河井 武一は河井寛次郎の甥であり、寛次郎の一番弟子です。
武一は1908年島根県安来に生まれ、1927年寛次郎の元にて陶磁器の修行を開始します。
寛次郎の窯元へ修行に来ていたバーナード・リーチと共に作陶活動をしていました。寛次郎が没するまで40年近くにわたりその指導を受け、呉須、辰砂、飴釉、鉄釉など寛次郎の民藝芸術を伝承しました。
河井 寛次郎とは、大正・昭和にかけて京都を拠点に活動した日本を代表する陶芸家の一人です。
河井寛次郎は島根県に生まれ中学生のころから陶芸家を目指していました。
河井寛次郎氏の芸術性は国内のみならず海外でも高く評価され、人間国宝や文化勲章の授与等もありましたが辞退し、一陶工として焼き物に生涯向き合い続ける事を選択しました。
現在、東山五条に河井寛次郎記念館が建てられています。
初代 清風 与平
清風 与平は江戸から続く京焼有名な陶芸一家です。初代清風与平は京焼で有名仁阿弥道八(2代高橋道八)に師事したと言われており、染付(青華)、白磁、色絵、乾山を非常に得意としておりました。文政初年に道八の命により、桃山の三夜莊に窯を築き楽焼を制作し始めました。1827年頃には五条橋東に開窯し、染付、白磁、色絵など様々な陶器の制作を行いました。1847年には備前岡山藩筆頭家老である伊木忠澄に招かれ、虫明焼の指導を行いまいした。1861年59歳でお亡くなりになりました。
二代 清風 与平
1845年初代 清風与平の子として生まれました。家業を手伝いながら技法を学び、種磁器の制作を行いました。のちに染付の名手と呼べれるようになり、新たに白磁浮文の制作を行いました。1873年に京都府歓業御用係となりましたが、5年後に34歳という若さでお亡くなりになりました。
三代 清風 与平
二代 清風 与平に憧れ入門をしました。与平の妹と結婚をし、のちに三代を継ぎました。釉薬の工夫を施し和モダンな作品の制作を行いました。様々な色に発色する釉薬を国産の材料だけで作り出すことは、当時の技術では相当難しかったと言われております。1893年に陶芸界最初の「帝室技芸員」となりました。この「帝室技芸員」とは、今でいう「人間国宝」のような立場であり、陶芸界からは約60年の歴史の中で5人しか選ばれておりません。「人間国宝」に選ばれた陶芸家は64年間で30名以上いることと比べると、「帝室技芸員」になることがいかに難しかったか想像できます。
四代 清風 与平
1871年に三代与平の次男として生まれました。父から技法を学び、日本画の技法を田能村小斎に師事しました。父の没に伴い四代 清風 与平を襲名しました。色鮮やかな釉薬を使い、数多くの名品を世に生み出しました。1951年にお亡くなりになりました。
伝統的な青磁のみならず、作品にて新な技術や表現をされている陶芸家の浦口雅行さんです。ダイナミックに独特な作品によって多くの人を魅了してきました。
浦口雅行さんの作品には「浦」の文字が刻まれており、箱にも「浦」の文字の烙印が押され筆にてサイン及びタイトルが書かれております。
浦口雅行さんは1964年東京都杉並区に生まれました。
1987年東京藝術大学美術学部にて陶芸講座を卒業し、1989年には同大学院三浦小平二研究室を修了致しました。1990年に日展にて国際陶芸展優良入賞をし、1991年には栃木県芳賀町に自身の工房を築窯しましたが、2001年茨城県石岡市に工房移転をしました。
2002年には茨城県芸術祭展覧会にて特賞を受賞し、2004年アメリカのニューオリンズ美術館に買上されるなど日本のみならず世界からも多くの評価をされてきました。
2006年に東京美術倶楽部2006東美アートフェアにて「青磁 浦口雅行展」を開催し、同年に茨城県陶芸美術館で「現代陶芸の粋」展に出品しました。2007年には「青磁 浦口雅行展2007」の開催や、2018年ドイツ エトリンゲン城美術館で行われたドイツ陶芸展に出品など現在も多くのご活躍をされています。
玉井楽山は楽山焼の当主の名になります。
楽山焼は愛媛県松山市で1678年に陶工の倉崎権兵衛が、二代目松山藩主松平綱隆の命により窯場を開いたのが始まりと言われています。
楽山焼の最大の特徴はなんといっても蟹の彫刻になります。
楽山焼は、三代目松山藩主である松平定長が詠んだ「あな寒し かくれ家いそげ 霜の蟹」という句に感銘を受けてから蟹の紋様を入れるようになりました。彫刻の蟹は正しい名はアカテガニと言い、愛媛地方では天神蟹と呼ばれているそうです。
ちなみに、愛媛県では他にも天神蟹が彫られている焼物がふたつあります、一つは同じ愛媛県松山市にある水月焼、もうひとつが愛媛県四国中央市にある二六焼になります。このように愛媛では立体的に彫られた天神蟹が含まれた作品が多く作られています。歴史的な背景において天神蟹を彫り始めたのは楽山焼が最初だと言われています。
楽山焼の中で近代まで作陶されていたのが玉井楽山で、3代目まで継承されていました。しかし1990年に3代目玉井楽山が亡くなってしまってからは跡を継ぐ者がおらず現時点では閉窯となっています。そういった背景からも希少性が高い焼物となっています。
3代目玉井楽山は1924年に松山市に生まれ、京都美術工芸学校を卒業、卒業後に伊藤翠壺に師事し京都で腕を磨きました。その後楽山焼の3代目を継承し玉井楽山を名乗るようになりました。三代目玉井楽山を継承したころから日展などの展覧会にも出品し入選するなどいくつかの受賞歴も残しました。
玉井楽山の作る作品のほとんどに蟹が入っており、その蟹のリアリティは高く現代まで紡いできた技術の高さを窺わせます。
山田常山は初代山田常山から、四代山田常山まで続いている陶芸家です。朱泥、緑泥などの中国急須や常滑焼を中心に作品が多く作られています。四代山田常山は、1954年に愛知県常滑市にて生まれました。
1980年に美濃陶芸展で長三賞を受賞しました。1984年に名古屋名鉄百貨店での個展を開催し、以降毎年開催しています。1986年には東京銀座和光での父子二人展を開催しました。2005年に父である三代常山が逝去し、2006年に四代目山田常山に襲名しました。襲名以前は本名である絵夢として活動されていました。
三代常山は「使いやすさを追求していくと美になる」と考えていました。四代常山も、茶器はただお茶を入れる道具ではなく美を追求した芸術品だと考え、実用性と使い勝手の良さを追求した作品作りを目指しております。偉大な師でもある父からは直接技術を教わった事はなく、すべてを目で見て覚えたそうです。良い土に他の土をブレンドして使うことで、今も変わらずに朱泥などの深い色合いの高品質な作品を、現代まで続けております。
急須の常山といわれ有名ですが、四代は茶器をはじめ、食器や花器の作品を作り、どれも大変人気があります。日本を代表する有名料亭が四代常山の作品である食器を気に入り、数多く収集しているそうです。
利茶土ミルグリムは、1955年にアメリカ・ニューヨークで生まれた陶芸家です。
大学在学中に日本陶器に魅了され、日本文化と陶磁器に触れるため大学の留学サポートを利用し日本を訪れました。この留学の一年間でミルグリムは沖縄を除く46都道府県を回り、100人以上の陶芸家と出会いました。そのうちの何人かに次日本に来る際には弟子にしてほしいとお願いもしていました。
日本の文化に触れたミルグリムは帰国後、大学卒業の際に美術と日本研究の学士号を取得しました。将来のビジョンとして茶陶器づくりに従事したいと考えており、茶道について研究していました。そんな中、日本文化や茶道への高い理解と日本語能力をかわれ、アメリカで行われる「茶の湯展」に参加しました。そこでお茶の世界の最高峰である千宗室と出会います。その出会いはその後の人生を大きく左右するもので、日本に来た際には「会いに来るように」と言われるほど、最高峰から陶芸の道筋を示してもらいました。
その後日本に来日してからは、千宗室の紹介もあり、岩渕重哉・田原陶兵衛・藤原雄・加藤光右衛門といった一流の陶芸家の師事を受けました。各窯で学んだこと、それぞれの土地の土についての理解を深め、1984年に京都に自分の窯を開きます。窯を開く際には、鵬雲斎御家元から「利茶土」と名を付けてもらい利茶土窯が生まれました。「利茶土」という名前は、千家の祖利休から一字もらい「利」、お茶を意味する「茶」、土や粘土から「土」を取って名付けられたのですが、本名に当て字で付けただけなのに運命的な物を感じます。
その後のミルグリムは、作陶づくりに力を注ぎ、独自の作品を作り上げました。その品々は多くの賞を受賞し、2年ごとに行われる日本陶芸展にも周転するなど輝かしい功績を作り上げました。ミルグリムは日本だけでなく、母国アメリカにも窯を開き、「今古窯」という名を千宗室に付けてもらいました。こちらの名前は、窯を開いた地名のコンコードという名前と、ミルグリムの作り上げる新しい発想の今と、茶道という伝統の古を使った意味合いが込められています。