伊藤 北斗さんは、1961年生まれ、東京都中野区出身の陶芸家です。
デザイナーであった父親の影響を受け、東京藝術大学工芸科に入学しました。
様々な実習を経験する中、2年の時にロクロに触れたのがきっかけで陶芸を始めるようになりました。
3年の時に、当時東京芸術大学教授、そして人間国宝である藤本能道氏に出合い、藤本氏の多彩な色使いに惚れ、陶芸を選択するようになりました。
東京藝術大学大学院陶芸専攻修了後、藤本能道氏の内弟子となり、藤本氏が亡くなられるまで技術を磨き高めておりました。
藤本氏の死後、東京都日野市に築窯し作家活動を行っております。
伊藤さんは自身の技法として、「釉刻色絵金銀彩」という技法を確立させました。
「ボルドー釉」と命名されたワイン色に発色する銅系の釉薬を用いて、何度も焼成と塗り重ねをすることにより、深みのある複雑な発色を生み出すことに成功しました。
作品の特徴は、陶芸では珍しい金や銀、様々な色を帯びたきらびやかな色彩が放たれており、独創的で幻想的な作風に人気を博しております。
近年では、伊藤さんの作品が第66回日本伝統工芸展にて宮内庁がお買上げになるなどして、ここ数年で更に大きく評価されております。
宮川香雲は真葛焼で有名な宮川香齋から分家した、京焼・清水焼の窯元で、現在3代目が活躍しています。
初代 宮川香雲は、真葛焼 2代 宮川治兵衛香齋(善翁)の三男として生まれます。治兵衛香齋の子は、長男が3代 光誉香齋、次男が4代 永誉香齋となり、真葛焼を発展させていきます。
三男として生まれた初代 宮川香雲は1946年に龍谷窯を開き、京焼・清水焼を発展させていきます。
その力が認められ、大徳寺 小田雪窓官長より、「香雲」の名を授かります。
2代 宮川香雲は初代の長男として1938年に生を受け、1982年に2代目を襲名します。京焼色絵、乾山・仁清・道八風、金襴手を得意として、その実力を遺憾なく発揮します。
3代は1966年に2代の長男として生を受け、父や祖父からの指導を受け、力をつけていきました。3代目は、初代・2代と積み重ねてきた京焼の伝統を引き継ぎつつ、新たな表現に挑戦しており、2017年に3代 宮川香雲を襲名しました。
小川長楽は楽焼の作家であり、現在は三代目が活躍しています。
楽焼の元祖である楽家。その楽吉左衛門十一代・慶入のもとに、初代・長楽が弟子入りしたことからはじまります。
そこで類稀な才能を遺憾なく発揮した初代・小川長楽は独立を許され、建仁寺派四世竹田黙雷から「長楽」、茶道の裏千家十三代家元・圓能斎宗室から「長友軒」という号をそれぞれ授かります。
初代は楽吉左衛門十一代・慶入や十二代・弘入の写し物が得意とし、そこに創意工夫を加えたことで評価が高まりました。
以来長楽は、楽焼の伝統を守りつつ、それを発展させていきます。中でも「焼貫」と呼ばれる焼成技法に磨きをかけました。この技法は難しく、今までは小さなものにしか使えない技法でしたが、二代・長楽はこれを今までより大きなものにも使える術を編み出しました。
また、三代目は釉彩という長楽家独自の釉薬を完成させ、黒と赤が代名詞の楽茶碗に新たな彩りを加えます。三代目が得意とするのが、詩を題材にした見立て作品で、『醍醐花見短籍見立て』『百人一首見立て茶盌』『高台寺・三十六歌仙 歌見立作品』『松尾芭蕉 野ざらし紀行』などが高い評価を得ています。
伝統を守りつつも新たな価値を付け加える。まさに京都を代表する作家の一人と言えるでしょう。
西岡 小十は「古唐津の神様」と謳われた人物です。
1917年、佐賀県に生まれ、1950年頃から約20年間にわたり唐津古窯跡の発掘に師事し、古窯跡の陶片に心奪われ、いつしか、発掘した陶片のような唐津を再現したいと思うようになります。1960年、当時、文化財調査官であった小山 冨士夫との出会いをきっかけに、1969年、52歳で作陶を始めます。公募展には一切出品せず、個展のみで作品を発表し続け、古典技法である絵斑唐津(えまだらからつ)・梅華皮(かいらぎ)の復元に成功し、古唐津を現代によみがえらせた唐津焼の名手といえる陶芸家です。
小山冨士夫を「唯一の師」と仰ぎ、その進言により、晩年まで世間の名利私欲とは無縁の無冠であり続け、古唐津再興に生涯を注ぎました。
人間国宝である荒川豊藏や同じく人間国宝の藤原啓とも親交が深い事でも有名です。
田村 耕一(たむら こういち)1918年6月21日~1987年1月3日
日本の陶芸家で、1986年に鉄絵陶器で人間国宝に認定された陶芸家になります。
栃木県佐野市の誕生し、1941年東京美術学校工芸科図案部を卒業後、大阪で楽焼を学んでおりましたが翌年応召致します。その後1945年京都市にある松風工業株式会社松風研究所に入所して本格的に陶磁器の研究を開始し、富本憲吉に師事致しました。1950年に濱田庄司の勧めで栃木県窯業指導所の技官となり、ココ工芸の結成に参加後、生活工芸集団結成に加わります。1956年~1960年の間に、朝日賞、日本陶磁協会賞、奨励賞を受賞しその功績が認められ1962年に日本工芸会正会員となります。
この間にも、田村 耕一さんは陶器に酸化鉄を付けて文様表現する鉄絵の技法を開発し、銅彩で色彩を加えた創造性に富む作風を展開します。1986年重要無形文化財(人間国宝)「鉄絵陶器」で認定され、翌年1987年1月3日、胆のうがんの為栃木県の総合病院で死去致しました。
1558年~1637年 本阿弥 光悦(ほんあみ こうえつ)は、江戸時代初期に活躍した、書家、陶芸家、蒔絵師、芸術家、茶人等多岐にわたり活躍した方になります。生まれは、刀剣の鑑定を家業にする家元の長男として誕生し刀剣も触れていると考えられておりましたが、現存している資料を見ると、刀剣に触れてたものがほとんどなく、光悦は陶芸、漆芸、出版、茶の湯等マルチアーティストとして、京では「寛永の三筆」の一人として称されておりました。マルチに活躍した光悦は、後に京都市北区にある芸術村(光悦村)を残したことでも知られており、光悦の死後、お墓も日蓮宗の寺(光悦寺)にございます。日本の芸術や工芸に大きく貢献したことにより平成12年京都府は、産業やモノづくりのあり方を示す新しいスタイルとして京都府南丹市園部町に「京都新光悦村」及び「道の駅京都新光悦村」を整備致しました。