織田 信長

織田信長は、戦国時代に活躍した日本随一の知名度を誇る武将です。

尾張(現在の愛知県)に生まれ、若くして織田家の当主となった彼は、型破りな発想と大胆な行動力で急速に勢力を拡大していきました。

 

1560年、今川義元を破った桶狭間の戦いで一躍名を馳せると、その後も戦に勝ち続け、強大な敵を次々と倒していきます。
1570年には浅井・朝倉連合軍との姉川の戦いに勝利し、1575年の長篠の戦いでは鉄砲を効果的に使い、武田勝頼の騎馬軍団を壊滅させました。この戦いは、戦国時代の戦術を大きく変える出来事として知られています。

 

戦いだけでなく、政治や経済の面でも革新をもたらしました。商業の発展を促すために楽市楽座を導入し、関所を廃止して物流を活性化。
また、キリスト教を保護し、南蛮貿易を奨励するなど、西洋文化を積極的に受け入れたのも彼の特徴です。一方で、仏教勢力とは対立し、1571年には比叡山延暦寺を焼き討ちし、1580年には長年敵対していた石山本願寺を降伏させるなど、徹底した弾圧を行いました。

しかし、天下統一目前の1582年、信長は家臣の明智光秀の謀反によって京都・本能寺で自害し、その生涯を閉じます。彼の死後、豊臣秀吉がその遺志を引き継ぎ、日本統一を成し遂げました。

信長の評価は今も分かれるところですが、戦国時代において革新的な戦略と政策を展開し、日本の近代化の礎を築いた人物であることは間違いありません。その生き方は、現代においても多くの人々に影響を与え続けています。

 

美術品として、信長自らが筆を執った書簡などが現在でも残されております。絶大な知名度を持つ武将の書簡として、高い古美術的価値を有しております

 

表千家九代 曠叔宗左 了々斎

表千家九代 曠叔宗左 了々斎についてご紹介いたします。

主な功績としては、十代藩主・徳川治宝の茶頭として仕え、紀州徳川家との深い交流から現在の表千家の表門を拝領したことや、代楽 旦入と共に紀州御庭焼の製陶に携わり、茶道具の発展に貢献したことなどが挙げられます。

 

了々斎は、久田家六代家元・挹泉斎宗溪の長男として生まれます。
表千家八代家元 啐啄斎が後嗣の男子に恵まれなかったため、了々斎はその婿養子となり、34歳の頃に表千家の九代家元を襲名しました
その時啐啄斎は60歳程の年齢であり、入れ替わる形で隠居の身となりました。

了々斎は紀州徳川家十代藩主・徳川治宝の茶頭として仕え、治宝から深い信頼と庇護を受けます。
治宝は歴代藩主の中でも特筆して茶道に深い造詣を持ち、了々斎の指導のもと、利休茶道の免許皆伝を受けるまでになります。

 

1819年(文政2年)には十代楽旦入と共に紀州御庭焼の製陶に携わり、他にも赤楽や黒楽の茶碗など、多くの茶道具を自ら制作しました
また、当時の千家十職のうち、楽家の楽了入や永楽家の永楽了全など、了々斎から「」の字を受けて名乗った職人もおり、その影響力の大きさがうかがえます。

晩年の1822年には、治宝を家元にむかえ茶事を執り行いました。了々斎は二条屋敷にあった武家門を拝領し、それが表千家の表門として今もなお、由緒ある門として表千家の風格を表しています。

了々斎の好み物としては、代表的なもので赤楽・黒楽茶碗が挙げられます。七代の如心斎に強い影響を受けていることから、自作の茶道具にもその精神性が反映されています。
手造 黒茶碗「長袴」という作品が残されており、手造りの筒茶碗は非常に珍しい作品となります。長男・与太郎の6歳の袴着の祝儀に際して作られ、「長袴」と命名されました。
 
他にも華やかな蒔絵を施した棗や打合盆など、了々斎の好み物の種類は多岐にわたります。

王 成喜

王成喜は、中国河南省出身の画家です。

1940年に生まれ、1966年に中央美術工芸学院を卒業します。中国花鳥画の巨匠・董寿平に師事し、伝統的な中国画の技法を基に、繊細で色彩鮮やかなスタイルを確立しました。

 

王成喜の作品の中では特に「紅梅」の絵が有名であり、その他にも白梅や果物のモチーフを描くことが多いです。作品は人民大会堂や日本国会にも展示され、国内外で広く評価されています。

 

現在も国家一級美術師の画家として活躍しており、中国や日本に留まらずヨーロッパやアメリカでも高い評価を受けております。

山本 紅雲

山本紅雲は、兵庫県伊丹市出身の日本画家です。

 

京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)で学び、日本画の大家である竹内栖鳳に師事しました。その作品は、繊細な筆使いと豊かな色彩表現で高く評価されています。

紅雲は、帝国美術院展覧会(帝展)や日本美術展覧会(日展)に出品し、多くの作品が入選しました。遅筆であり、展覧会への出品はいつも締切ギリギリであったと言います。

 

山水画や花鳥画を得意とし、中でも嵐山の風景を描いた作品や、鮎や鯛などの魚を描いた作品が評価されております

また、即中斎など茶道千家の家元が賛を入れた作品があり、そちらは有名な茶人の賛であることから高い評価が期待できます

 

小田 雪窓

1901年、小田雪窓は鳥取県に生まれました。
1913年、12歳で故郷鳥取の廣徳寺にて得度し、臨済宗の僧となります。その後、修行を重ね、1921年には18歳で京都へ移り、妙心寺に落ち着きました。

1947年、師である瑞巌老師が大徳寺の管長(代表者)に任じられ、僧堂師家の地位に就きます。その後、1955年には臨済宗大徳寺派の管長に就任しました。1966年、小田雪窓は僧侶として、また能書家として卓越した才能を発揮しながら65歳でその生涯を閉じました。

臨済宗の僧侶として最高位に就いた雪窓は、指導者として後進の育成に尽力するとともに、能書家としての活動も活発に行いました。その書は素朴ながらも格調高く、幽玄な雰囲気を漂わせる筆致が特徴です。書画のほか、雪窓の書付のある茶道具作品が現存しています。

また、茶の湯にも造詣が深かった雪窓は、茶杓や蓋置などの茶道具の制作にも携わりました。これらの作品は、彼の美意識と茶道に対する深い理解を物語っています。

立花 大亀

立花大亀は臨済宗の僧侶であり、茶道や書道、禅の世界で名を馳せた人物です。

大阪府に生まれた大亀は、22歳の時に南宗寺で得度(僧侶になるための出家)します。その後は臨済宗大徳寺派の徳禅寺住職を経て、大徳寺の住職まで務めました。1982年から1986年までは、花園大学の学長として仏教教育にも力を注ぎました。

茶道の世界では、大徳寺と茶道の深い関係を背景にその精神を広め、伝統を受け継ぎながら新たな発展をもたらしました。書家としても優れた作品を数多く残し、禅の思想を体現したその書風は高く評価されています。

また、政治家や実業家とも深く交流し、その鋭い洞察と助言から「政界の指南役」とも称され、多くの人々から信頼を集めました。

 

茶道と書道に深い造詣を持ち、茶杓や茶掛などの作品が多く残っております。

渡辺 省亭

渡辺省亭(せいてい)は、明治から大正時代にかけて活躍した日本画家で、特に花鳥画で名を馳せました。     16歳のときに歴史画家の菊池容斎に師事し、写生を重視した絵画技術を磨き上げました。1878年のパリ万博では、工芸品 …

狩野 芳崖

狩野芳崖は、江戸時代末期から明治時代初期にかけて活躍した日本画家です。 狩野派の伝統を受け継ぎつつ、近代的な絵画技法を積極的に取り入れたことで知られています。   彼は、西洋画の技法を日本画に融合させることによ …

狩野 正信

狩野正信は、室町時代後期の絵師です。 狩野派の創始者として、日本の絵画史において重要な位置を占めています。   正信は京都で生まれ、仏教や神道に関わる絵を手掛ける家系に育ちました。正信の絵は、写実的な技法と華や …

狩野 永徳

狩野永徳は、安土桃山時代を代表する絵師であり、狩野派の最も重要な画家として広く知られています。   狩野派は、室町時代後期に創設され、特に戦国時代から江戸時代にかけて、豊富な絵画依頼を受けて華やかな装飾画を数多 …

愛新覚羅 溥傑

愛新覚羅 溥傑は、清・満洲国の皇帝である愛新覚羅溥儀の同母弟です。 ラストエンペラーの実弟として、波乱万丈な生涯を歩みました。 皇帝一族である愛新覚羅家は、その政治的・歴史的な役割のほかにも書家として高名です。 書の格と …

張世簡

張世簡は、中国の花鳥画作家です。 1926年に「画家の故郷」として知られる浙江省浦江県禮張村に生まれました。 叔父には花鳥画家である張振鐸(1908-1989)、従兄には同じく花鳥画家として活躍し、巨匠として知られる張書 …

木島 櫻谷

木島櫻谷は、1877年生まれの四条派の日本画家です。 京都に生まれ京都で育ち、幼少より周囲の影響で日本画をはじめとした文化の造詣を深めました。青年になると京都画壇を代表する作家・今尾景年に師事し、以降四条派の伝統を汲んだ …

三尾 呉石

三尾呉石は、明治期から昭和期にかけて活躍した日本画家です。 1885年の東京・日本橋に生まれ、幼少の頃から熱心に絵を描いていたといいます。 15歳の時に日本美術協会に出品した作品が認められ、その縁から動物画の巨匠・大橋翠 …