明治時代から続く伝統ある陶芸一家。2020年現在4代が活躍しており、5代目を継ぐ長男と共に兵庫県の琴浦窯と山梨県大泉窯の二か所で作陶を続けております。
外科医として尼崎藩主に仕えていた和田信景の孫「和田九十郎正隆」が西宮大社村に開窯しました。「琴浦窯 和田桐山」のはじまりは、九十郎の次男「和田正兄」が尼崎市の東桜木町に移窯した際、藤原道真の「ここは殊の外よき浦なり 松は琴柱の並びたるが如し」と賛美した言葉が由来の地名「琴浦」から窯名を琴浦窯とし、陶号は豊臣家の家紋の桐にちなみ桐山としました。
当代である4代目は、3代目の長男として生まれ昭和47年から琴浦窯にて作陶を始めます。幼い頃から3代目である父の背中を見て育ってきた事もあり、その技術はとても高く評価され昭和57年以降日本陶芸展や日本伝統工芸展にて入選を果たします。平成に入ってからは日本伝統工芸展正会員として認定され、平成2年から平成4年にかけて西武百貨店開催の「CERAMICS’90~92 -伝統とその同時代性-」に出品。数々の功績を築き上げ、平成8年に4代桐山を襲名し大阪・東京その他で襲名展を開催しました。襲名以降日本国内だけでなく、フランスのパリにて個展を開催するなど活躍の場を広げていきました。
「青磁」のみを追求し続けた陶芸家・島田幸一さんです。
現在は、静岡県島田市で作陶活動を行っています。
島田幸一さんは陶芸家として美しい作品を数多く制作していますが、何よりも生き様に情熱・ロマンを感じます。
多くの有名陶芸家は代々続く陶芸一家や父を師事して志すということが多いのですが、島田さんは違います。何と社会人になってからなのです。サラリーマン時代に出張で台北を訪れた際に見た、汝窯の青磁作品の美しさに魅了されたことから陶芸家の道がはじまります。
陶芸家として走り出すのですが、汝窯の青磁の復元だけを追求し続けます。自身の努力はもちろんですが、大学研究室や田宮模型など様々な協力を得て、見事汝窯の青磁復元に成功します。
1点だけを追い続ける。島田さんの青磁作品が宝石のように美しいのは、情熱とロマンに満ち溢れているからではないでしょうか。
塚本治彦は岐阜県土岐市の陶芸家です。
10代のころから作陶活動に励み、野中春清や浅井礼二郎に師事。
20代半ばで地元・岐阜県土岐市駄知町に「北斗窯」を築きます。
志野焼・織部焼を中心に、伊賀・黄瀬戸作品なども発表しています。
塚本治彦作品の特徴は何といっても「力強さ」です。陶器の重厚感、釉薬の塗り方に豪快さを感じ、備前焼のようにちょっとした衝撃であれば損傷しないのではないでしょうか(検証はしていません。個人の感想です)
織部焼の元祖・古田織部の作陶精神を守りながらも、自身のオリジナリティを存分に兼ね合わせています。
九谷焼のような絵柄の派手さは無くても、緑を基調に絶妙なグラデーションの織部釉は、飾っても使っても楽しめる逸品です。
現在も精力的に活動を行っています。熟練の技に磨きがかかり、素晴らしい作品をこれからも世に出し続けてくれることでしょう。
岩田藤七はガラス工芸で有名な工芸家です。
東京都に生まれた岩田藤七は、1911年に商工中学校を卒業後に白馬会洋画研究所で岡村三郎助に師事して洋画を学びます。東京美術学校に入学後は彫金、洋画、彫刻を学び、洋画を勉強する為に金工科を卒業した後に再度西洋画科へと再入学をしました。
1922年には建畠大夢に彫刻を学び、第4回帝展に「深き空」という彫刻作品を出品します。
1923年に西洋画科を卒業しますが、この頃よりアールヌーボーに啓発されガラス工芸を志すようになっていきました。今村繁三にガラスの手ほどきを受けた岩田藤七は、岩城ガラス研究室に通いながら帝展美術工芸部に出品し、1928年から1930年まで連続で特選に入賞するといった実績を残しました。
岩城ガラス研究室を退職後の1931年には岩田硝子製作所を設立し、ガラス工芸品を制作すると共に制作に必須な職人を育てることにも尽力しました。
1936年、第2回の個展を開催時から、勅使河原蒼風と組んで話題を集めたり、1950年には日展参事、1958年には日展顧問となりました。この間には第7回日本芸術院賞を受賞し、1954年には日本芸術院会員に推されます。
日展や日本伝統工芸展に出品したり、たびたび個展を開催し、1968年岩田藤七大回顧展(高島屋)開催を機に、「岩田藤七ガラス作品集」が刊行され、1970年に文化功労者に選ばれております。
岩田藤七の作品は色彩豊かで流動的であり、透明や切子ばかりであったガラス界に衝撃を与えたことで高い評価を受けました。また、色ガラスによる装飾壁面「コロラート」を制作し建築空間に応用することで新分野も開拓し、近代ガラス工芸に多大な功績を残した方といえるでしょう。
加藤唐九郎は、「永仁の壺」事件で贋作を作陶してしまった人物として良くも悪くも有名になってしまった愛知県出身の陶芸家ならびに陶磁史研究家です。
「永仁の壺」事件とは永仁二年の瓶子が鎌倉時代の古瀬戸の傑作として認定を受けます。しかし、銘文の不自然さなどから異論が相次ぎ、認定を受けた翌年に加藤唐九郎の長男が瓶子の製作に携わったことを明かします。そして、加藤唐九郎も自らの贋作であったことを明かします。
また、指定に関与していた文部技官・文化財専門審議会委員であった小山冨士夫は引責辞任、加藤唐九郎は無形文化財(人間国宝)の資格を取り消されるという美術史学界、古美術界、文化財保護行政を巻き込むスキャンダルとなった事件です。
このような事件で有名になってしまった加藤唐九郎ですが、日本の伝統的な造形に学び、桃山時代の陶芸の研究と再現に努めた作品は現代では高い評価を受けております。
また、作品の号も年代によって変わっておりますので参考にご紹介いたします。1961年には漢学者で詩人の服部担風翁より「一無斎」の号を送られ以後、作品の銘に「一ム才」を使用する。1962年には「一ム才」を「一ム」と改めるまた、1980年には作品に記す号に「野陶」「ヤト」を使い、。1981年の作品に記す号に「陶玄」を使い、後に「玄」を使用しております。
清水卯一は1926年生まれの、京都出身の陶芸家です。
鉄釉陶器の人間国宝として京焼を中心に、花瓶・茶道具を中心に様々な陶器陶芸作品を制作しました。
数か月の間でしたが人間国宝・石黒宗麿に師事し、その後日展・日本伝統工芸展を中心に活躍します。
1992年には、滋賀県に蓬莱窯を築きました。滋賀県湖西・湖北の土を使用して、貫入のある青磁・油彩天目などを制作しました。晩年には研究を重ね、鉄釉と白釉を合わせた鉄耀白流などの新しい技法を次々に生み出していきました。
晩年には半世紀の間に自身が作陶した150点の作品を滋賀県の美術館へ寄与します。また、若手陶芸家の為に自身の蓬莱窯を開放。自身の作陶活動と並行して、後進の育成・陶芸文化の伝承にも力をいれていました。
2004年に77歳で亡くなりましたが、現在も蓬莱窯では息子・清水保孝、孫・清水志郎も共に京焼の陶芸作家として、「鉄彩陶器」の伝統を受け継ぎながら活躍しております。