中田一於は、石川県出身の釉裏銀彩の技法を確立させた九谷焼の陶芸家です。
釉裏銀彩とは下地を塗って焼成をした素地に銀箔を切って膠で貼り付けて、透明釉をかけて焼成をするといった中田一於独自の技法であり、金箔を貼り付ける釉裏金彩は人間国宝に認定された吉田美統が確立していたのに対して、久谷焼の技術者が酸化による変質を嫌うことから使用していなかった銀箔で作品を制作することに挑みました。
釉薬と釉薬の間に銀箔を閉じ込めるその技法は、銀の酸化を防ぐことができ、銀の美しい輝きを長く保てることを証明しました。この技法に淡青、紫苑、淡桜という中田一於独自の透明釉、白地、墨地、黒地といった3種類の素地を組み合わせることにより、多彩な作品を制作しております。
季節ごとに色味の違う作品も作り出していることから女性にも人気のある作家としても知られております。
また、後進の育成も積極的に取り組んでおり次期人間国宝と噂される作家です。
福島善三は2017年に58歳という若さで「小石原焼」にて国の重要無形文化財に認定された福岡県出身の陶芸家です。
小石原焼とは福岡県の朝倉郡にある東峰村(とうほうむら)が発祥の約350年の歴史がある焼物であり、日本で初めて工芸品として認められたものとして知られております。もともは中野焼と呼ばれており、1682年に福岡藩黒田家の三代藩主である光之公が肥前の伊万里の陶工を招いた際に、その陶工が朝鮮系の磁器の文化を伝えたことと、すでにあった高取焼が交流することで現在の小石原焼の基礎が完成されたのではないかと言われております。大正時代になると陶芸家のバーナードリーチや柳宗悦らの「民芸運動」の中で「用の美」と絶賛され、民芸ブームや1958年の世界工芸展にてグランプリを受賞したことがきっかけとなり、日本全国に知られるようになりました。
福島善三は小石原焼の「飛び鉋」という工具の刃先を使って連続で切れ目を入れる技法を受け継ぎ、作陶をしておりますがその他にも中野月白瓷鉢や赫釉鉋文壷、福岡市長賞を受賞した中野月白瓷組平皿や、日本工芸会総裁賞の名誉を受けた鉄釉掛分条文鉢など名作を多く生み出していますが、それらはこれまでの小石原焼とは大きく異なるもので一部では批判もありますが、それは福島善三の「伝統を守るには変えていくこと」という信念に基づいており、今後も挑戦的な作陶を続けていくことでしょう。
佐賀県を代表する女流作家で、人間国宝認定目前まで迫りながら惜しくも他界してしまった小野珀子という方をご存知でしょうか。
1925年に小野琥山の長女として生まれ、のちに福島県大沼郡、会津美里町瀬戸町に移住をしております。会津若松町高等女学校を卒業すると家業に従事しております。
その後は、結婚と離婚を経て再び父親の琥山の製陶所のデザイン室に勤務して、絵付けなどを担当しておりました。
そんな中、人間国宝である加藤土師萌の釉裏金彩に魅了され、釉裏金彩の技法を独学で研究するようになります。失敗を繰り返しながらも諦めることなく釉裏金彩の技法を会得し、釉裏金彩の陶芸家として有名になっていきます。
豊かな表現力で金を用いる釉裏金彩と金襴手を得意とするようになった小野珀子は、幻想的な光を放つ素晴らしい作品を生み出しました。その作品は国内のみならず、海外でも高く評価されております。
1970年に日本工芸会西部工芸展で朝日銅賞を受賞したことを皮切りに数々の賞を受賞し、1992年には佐賀県の重要無形文化財に認定された小野珀子は人間国宝に認定されるのも目前と言われていましたが1996年に他界してしまいました。
中国色絵磁器を研究し、再現した陶芸家・加藤土師萌。最難関とされる数々の技法を自らのものとした功績が評価され、1961年には色絵磁器の人間国宝に認定されています。
加藤は1900年。愛知県瀬戸町に生まれました。当初は画家志望でしたが、愛知県立陶器学校図案科卒業後は岐阜県陶磁器試験場の技師として勤務します。自身の作品制作も行い、1927年の帝展では新設された工芸部門で入選を飾りました。
1937年にはパリ万博出品作『指描沢潟文大皿』でグランプリを受賞し、1940年陶芸家として独立を果たします。独立後は中国明朝時代の黄地紅彩の研究を行い、1951年にはこれが重要無形文化財に指定されました。その後も萌葱金蘭手や青白磁の研究に取り組み、1961年国の重要無形文化財「色絵磁器」保持者に認定されました。晩年は日本工芸会の理事長や、文化財保護審議会専門委員などを歴任し、美術界の振興に尽力した他、後進の育成にも積極的でした。
息子・雄と共に親子二代で備前焼の人間国宝に認定された陶芸家・藤原啓。鎌倉古備前様の質素な作風と、焼成の自然な変化をも利用した近代的な造形で備前陶芸界の牽引役を担った人物の一人です。
藤原啓は1899年、岡山県の農家に生まれました。若き頃は俳句や小説を好み、1919年に上京。出版社の博文館編集員として勤務しました。『文章世界』の編集業務の傍ら、自身でも詩集を出版するなど作家活動を行った他、川端画学校で洋画デッサンを学んでいます。1930年、作家として独立するも伸び悩み、精神的に追い詰められ挫折。1937年、故郷岡山に戻りました。翌年、近隣の学者に勧められて作陶に着手。陶芸家・三村梅景に師事し基礎を学びます。1941年には陶芸家・金重陶陽に入門。その技能を高めました。
1948年、国が認定する技術保存資格者に認定されたことで自信を持ち、本格的な作陶生活に入ります。1952年には東京で初の個展を開催。その翌年には北大路魯山人の支援で日本橋高島屋で個展を開催するほどになりました。1956年以降は日本伝統工芸展に作品を出品します。1962年には『備前壷』がプラハ国際陶芸展で受賞するなど数々の功績をあげ、1970年、ついに国の重要無形文化財「備前焼」保持者に認定されました。
師である陶陽の桃山備前の作風とは対照的な素朴さが人気を呼び、今なお高く評価されています。
須田剋太は埼玉県出身の力強く荒々しい作風が魅力的な洋画家です。
埼玉県の吹上町に生まれた須田剋太(本名勝太郎)は埼玉県立熊谷中学校を卒業後に東京の本郷にある川端画学校で学んだ後に東京美術学校の入学を試みましたが4回失敗してしまうなどの苦労をされました。
最初は光風会展に出品し1937年の第24回展で光風特賞を受賞し、1940年には光風会会員になります。また、新文展では「読書する男」、「神将」がそれぞれ特選を受賞する等の実績を残します。この頃は仏像や堂塔を多く題材としており、戦中から戦後にかけては東大寺に寄寓をしております。
光風会退会後は国画会の会員となり官展の流れから離れ、前衛画家である長谷川三郎に刺激を受けたことで1949年より抽象画に没頭しました。
その後は国画会展、現代日本美術展、日本国際美術展、サンパウロ・ビエンナーレ展、ヒューストン美術展、プレミオ・リソーネ展、ピッツバーグ・カーネギー展などの国際展に制作発表し、激しい感情をこめたダイナミックな抽象表現を展開しました。再び具象画を手がけ、抽象や具象にこだわらない独特な画境を拓きました。
1971年から挿絵を担当した司馬遼太郎の「街道をゆく」は1990年まで連載され、その挿絵原画は8枚から10枚を毎月描かれ、「一枚一枚を、完全な絵と思って描く」態度に貫かれ掲載紙ではモノクロ印刷であるにもかかわらず全て彩色され、その迫力ある重量感が挿絵の“革命”としての評価を得ました。
晩年は関西の画家の中での所得番付がトップを占めるなどその作品の評価と価格は上がったにも関わらず天衣無縫な生活を送り、平成元年には、手持ちの自作作品を公的機関(大阪府2134点、埼玉県立近代美術館225点、飯田市美術博物館458点)にすべて寄贈したことでも有名な作家となります。