木村 武山

木村 武山 掛軸 『月に五位』

木村武山は茨城県出身の明治~昭和初期に活躍した日本画家です。

幼い頃から旧笠間藩士であった父の影響で英才教育を受けていた木村武山は、2歳のころから南画家である桜井華陵に師事し、12歳のころには「武山」の号を使って作品を描いていたといわれております。
その後、東京の名門校である東京開成中学校に入学しますが絵画への志が強かった為、翌年には東京美術学校に編入したり、より絵画に磨きを重ねる為に川端玉章の画塾である天真社、卒業が決まった後でもより磨きを重ねる為に日本画研究科へ進み在学中に日本絵画協会第一回展で二等褒状を受賞するといった快挙を成し遂げました。
その後、日本美術院に参加し活躍を見せますが、日本美術院が経済的に厳しくなってくると岡倉天心らは茨城県にある五浦へ移転し、それに同行しました。

木村武山の代表作の多くはこの五浦時代に描かれたもので、晩年に描くようになる仏画もこの頃から描き始め、晩年は、脳内出血によって麻痺が残ってしまった為、利き手でない左手が描くようになり「左武山」とも称されました。
岡倉天心が亡くなると、下村観山と共に美術院を再興させ、終生まで美術院に出品を続けました。

喜多川 歌麿

美人画浮世絵の大家として有名な浮世絵師・喜多川歌麿。いまや海外にも多くの作品が存在し、その知名度も世界的なものとなっています。

歌麿の生年や出生地は、現在もはっきりした史料がなく、研究者の間で論争が続いています。死亡時の年齢から1753または54年に、川越もしくは江戸市中で生まれたのではないかとされていますが、今後の研究次第では変わるかもしれません。

浮世絵師・鳥山石燕に師事し、1775年頃より絵師として仕事を得るようになります。間もなく後の代名詞となる美人画も描くようになりました。さらに江戸での狂歌絵本の流行に乗って、歌麿もこれを製作。大手版元の蔦屋重三郎がついたことでその評判は大きく広まります。間もなく独自の画風で美人画を描くようになり、全身を描かない美人大首絵が大ヒットとなります。歌麿によって描かれた女性はたちまち町の有名人となっていたことからも、当時の熱狂ぶりが伝わります。
しかし、こうした盛り上がりを幕府は良しとせず、取り締まりの強化に乗り出しました。歌麿は屈することなく制作を続けますが、1804年に、禁止されていた豊臣秀吉題材の作品が原因で捕縛され、手鎖50日(手枷をはめて自宅謹慎)の処分を受けることとなります。この刑が原因となり体調が悪化。2年後亡くなりました。

開国と共に海外流出した作品も多く、それらは現在海外の有名美術館で大切に保管されています。特にアメリカのボストン美術館には300点以上が非常に良いコンディションで収蔵されています。

小杉 放庵

洋画から日本画へ転向した異色の画家、小杉放庵。西洋と東洋の双方を見た彼が描く絵は、画壇でも評価され続けました。

小杉放庵は1881年、栃木県の日光に生まれました。1896年より地元の洋画家・五百城文哉に弟子入り、1900年より上京し、小山正太郎の不同舎で学びます。当初は小杉未醒の号で活動し、漫画や小説挿絵が評判となりました。日露戦争では従軍記者として戦地に渡り、漫画や戦争画を描いています。
1910年、文展出品作が3等に入賞したのが始まりとなり、翌年には『水郷』が2等を獲得します。1913年、フランスに留学しますが、現地で目にした池大雅の作品に大きく影響され、逆に日本画への関心を高めました。帰国後は横山大観と親交があったことから、日本美術院の再興にに協力し、洋画部を主宰します。その後は友人とともに春陽会を結成し、活動の主軸を移しました。昭和になると日本画作品も多く手掛けるようになり、日本芸術院の会員を辞してからは晩年まで日本画制作に専念しています。

元来洋画に東洋的趣向を取りいれていましたが、フランス留学で、西洋にとって東洋は新しいものと見られることに気づき、その後は油絵でも日本画に近い見た目になるものを、題材も日本の古典を元にしたものが増えていきます。
代表作は『水郷』や『神橋』の他、東大安田講堂の壁画などが存在します。
1999年には故郷日光に、「小杉放庵記念日光美術館」が開館しました。

山鹿 清華

山鹿清華(本名は健吉)は京都府出身の染織で文化功労者となった方で、染織美術の草分け的存在である方です。

1885年に京都市に生まれた山鹿清華は、西陣織に従事していた四番目の兄の影響を受けて、小学校を卒業した後、西田竹雪の内弟子となります。
その傍ら、日本画も勉強をします。10年間の年期奉公後は神坂雪佳に師事し、関西図案会・新工芸院・京都図案家協会などの創立に尽くしました。
1925年にはパリ万国装飾美術工芸博で孔雀がグランプリを受賞。
1927年の帝展工芸部ではオランダ舟が特選、第7回日展に出品した無心壁掛ならびに撚糸染法の新生面開拓によって1951年には芸術院賞を受賞しました。
以後、日展審査員等も務め、1957年には芸術会員、1969年には文化功労者に選ばれました。

山鹿清華の特徴は撚糸や染など様々な染織技法の研究を続けたことで生み出した独自の手織錦による立体的な表現や、他の誰にも真似することのできない山鹿清華ならではの豊かな創造性や芸術的な感性が作品に現れております。

葛飾 北斎

『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』、彼方に見える富士を背景に、そびえ立ち崩れ落ちようとする大波と、必死に耐える小舟の姿。
浮世絵界で最も著名な人物であり、世界的にも有名な浮世絵師・葛飾北斎によって描かれたその作品は、日本文化を代表する一枚として現代でも高い評価を得ており、日常で目にする機会も少なくありません。

浮世絵師・葛飾北斎は生涯を通して制作した多くの作品が、高い評価を受けている一方で、その暮らしぶりは非常に貧しく汚れたものでした。多くの著名人に評価され、庶民の間でも人気を博し、本来なら生活に困ることもないだけの金額を稼いでいますが、金銭に対し無頓着、そして家が汚れたら引っ越すという、絵を描くことにだけ集中した偏った生活が原因であったようです。

しかし、日常生活を顧みずに持てる技能を駆使して描いたその作品は、多くの人の心を掴み、海外の芸術家にまで影響を与えました。

代表作・『富嶽三十六景』の他、『千絵の海』、『北斎漫画』、『肉筆画帖』など多くの作品が存在します。
徹底した写実表現からユーモラスあふれる漫画的な作品まで、幅広い画風で描かれた作品たちは、まさに日本美術を代表する存在といえます。

杉山 寧

戦後の日本画壇で、革新的な作風と対象を的確に描く画力が高く評価された日本画家。それが杉山寧です。

杉山寧は1909年、東京浅草に生まれました。東京美術学校日本画科に進学後は、日本画の革新運動にも加わりました。在学中には帝展で入選も果たしています。1933年美術学校を卒業し、34年には第一回日独交換留学生としてドイツ・ベルリンへ渡ります。しかし1938年に罹った肺結核により、療養のため制作活動を中止します。
第二次大戦後m、体調が回復したことで復帰。1947年の日展では特選を受賞。3年後には日展審査員に就任しました。以後は精力的に制作に取り組み、1957年には日本芸術院賞受賞、1974年には文化勲章受章と数々の功績を残しています。また1956年から約30年間、雑誌『文藝春秋』の表紙絵を描いています。1991年には東京都名誉都民にも選出されますが、2年後84歳で亡くなりました。

戦後の作品は従来の日本画にはない題材、古代エジプトや抽象画などを描き、同時代に活躍した東山魁夷や髙山辰雄と並び「日展三山」と呼ばれています。

河鍋 暁斎

狩野派絵師でありながら多くの浮世絵も描いた絵師・河鍋暁斎。幕末から明治へと向かう動乱の時代の中で、実力を発揮し、高い評価を得た人気絵師です。 暁斎は1831年に下総(現在の茨城)で生まれました。翌年は家族で江戸に移り、以 …

石川 晴彦

石川晴彦は昭和後期まで活躍した画家で、仏画を多く手掛けたことで知られております。 京都に生まれた石川晴彦は、1914年に京都市立美術工芸学校絵画部に入学するも、1918年に中退し上京を志した矢先に京都で第1回国画展に感銘 …

上村 松園

上村松園は近代日本画家の中でも珍しい、女流画家として活躍した人物です。彼女によって描き出される凛とした佇まいの女性の姿は、追求し続けた「真・善・美の極致に達した本格的な日本画」の姿を現在に伝えています。 松園は1875年 …

山口 蓬春

山口蓬春は大正から昭和時代に活躍した日本画家です。 1893年に北海道に生まれた山口蓬春は、1903年に父親の転勤に伴って上京し中学生の時に白馬研究会で洋画を学んでいました。東京美術学校西洋学科に入学した後は、入学の翌年 …

中川 一政

中川一政は、東京都に生まれた洋画家で、洋画だけでなく美術家、歌人、随筆家としても活躍したことで有名です。 独学で洋画を勉強した中川一政は21歳の時に最初に描いた作品である「酒倉」を巽画会展に出品したところ、岸田劉生に認め …

正岡 子規 

「柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺」奈良・法隆寺の秋を詠った有名な俳句、この一句を詠んだのが俳人・正岡子規です。 子規は1867年に、伊予国(現愛媛県松山市)で松山藩士の長男として生まれました。幼い頃から漢詩や書画を好んだ …

木庵禅師 書 軸

木庵 性瑫

木庵性瑫は、1655年に明から日本へと渡った黄檗宗の僧侶です。 1611年に現在の中国福建省で生まれ、16歳のころ出家しました。その後は大陸各地を巡りつつ修行を行い、1648年、黄檗山にて隠元隆琦に学びます。 1655年 …

松花堂 昭乗

寛永の三筆、近衛信尹・本阿弥光悦と並ぶ能書家、松花堂昭乗。書だけでなく絵画・茶道にも秀でた文化人です。 1582年、和泉国堺に生まれ、1593年には同じ三筆の一人、公卿・近衛信尹に仕えました。1598年に出家し石清水八幡 …

福田 平八郎

福田平八郎は、大分県に生まれた日本画家です。 代表作である漣は昭和天皇と一緒に魚釣りをした際の作品として知られています。文具屋に生まれた福田平八郎は、幼少のころから絵を描くことが好きで数学が苦手で中学校を落第してしまった …

池田 遙邨

池田遙邨は文化功労者として表彰を受けた日本画家です。 岡山県に生まれた池田遙邨は、幼少期より画才があり父親の転勤に伴い大阪へ転居した後に洋画家の松原三吾郎の天災画塾に入門し、洋画を学びました。 1914年に第8回の文展に …

尾形 光琳

尾形光琳は17世紀後半~18世紀にかけて京都や江戸で活躍した琳派の大成者として知られる絵師です。 雅で優雅な伝統を感じさせる大和絵的な描写の中に斬新で大胆な構図や画面展開を取り入れた明瞭でかつ装飾的にもかかわらず革新的な …

鏑木 清方

鏑木清方は近代日本の美人画家として上村松園や彼の門下生である伊藤深水と並び称される美人画の名手として必ず名前の挙がる人物です。 東京に生まれた鏑木清方は13歳の時に水野年方に入門し、挿絵画家として創作活動をスタートさせま …

山川 秀峰

山川秀峰は美人画を得意としている日本画家であり、寺島紫明や伊藤深水とともに鏑木清方に学び、清方門下三羽烏の一人として知られております。 山川秀峰は京都府に生まれ、3歳の時に東京に移り、模様師であった父・玄次郎に連れられて …

源 朝臣

源朝臣は、村上天皇から枝分かれした氏族で、姓を朝臣(あそん)といいます。 源氏(みなもとうじ)は、二十一流派があると言われており、その中で特に格が高いのは、村上源氏(源朝臣)であります。朝臣(あそん)とは、天武天皇が68 …

菱田 春草

横山大観と共に近代日本画の革新に取り組んだ菱田春草。若くして亡くなったため活躍した期間は短いですが、その評価は今なお高いものとなっています。 1874年、長野県の飯田に生まれ、1890年に東京美術学校に入学します。在学中 …

伊達 政宗

「独眼竜 伊達政宗」といえば歴史に詳しくない方でも聞いたことがあるのではないでしょうか? 伊達政宗は戦国大名として圧倒的な知名度を誇る人物です。戦国時代を戦い抜き、江戸幕府のもとでは仙台藩藩主として領国を治め発展させまし …

北野 恒富

北野恒富は関西画壇の中心人物として活躍した近代の日本画家です。 幼い頃より絵を描き、小学校卒業後の1892年、版画制作業者の元で木版画を学びます。また同時に南画も学んでいました。その後は様々な木版画彫刻師に学びますが、間 …

川喜田 半泥子

川喜田半泥子(本名・久太夫政令)は三重の実業家ですが、趣味であった陶芸作品が高く評価され、今なお高い人気を誇る人物です。 半泥子は1878年、伊勢の豪商の16代目として生まれました。生後間もなく祖父・父が相次いで亡くなり …

酒井 抱一

「酒井抱一」は江戸琳派を代表する絵師で俳人の一人です。尾形光琳に私淑し琳派の雅な画風と俳味を取り入れた詩情ある洒脱な画風に翻弄したことでとても人気となり、江戸時代琳派の祖となった人物です。 酒井抱一は、1761年、姫路藩 …