源朝臣は、村上天皇から枝分かれした氏族で、姓を朝臣(あそん)といいます。
源氏(みなもとうじ)は、二十一流派があると言われており、その中で特に格が高いのは、村上源氏(源朝臣)であります。朝臣(あそん)とは、天武天皇が684年に制定した八色の姓(やくさのかばね)によって作られた姓です。
八色の姓は、八色の由来の通り、8つの姓の位に優劣が付けられています。
上から順に『①真人、②朝臣、③宿禰、④忌寸、⑤道師、⑥臣、⑦蓮、⑧稲木』となりますが、⑤道師、⑧稲置に関しては、実際に姓を与えたれた方は存在しません。
「独眼竜 伊達政宗」といえば歴史に詳しくない方でも聞いたことがあるのではないでしょうか?
伊達政宗は戦国大名として圧倒的な知名度を誇る人物です。戦国時代を戦い抜き、江戸幕府のもとでは仙台藩藩主として領国を治め発展させました。今でも地元仙台では絶大な人気を誇っています。また、その知名度の高さや人柄からか多くの逸話を残しています。
そんな政宗ですが、本人直筆の書状が数多く残されており、現在でも高値で取引されています。政宗は当時の大名としては珍しく、右筆(文書を代筆する文官)を用いず、自らの手で書く事を好んでいました。家臣や知人にとっては著名な政宗からの直筆書状ということで、破棄を命じられたものを秘密裏に保管していたケースも存在します。また、手紙そのものもよく書いていたとみられます。こうした要因から現代へ残された書状も多く、人気の高さから相場も高いものとなっています。
安倍基の作品は、素材にこだわりを持ち柔らかく弾力性があり、編組に適した大分の竹を使用しています。材質を生かした造形の創作を行い、代表作に花籃「山陵」や手付矢羽文手付盛籃「翼揚」などがあります。1990年に西部工芸展大賞受賞以降は、個展を多数開催しています。
上野喜蔵は、上野焼、八代焼の祖と言われています。もとは尊楷と言う朝鮮半島の陶工になります。文禄の役(1592~1593年)後、加藤清正に従って来日しました。豊前国(福岡県)小倉藩主細川斎三に招かれて、慶応10年(1605)、田川郡上野郷に陶窯うを築き、郷名にちなんで上野喜蔵高国と名乗るようになります。寛永9年(1632年)、細川家の肥後(熊本県)国替えに従い(国替えとは江戸時代に行われた大名の配置替えのこと)長男忠兵衛、三男藤四郎とともに八代郡高田郷に窯を移しました。次男孫左衛門十時と娘婿の久左衛門渡家は小倉に残り、次の藩主小笠原家に仕えました。晩年、十時甫快(とときほかい)とも言いました。
「秦蔵六」は日本を代表する鋳金家の名です。
当代で六代目となります。
「秦蔵六」の名は江戸の末期から代々、伝統の鋳金技法と共に継承されてきました。
初代蔵六は文政6年(1823年)に当時の山城国(京都府)に生まれ。
「二代 龍文堂 安之助」の弟子となり鋳造技術を学びました。
23歳の時に師事を辞して中国の古陶器に魅了され中国の古陶器撥蠟法を研究します。
「秦蔵六」の最大の特徴がその中国の古陶器の意匠を活かした撥蠟鋳造法による青銅器です。ところどころに金箔を貼る等した作品も数多く見られます。
また、「秦蔵六」は大和地方を巡歴し古代の作品を鑑賞。和漢の古作品の研究も意欲的に行いました。
その後、江戸幕府15代将軍徳川慶喜の征夷大将軍黄金印ならびに孝明天皇の銅印を鋳造して名声をあげると、1873年には宮内省の命により明治天皇の御璽や国璽を鋳造したことで更に名声を高めました。
京都の名工として、青銅器や鉄瓶、錫、銀を使った工芸品をたくさん残しており、代表作に鼎形花瓶があります。
四代(当代)赤沢露石(赤沢正中)は、二代赤沢修三の孫にあたります。
京都で代々続く交趾焼(コーチやき)の家に生まれ、京都市立日吉ヶ丘高校美術科を卒業後、交趾焼を祖父の二代赤沢露石(修三)より修得します。
日本伝統工芸展に初入選後、各展で入選を重ます。そして1963年に四代赤沢露石を襲名しました。
線文様をモチーフにした近代的な交趾焼により日本工芸会正会員になり、茶碗・水指・皆具などの茶陶を専らとして、彩色豊かな交趾焼に新しい感覚を取り入れながら、存在感のある作品を創り出しています。
交趾焼は、中国南部で生産された陶磁器の一種です。名称はベトナムのコーチシナ(交趾支那)との貿易で交趾船によりもたらされたことに由来しています。
京都の交趾焼といえば赤沢露石の名が一番に出てくるほど、その名前の浸透した作家さんであります。