本多天城は、明治時代から昭和時代にかけて活躍した日本画家です。
本多は江戸に生まれ、本名を佑輔(ゆうすけ)といいます。19歳で「近代日本画の父」と称される狩野芳崖に師事し、岡倉秋水や岡不崩らとともに「芳崖四天王」の一人に数えられました。その後、東京美術学校を卒業し、29歳という若さで母校の助教授に就任しました。明治30年の第2回日本絵画協会共進会、および同年の第3回共進会でともに銅牌を受賞し、明治31年の東京美術学校騒動に際しては、辞職組として連署したものの最終的に留任し、明治34年まで助教授を務めました。
彼の作品の特徴は、師である狩野芳崖から継承した狩野派の伝統的な技法(岩や樹木の描写など)をベースにしながら、西洋画の写実性や明暗法を取り入れ、独自の色彩や画境を追求した作風が特徴です。代表作の『柳鷺図』『秋野』『山水(山水図)』では、自然や生物の生命感が繊細なタッチで描かれています。
また、前漢の武将を題材とした『蘇武(そぶ)』などでは卓越した人物描写力を示しており、狩野派の伝統に近代的な表現を吹き込んだ実力派として高く評価されています。
本多天城は、伝統的な狩野派の筆遣いと西洋の空間表現を融合させ、日本画の発展に貢献した画家といえます。






