「酒井抱一」は江戸琳派を代表する絵師で俳人の一人です。尾形光琳に私淑し琳派の雅な画風と俳味を取り入れた詩情ある洒脱な画風に翻弄したことでとても人気となり、江戸時代琳派の祖となった人物です。
酒井抱一は、1761年、姫路藩主・酒井忠恭の孫として神田小川町に生まれました。彼が生まれた酒井雅楽頭家は、代々文芸を重んじる家柄であったため、幼いころから芸術に親しむ環境にありました。
37歳の時、抱一は西本願寺にて出家し、その後、権大僧都となりますが、間もなく職を辞し、下谷根岸に「雨華菴」を構えて、書画や俳諧に親しむ生活を送るようになります。
49歳の頃には、雨華菴にて谷文晁をはじめとする文化人たちと交流を深め、見識と人脈を広げていきました。
酒井抱一の功績は非常に多く、特に知られているのは、尾形光琳に私淑し、その画風の再興に尽力したことです。1815年には、光琳の百回忌を記念して《光琳百図》および《尾形流略印図》を作成し、1823年には《乾山遺墨》を刊行するなど、琳派の継承と発展に大きく貢献しました。
酒井抱一の画風は情緒的でありながら洒脱な画風をしています。
画業の始まりは狩野高信から狩野風を学んだことから始まり、琳派の装飾的な技法を受け継ぎつつ、宋紫石について沈南蘋の写生画風、歌川豊春から浮世絵、さらに土佐派・円山派の技法の習得、伊藤若冲の技法も積極的に取り入れる等の多数の技法を習得し、独自の画風を確立していきました。