ここでは、備前焼と金重陶陽の作品の特徴について説明します。
備前焼の土は大きく分けて干寄せとよばれる田土と山土があり、田土の特徴としては粘りが強く可塑性が高い土として知られています。
水田を3mほど掘ると出てくる黒い土が代表的な田土であり、この土は耐火度が高く、およそ1,100℃~1,300℃の高温で焼き固めることで備前焼が完成致します。ただし、急激な温度変化に弱い為、窯の湿気を取る焚きで3日前後、1,000℃前後の中焚きで3~5日程度、最後に1,200℃以上の高温で大焚きを3~5日間焚き続け、窯焚きには10日間から2週間の期間を要します。
窯焚き後の冷却にも時間を要する為、5日から7日ほどの冷却期間を設けます。
備前の土は一定の耐火性はありますが、温度の乱高下には敏感で、湿度にも
左右されてしまう繊細な面もあります。
金重氏は故郷の焼き物である古備前の再現を日々試みており、実弟で陶芸家
である金重素山とともに田土、山土を求め続け1930年に荒川豊蔵が志野の陶片
を発見し、志野が瀬戸でなく美濃で焼かれたことを証明した時には金重氏は桃
山の土味を再現していたといわれております。
金重氏の作品には土味、焼成、作りにおける繊細で大胆な技と強いこだわりがあります。
まず初めに土ですが「観音土」とよばれる良土を利用しております。
観音土とは備前市田井山でとれた最上級の田土でとても良い味を出ます。
焼成については胡麻、桟切り、火襷等の多様な窯変の作品が多く見られ、通常の焼成室では伏せ焼きしたうつわの間に藁を敷き、火襷や牡丹餅の作品を取りました。
その他では桟切りは登窯の狭間と呼ばれる登窯の部屋と部屋の間にある通炎穴でもとれたと聞きます。
作りについては豪快なヘラを使った切れ目もあれば、しっとりした白味を帯びた土に火襷が入った作品もあり、これらは桃山陶にも見られますが、金重氏の作品は、端正すぎずわざとらしさもない為、落ち着いた土味とあいまって、動と静が一体となり土、焼き、作りが三味一体となった典型的で特徴的な作風になっております。
細川護煕は、第79代内閣総理大臣として日本の政権運営を務めた人物ですが、一方で芸術に対する造詣も深く、政界引退後の現在は陶芸家として活躍しています。
旧熊本藩主細川家の18代目として生まれ、大学卒業後は新聞記者として勤務した後、第9回参議院議員選挙で当選し国会議員となります。その後熊本県知事を2期務め退任後、新政党「日本新党」を立ち上げます。第16回参議院議員選挙で当選し、国政に復帰します。宮澤内閣の解散後、戦後初の非自民党連立政権が樹立、細川が首相に就任しました。首相在任中に行った政治改革で成立させた小選挙区比例代表並立制は、現在も衆議院選挙の制度として用いられています。
首相退任後は野党議員として活動し、1998年に政界を引退します。引退後は作陶の道へ進み、神奈川に自身の工房と茶室を設けました。
陶芸家 辻村史朗に学んだ細川の技量は非常に高く、元首相という知名度もあるため、作品の人気は非常に高いものとなっています。茶道家でもあることから人気の作品は茶器が多いですが、湯呑や酒器といったものも手掛けています。
現在三代目まで続いている村瀬治兵衛、その初代は名古屋の木地師の家に生まれました。木地職人としての技量は非常に高く、削り落とした木が透けて見えるほどに薄い極薄挽きを得意としています。
しかし、初代治兵衛は木地師の技量だけでは満足しませんでした。そこで漆塗りを始めます。ちょうどそのころ北大路魯山人に出会い、漆塗り用の椀や器の木地の制作を依頼されます。これがきっかけとなり、初代治兵衛は自らの塗り方を確立していきます。ときには魯山人から直接指導を受けたこともあったようです。
こうして、繊細な薄挽きの中に、削った木肌の大胆さが感じられる治兵衛作品の特徴ともいえる部分が完成します。
息子に二代目を継がせた後は、作陶の道に進みます。次第にその腕も上達し、最終的には表千家・裏千家から極め書きをもらうほどになります。
ここでは入江光人司の作品についてご説明します。
備前焼で主に宝瓶(ほうひん)を制作している数少ない作家です。
宝瓶とはお茶を入れる急須の一種であり、取っ手が無いので片手で両端を持ってお茶を注ぐ茶器のことです。
入江氏の作品作りの大きな特徴としては、轆轤を使用せず手捻りで制作しているという点です。
轆轤を使用して制作すると水を大量に使用する為、土の持ち味が活かされません。
土の持ち味である士味を活かす為に入江氏は手間や時間は掛かりますが丹念に手捻りで制作をしています。
その結果、土味を非常に活かした入江氏独特の作品が出来上がります。
又、入江氏は希少価値のある鉄分の少ない土で制作した白備前の作品も制作し
ています。
白備前の作品も高い評価を受けています。
ここでは、酒井田柿右衛門の伝統と作品の特徴についてご紹介致します。
17世紀に酒井田喜三右衛門が赤絵の焼成を成し遂げ、初代酒井田柿右衛門を
名乗ります。
柿右衛門の作品は白い美「濁手(にごしで)」が非常に特徴的です。
佐賀地方の方言で米の研ぎ汁のことを「にごし」と言い「濁手」は米の
研ぎ汁のように温かみのある白色の地肌の色絵磁器で柿右衛門作品独特であり最大の特徴と言えます。
色絵磁器は有田の泉山陶石等を使用した特別な原料と配合、独自の製法で
作られます。柿右衛門の特徴の濁手は柔らかい乳白色をしており柿右衛門の色絵が一番映える素地として創り出されています。
有田焼は改良を続けながら1670年代には柿右衛門式が確立され、その後一時断絶した事はあるが、現代に甦りその製陶技術は国の重要無形文化財の指定を受け
ています。
柳海剛(ユ・へガン)は、高麗青磁を復活させたことで有名な、韓国陶芸界を代表する陶芸家です。1894年、首都・漢城(現在のソウル)に生まれます。少年時代に目にした高麗青磁の美しさに惚れ込み、1911年頃から陶芸技法を本格的に学びます。一方で国内各所の古い窯跡の調査にも乗り出し、その土で試作品を作っていきます。1928年に日本で開かれた博覧会へ青磁作品を出品し、これが金牌賞を受賞します。その後、朝鮮半島は第二次大戦、朝鮮戦争と混乱した時代になってしまいますが、戦後復興と共に海剛の作陶も復活します。
1960年には海剛青磁研究所を設立し、本格的に高麗青磁の再興に取組みます。こうした活動が評価され、同年、韓国政府より「人間文化財」に指定されます。64年には柳海剛窯も設立されました。
永らく途絶えていた高麗青磁を復活させた功績は非常に大きく、さらにその技量も高いことから、現代の高麗青磁において1,2を争う人気作家となっています。