島岡達三は「縄文象嵌」の人間国宝となっている益子焼の陶芸家です。
1919年に東京愛宕の組紐師である父の元に生まれますが、高校生時代に訪れた日本民藝館で、濱田庄司や河井寛次郎の作品に惚れ込みます。こうして陶芸家になることを決意し、東京工業大学窯業学科に入学しました。
在学中に太平洋戦争で出征しますが、なんとか生き延び、復員後は栃木県益子町へ移住し濱田庄司の門下となります。濱田の指導を受けた後は栃木県の窯業指導所に勤務し、縄文土器の復元などにも携わっています。この経験が代表的な独自技法「縄文象嵌」の考案へ繋がります。
乾燥前の生地に組紐で模様をつけ、その窪みに象嵌を施すことで完成する縄文象嵌。父の組紐技術と、縄文土器に触れることができた達三ならではの発明といえます。
この技術のおかげで1996年には重要無形文化財「民芸陶器(縄文象嵌)」の保持者に認定されました。
藤田喬平は、日本のガラス工芸の第一人者として活躍した人物です。
1921年に東京・新宿に生まれ、東京美術学校に入学し、当初は彫金を学んでいました。しかしガラスの美しさに魅せられ、ガラス工芸家へと転向します。1947年に岩田工芸硝子へ入社し、ガラス工芸の基礎を学び、2年後には独立しました。独立後は実用品から美術品的なガラス作品の制作へ軸をうつし、ガラス工芸の本場であるイタリアでも学びました。個展で作品を出品しつつ、新たな技法の研究も行い、「飾筥」シリーズでは色ガラスに金箔を混ぜる独自の技法を確立します。琳派の日本画の色を取り込み作られる作品は、海外でも高い評価を受けました。作品は型を使わず、手吹きと呼ばれる竿で息を吹き込んで膨らませる方法で制作されています。
その技能の高さと功績から、紺綬褒章や文化功労者、そして初のガラス工芸による文化勲章などの栄誉を手にしています。
隠崎隆一は長崎出身の備前焼作家です。グラフィックデザイナーから陶芸家に転じるという異色の経歴をもつ人物ですが、その独創的な作品は高い評価を受けています。
隠崎は1950年に長崎県の福江市に生まれ、大阪芸術大学にてデザインを学びました。その後はグラフィックデザイナーとして活動していましたが、立体造形に興味を抱き、陶芸家の道へ進みます。備前焼の人間国宝である伊勢崎淳などに師事し技能を習得、1988年に独立し岡山県長船町に自身の窯を設けます。1987年の田部美術館「茶の湯の造形展」では優秀賞を獲得、97年には備前焼パリ展へ作品の出品も行っています。その後も様々な作品展で受賞し、2019年には備前焼の岡山県重要無形文化財に指定されました。
ろくろ作りのバランスのとれた形ではなく、大胆な変形や直線を織り交ぜた作品は、見る角度によってその表情を変え、隠崎作品ならではの個性となっています。従来の備前焼にはない力強い造形は、見る者に与えるインパクトも大きく、新時代の備前焼として注目を集めています。
鯉江良二は愛知県常滑市の陶芸作家です。アルバイト中の事故で、右手の指を2本失うというハンデを抱えながらも、精力的に制作に取り組み続け、その独創的な発想で、従来の焼き物の枠組みを超えた自由な作風が特徴となっています。
青年時代の鯉江は、県立常滑高校窯業科を卒業し、タイル工場で勤務していました。しかし、24歳の頃工場を辞め、常滑市立陶芸研究所へ入ります。ここで5年間本格的に陶芸について学び、退所後独立して陶芸家としての道を歩み始めました。伝統に捉われず、ときには前衛的でもある鯉江の評価は高まっていき、1970年の大阪万博では大型陶製ベンチの企画・制作を行っています。その作品は海外でも評価され、1972年の第3回バロリス国際陶芸ビエンナーレ展では国際名誉大賞を受賞したほか、国外での展覧会・講演なども行っています。2008年には日本陶磁協会賞金賞を受賞しました。
制作スタイルはまさに自由奔放で、日常使いの型の決まった陶器をあえて崩してみたり、代表作『土に還る』では自身の顔を石膏型でとり、シェルベン(衛生陶器のリサイクル用粉末)で焼き固めるなど、従来の陶芸にこだわらない独自の作品を生み出しています。
代表作としては他に『マスク』『チェルノブイリシリーズ』などがあります。
ここでは、備前焼と金重陶陽の作品の特徴について説明します。
備前焼の土は大きく分けて干寄せとよばれる田土と山土があり、田土の特徴としては粘りが強く可塑性が高い土として知られています。
水田を3mほど掘ると出てくる黒い土が代表的な田土であり、この土は耐火度が高く、およそ1,100℃~1,300℃の高温で焼き固めることで備前焼が完成致します。ただし、急激な温度変化に弱い為、窯の湿気を取る焚きで3日前後、1,000℃前後の中焚きで3~5日程度、最後に1,200℃以上の高温で大焚きを3~5日間焚き続け、窯焚きには10日間から2週間の期間を要します。
窯焚き後の冷却にも時間を要する為、5日から7日ほどの冷却期間を設けます。
備前の土は一定の耐火性はありますが、温度の乱高下には敏感で、湿度にも
左右されてしまう繊細な面もあります。
金重氏は故郷の焼き物である古備前の再現を日々試みており、実弟で陶芸家
である金重素山とともに田土、山土を求め続け1930年に荒川豊蔵が志野の陶片
を発見し、志野が瀬戸でなく美濃で焼かれたことを証明した時には金重氏は桃
山の土味を再現していたといわれております。
金重氏の作品には土味、焼成、作りにおける繊細で大胆な技と強いこだわりがあります。
まず初めに土ですが「観音土」とよばれる良土を利用しております。
観音土とは備前市田井山でとれた最上級の田土でとても良い味を出ます。
焼成については胡麻、桟切り、火襷等の多様な窯変の作品が多く見られ、通常の焼成室では伏せ焼きしたうつわの間に藁を敷き、火襷や牡丹餅の作品を取りました。
その他では桟切りは登窯の狭間と呼ばれる登窯の部屋と部屋の間にある通炎穴でもとれたと聞きます。
作りについては豪快なヘラを使った切れ目もあれば、しっとりした白味を帯びた土に火襷が入った作品もあり、これらは桃山陶にも見られますが、金重氏の作品は、端正すぎずわざとらしさもない為、落ち着いた土味とあいまって、動と静が一体となり土、焼き、作りが三味一体となった典型的で特徴的な作風になっております。
ここでは入江光人司の作品についてご説明します。
備前焼で主に宝瓶(ほうひん)を制作している数少ない作家です。
宝瓶とはお茶を入れる急須の一種であり、取っ手が無いので片手で両端を持ってお茶を注ぐ茶器のことです。
入江氏の作品作りの大きな特徴としては、轆轤を使用せず手捻りで制作しているという点です。
轆轤を使用して制作すると水を大量に使用する為、土の持ち味が活かされません。
土の持ち味である士味を活かす為に入江氏は手間や時間は掛かりますが丹念に手捻りで制作をしています。
その結果、土味を非常に活かした入江氏独特の作品が出来上がります。
又、入江氏は希少価値のある鉄分の少ない土で制作した白備前の作品も制作し
ています。
白備前の作品も高い評価を受けています。