吉田美統(よした みのり)は、人間国宝に認定されている九谷焼の陶芸家です。
石川県小松市にある錦山窯の三代目として生まれ、高校生の時に陶芸の修業を始めました。しかし当時、戦後ということで釜の燃料が少なく、値上がり防止のため国に定められたものしか作ることが出来ませんでした。国から定められたものを作ることしかできないジレンマから、新しいことへのチャレンジをしたい気持ちが高まっていきました。
転機が訪れたのは、1968年に開催された加藤萌土師の遺作展でした。「釉裏金彩」という器に金彩を張って模様を描き、そのあとに釉薬をかけて焼成を行う技法は吉田に衝撃を与えました。新しい金の表現方法に魅せられた吉田は、釉裏金彩を使った自分らしい表現方法にたどりつきました。
吉田の表現方法は、薄い金箔とさらに薄い金箔を使い分け細密な花や蝶を描くものでした。
吉田の釉裏金彩へのこだわりは金箔を切るはさみにも及び、通常のはさみでは切った際の静電気ではさみにくっついてしまうので、医療用のはさみを使うなどの工夫をしていました。釉裏金彩作品の初出品までに有した年数は実に4年にも及びました。
2001年には技法が認められ「釉裏金彩」の重用無形文化財(人間国宝)保持者となりました。
前田昭博は「白磁」で国の重要無形文化財に認定された陶芸家です。
1954年に鳥取県に生まれた前田昭博は、小学校2~3年生の際に学校の教員をしていた父が木版画を始め、その後ろ姿を見てモノを夢中になっているところがうらやましいと感じるようになり、その頃から図画工作が好きになり、高校では美術部に入り、大阪芸術大学に進学後は陶芸専攻するようになりました。大学では先生が大きな土の塊と格闘していることに感動をし、そこで白磁を初めて制作し、その白さに感動したとのことです。大学を卒業後は、故郷である鳥取県にて納屋を改造して窯を築き、作陶を初めていきました。
その後は1979年に日本陶芸展に入賞したことを皮切りに数々の賞を受賞し、その功績が称えられ、2007年には紫綬褒章を受章、2013年には「白磁」にて国の重要無形文化財に認定されました。
前田昭博の作風として簡素的でありながら形の美しさや存在感と品格を意識した作陶により今後も人々を魅了し続けるのではないでしょうか。
日本におけるガラス工芸の先駆者である岩田藤七、その長男として自身も父と同じ道を進むことなったのがガラス工芸家、岩田久利です。
久利は1925年、東京美術学校を卒業してまだ間もない藤七の子として生まれました。父と同じく東京美術学校に進み、工芸部図案科で学びました。在学中に日展で初入選を果たし、以後も出品を続け、第11・12回の日展で2年連続特選という快挙を成し遂げています。その後は日展審査員をつとめる一方、日本ガラス工芸会を設立、ガラス工芸の振興にも尽力しました。
1976年の第8回改組日展にて文部大臣賞、1982年日本芸術院賞を受賞するなどの実績を重ね、1979年には紺綬褒章も受章しています。
若き頃より様々な分野の文化に触れ、独自の世界を作り上げた久利の作品は、緻密な技法を使いこなし、不透明な色ガラスを大胆に用いるなど日本のガラス工芸に新たな風を起こしました。
野々村仁清は生没年が不明などわからないことはいくつかあるのですが、生まれは丹波国(京都)野々村と伝えられており、本名は清右衛門といいます。
京都の粟田口や瀬戸などで修業を積み1647年ごろに京都仁和寺の門前にて開窯します。仁清という名も仁和寺の「仁」と清右衛門の「清」を取り称したものです。
仁清と関わりの深い人物として、金森宗和が挙げられます。仁清は金森宗和の指導のもと作陶を行い腕を磨きました。確かな轆轤技術と華麗な色絵上絵付は、「わびさび」から「きれいさび」に移行している流れに合っており、仁清の評価は陶工として頂点だといわれるようになりました。この頃の「きれいさび」に基づく茶陶は、師である金持宗和の影響が大きいこともあり宗和好みと呼ばれています。
仁清の作品の中でも傑作が多いといわれているのが茶壷と香炉です。「色絵月梅図茶壷」「色絵雉香炉」「法螺貝形香炉」これらは国宝や重要文化財に指定されている作品です。これらの作品は美術館や博物館で展示されており、野々村仁清という陶工の偉大さ、そして確かな技術の高さがうかがい知れます。
乾山は寛文3年(1663年)京都の富裕な呉服商の三男として生まれました。尾形と聞いて尾形光琳が頭に浮かぶ人も多いと思いますが、その尾形光琳の弟が尾形乾山です。派手好きな性格の光琳と対照的に、乾山の性格は穏やかで書物や学問を愛する落ち着いた芸術家でした。それは作品にも表れ、乾山の作品は慎ましさが感じられ、親しみやすさや温かみのある印象を持ちます。
乾山は野々村仁清の元で陶芸を学び、37歳の時に京都の鳴滝に開窯します。乾山には多くの名前がありますが、陶工としての名である「乾山」が一般的です。その名前の由来となったのがこの鳴滝の地です。乾は北西を意味し、都から北西に当たるこの地から陶工の乾山と命名されました。
50歳の頃には京都の二条丁子屋町に移住し、多くの作品を手がけました。この頃には乾山が器を作り、兄の光琳が絵付けをする兄弟合作の作品も多く生まれました。
70歳の頃には江戸に移り住み陶芸の指導を行うほかに、絵画の修練を重ね絵師としても才能を発揮し始めました。高齢ながら絵師としての才能を開花させるなど、穏やかな性格の乾山は芸術においては強い気持ちをもっていたことが伺えます。乾山の日本画は陶芸作品と同じで、慎ましさと親しみやすさの中に乾山の独創的な芸術性が溢れる作品が多く、国内外を問わず多くの好事家に愛されています。
高橋道八は江戸時代後期より続く京焼(清水焼)の窯元の一つで、陶芸家の名跡です。茶道具や煎茶器の名品を数多く輩出しています。
初代高橋道八の時代は煎茶隆盛期で、初代高橋道八も時代の流れに合わせ多くの煎茶器を作成し名品を残しています。
二代高橋道八は「仁阿弥道八」としても有名で、京焼だけでなく楽焼や色絵・李朝磁器・青花磁器などの制作も行い、どの製法においても名品と呼ばれる作品を輩出している、多種多彩な陶芸家です。多くの製法で作成する仁阿弥道八ですが、どの作品においても共通して品の良さ「高貴性」を感じることができます。隠居後も桃山窯を開窯し作陶を続け、晩年の作品も名品として輩出されています。
三代高橋道八は、父である仁阿弥の作風を受け継ぎつつ新たな技法も取り入れ、青磁や雲鶴模様などを使った煎茶器の名品が多く残っています。そんな三代道八は四代高橋道八と共に明治時代の京焼を支えました。この頃から徐々に京焼の世界でも高橋道八の名が知られるようになってきました。
現在は、九代高橋道八が色絵京焼の茶道具を手がけ活躍しています。