薩摩ガラス工芸は、鹿児島県で薩摩切子を製造しているメーカーです。
薩摩切子は、二十八代島津斉彬の命によって鹿児島で生み出されましたが、斉彬の急逝や薩英戦争や西南戦争があったことが影響してわずか20年あまりで姿を消し、幻の工芸品となってしまいました。
しかしおよそ100年の時を経て、鹿児島県の「再び薩摩切子を甦らせたい」といった呼びかけから、島津家の協力により1985年に薩摩ガラス工芸株式会社が設立されました。
薩摩切子の復元の発表し、翌年には本格的に復元事業と製造を開始し、急速に復興していきました。また、薩摩ガラス工芸で修行した技術者たちが独自に工房を持つなどし、裾野が広がっていきました。今では、薩摩切子は鹿児島県を代表する美術工芸品となっています。
薩摩切子は「ぼかし」と呼ばれる独特なグラデーションが特徴です。透明なガラスの上に色の付いたガラスを載せた色ガラスをカットすることで、切り口に色の付いた分と透明な部分が生まれます。このグラデーションが絶妙で、当時の薩摩藩がこの技術に最初に成功したと言われております。
薩摩ガラス工芸では、21世紀の始まり記念に二色衣という従来では一色である色ガラスを二色載せることでより複雑なグラデーションを持つ薩摩切子を製造する等、日々進化を遂げております。
金重晃介は、言わずも知れた人間国宝である金重陶陽を父に持つ現代の備前焼を代表する作家の一人として有名です。
東京芸術大学の美術学部で彫刻を学んだ後に、関東にて前衛グループ展に参加したり、東海大学の教養学部にて6年間陶芸の講師を務めました。その後、1977年に備前に戻り、兄である金重道明の窯にて修行をします。兄の下で修業をした後、1982年に備前市香登に築窯し独立します。それ以降は展覧会にも出品したりする等、金重一門として活躍します。主な受賞歴としては、94年日本陶磁協会賞、99年山陽新聞社賞などがあり、2012年に県の重要無形文化財に認定されました。
金重晃介の作風としては、兄の正統派備前に対し、備前焼の伝統は尊重しながらも伝統の重みと技法に囚われることなく、味わい深い備前の土を最大限に活かした独自の造形的な作品を手掛けております。また、帰郷以前の自由な陶芸を引き続き自分の感性に重点を置いた斬新な造形による壺や花器、酒器など茶陶も展開、抽象花器を得意としており紐を掛けた造形作品を長年手掛けており、その豊かな感性と卓越した造形力は現代陶芸界に確かな地位を確立しました。
濱田庄司は益子焼の陶芸家として、現在でも非常に高い人気を誇っている人物です。単純ながらバランスのよい造形と、そこに描き出されるシンプルな釉の文様がよく調和していて、素朴ながら味わい深い作品となっています。
濱田は1894年、神奈川県高津村(現川崎市)に生まれます。当時の名門校・東京府第一中学校卒業後は、東京工業大学の前身・東京高等工業学校へ進学しました。学校では窯業科に進み、板谷波山のもとで窯業の基礎を学び、同時に先輩の河井寛次郎にも出会いました。卒業後、河井とともに京都市立陶芸試験場に入所します。在籍中に民藝運動の発起人・柳宗悦や、イギリス人の芸術家・バーナード リーチに出会い、1920年にはリーチとともにイギリスへ渡りました。帰国後は栃木県の益子町に移り住み、以降益子焼の制作に没頭します。
1955年には、第一回の人間国宝認定に見事選ばれ、民芸陶器の重要無形文化財保持者となったほか、紫綬褒章や文化勲章といった数々の栄誉を手にしました。
1978年に没していますが、生前館長を務めた日本民藝館には450点近い作品が収蔵されているほか、自身の収集品が益子参考館にて展示されています。
沈壽官窯は、1598年 (慶長3年) 、豊臣秀吉の2度目の朝鮮出征 (慶長の役) の際に、当時の薩摩藩主であった島津義弘が朝鮮から連れ帰った陶工のひとり、沈当吉から数えて15代続く薩摩焼の窯元となります。
薩摩焼は黒もんといった黒っぽい色の陶器をご存じかと思いますが、沈壽官の薩摩焼といえば、白もんといった呼び名の白薩摩が有名です。白薩摩と黒薩摩の違いは、土に鉄分を含んでいるか否かの違いです。桜島の火山灰が降り注ぐ鹿児島では鉄分の多い土が取れる為、どうしても黒っぽい陶器となっていました。当時の日本は、朝鮮のような白っぽい陶器に憧れをいだいていたこともあり、島津家は沈当吉に白い焼き物を作れとの命を受け、7年もの歳月をかけて完成させ、完成後に白薩摩を献上すると喜んだ当主が、薩摩焼と名付けたことが薩摩焼の始まりとされています。
当代である15代目も1999年に15代目を襲名してから、沈家に伝わる伝統を引き継いでいますが、その作風は余白の取り方や造形に工夫を重ね、高度な作陶技術で美を追求しております。白薩摩による典雅な金襴手や、細かい所にまで注意を極める透かし彫り、蝶や小動物などの浮き彫りといった微細な貫入を特徴としております。また韓国の明知大学客員教授に就任し、日韓の交流にも積極的に取り組んでいることで有名な方となります。
エミール・ガレは、父シャルル・ガレと母ファニー・レーヌメールとの間に1846年フランス北東部のナンシーで生まれます。
両親は陶磁器とガラス器を扱う店舗をナンシーに構えていました。
1858年から1864年までナンシー帝国のにあるリセ(高等中学校)で学び、その後は植物学に没頭、フランスの植物学の権威であるドミニク=アレクサンドル・ゴドロンの指導も受けたこともあります。
1864年にバカロレア(大学入学資格)を取得した後、ドイツに留学し、ドイツ語や鉱物学を学びました。
1870年の普仏戦争では、義勇軍に志願し、南仏トゥーロンなどで宿営もしています。
1877年に父の後を継いで工場管理責任者になります。
その後ナンシー中央園芸会の創立メンバーとなり、事務局長も務めました。
日本をはじめとする極東や東方の文化と美術品に親しみ、それらは紛れもなくガレのジャポニスムや異国趣味的作品の重要な霊感源となります。
ガラス工芸の分野においてアール・ヌーヴォーの旗手として知られ、文学や哲学・植物学などの多岐にわたる研究をもとに、ガラスの造型と意匠にその博識を発揮し19世紀ガラス芸術界を牽引しました。
加藤孝造は岐阜県出身の陶芸家です。
可児市に窯を開き独立しますが、それまでは、同じく岐阜の陶芸家である5代目加藤幸兵衛に陶芸の指導を受けました。
若いころには絵画にも携わっており、日展の洋画部門ではその回の最年少受入選になるほどでした。
しかし、地元である美濃陶芸の道を志し、桃山時代の志野・瀬戸焼の再現に取り組んでいた荒川豊蔵(「志野・瀬戸黒」人間国宝)に師事します。
平成22年には、重要無形文化財「瀬戸黒」の技術保持者(人間国宝)に認定されます。
現在は、美濃陶芸会会長として、美濃陶芸の発展に尽力する中、若手陶芸家を集い「風塾」を創設します。後継者の育成にも力を注いでいます。