江月 宗玩

江月宗玩(こうげつ そうがん)は、安土桃山時代から江戸時代前期に生きた臨済宗の僧です。

1574年、堺の豪商であった津田宗及の子として生まれます。津田宗及は織田信長や豊臣秀吉に仕えた茶人であり、天王寺屋とともに名の知られた商人でした。

大徳寺の僧・春屋宗園に幼少の頃より法を学び、15歳で剃髪して宗玩を名乗りはじめます。
三十代半ば頃の1610年に、京都の大徳寺の156世住持(管理人)となります。
その翌年には春屋の死去を受けて京都の大徳寺の塔頭・龍光院を受け継ぎ、事実上の開祖ともなりました。翌年の1612年には小堀遠州とともに龍光院内に孤篷庵(こほうあん)を開山します。龍光院と孤篷庵の開山には、筑前福岡藩初代藩主・黒田長政の援助がありました。

宗玩は大徳寺に名を残す禅僧であり、また一流の文化人として知られています。茶を父の津田宗及や小堀遠州に学び、宗玩の書は茶掛として流行しました。茶に関しては、松花堂昭乗とも深い親交があったとして知られております。

裏千家十五代 汎叟宗室 鵬雲斎

鵬雲斎(汎叟宗室)は、茶道三千家の一つ・裏千家家元の十五代目です。

父・裏千家十四代家元の碩叟宗室(淡々斎)の長男として生まれ、十五代目家元を襲名し活躍したのち、現在は自身の長男・玄黙宗室(坐忘斎)に家元を継承しています。

第二次世界大戦時に海軍少尉だった彼は、特別攻撃隊に志願するも、出撃を前に終戦を迎えました。戦争の経験を通じて、茶道の精神である「和敬清寂」、もとい茶道という文化が平和につながる道であると心得た鵬雲斎は、国内外での茶道の普及活動を始めました。

1951年、ハワイに初の裏千家海外支部が発会したのを皮切りに、現在ではアジア、ヨーロッパ、北米など広く裏千家のネットワークが形成されております。鵬雲斎の唱えた「一盌からピースフルネスを」という標語のもと、世界中に茶道の精神が発信されているのです。

鵬雲斎の作る多彩な茶道具は伝統的でありながら華やかで、茶道の意匠と万人に通じる美が体現された、まさしく世界に浸透するものだと言えるでしょう。

頼 山陽

頼 山陽は、江戸時代後期の日本を代表する歴史家であり、漢詩人、漢学者です。

1780年大阪江戸堀で広島出身の儒家であった頼春水(しゅんすい)の長男として生まれます。
翌年、1781年には広島藩藩儒に就任した頼山春水とともに広島に移住します。
多忙な父春水は度重なる江戸勤番によって家族は10年以上別居状態だったといわれています。
その間に、頼山陽は母である梅颸(ばいし)や叔父である頼杏坪(きょうへい)の教育を受け、詩文の才能に目覚めますが、頼山陽は精神的に不安定な上、病弱で何度も発作を起こしました。
1797年頼山陽は江戸幕府直轄の学校へ入学しますが、約1年で広島に戻り、2年後には儒医者の父を持つ淳という娘と結婚しました。しかし、翌年には脱藩をはかり京都へ逃げました。
頼家が一生懸命捜索し、叔父であった頼春風(しゅんぷう)に見つかり、広島へ戻され5年間、屋敷内の座敷牢へ幽閉されました。

5年間の謹慎の中で頼山陽は、自身の没後ベストセラーとなった源平時代からはじまる武家興亡の歴史をテーマとした『日本外史』の初稿を完成させます。

謹慎が解けた後は広島の私塾で塾頭を務めたのち、1811年に三都(京都、大阪、江戸)に進出して天下に名を上げるとして私塾を辞め、京都に向かいます。京都で自ら私塾を開き、友人の小石元瑞(げんずい)の養女であった梨影(りえ)と出会い再婚。ようやく安定した日々を送ります。

『日本外史』のさらなる深掘りに取り組む一方、後藤松蔭をはじめとする優秀な弟子を育て、さらに九州を周っては多くの知識を吸収し、多くの優れた詩文や書画を残しました。
1826年には20年以上歳月をかけた日本外史がついに完成し、翌年には元老中松平定信への献上に成功。その後1832年に結核にかかってしまい、53歳という若さでこの世を去りました。

山中 静逸(信天翁)

山中静逸(やまなか せいいつ)は愛知県碧南市出身の南画家、書家、政治家であり号を静逸または信天翁(しんてんおう)としました。

また、富岡鉄斎(とみおか てっさい)の生涯の友として知られる人物です。

山中静逸は1822年に愛知県碧南市に山中子敏(やまなか しびん)の二男として生まれます。父の山中子敏も文人であり画家でした。また、実家は東浦村の大地主で裕福な家庭だったといわれています。

幼少時代から大阪に出て篠崎小竹(しのざき しょうちく)に学んだが、1847年に父である山中子敏が亡くなり、家業を継ぎ寺子屋を開きました。
しかし、京都に出て国事に奔走していた二男である弟の死をきっかけに山中静逸は三男の弟に家業を継ぎ、漢学を学ぶため上京し朱子学者であった斎藤拙堂(さいとう せつどう)に学びます。
三年後には国事に尽くす為、京都に向かい梁川星巌(やながわ せいがん)、梅田雲浜(うめだ うんぴん)、頼三樹三郎(らい みきさぶろう)らと交わり、国事に尽力しました。
この頃に生涯の友となる富岡鉄斎と出会います。
安政の大獄では多くの同志を失い、難を逃れて身を隠し、幕政改革に奔走した。

明治維新後には岩倉具視(いわくら ともみ)とも親交を深め、1868年の鳥羽伏見の戦いでは、朝廷側の食料や軍事費の調達する役目を担い、明治天皇の東京遷都の際には御用掛も勤めました。
明治新政府となり、1869年に岩手県知事、1870年には宮城県知事と歴任しました。

京都で学者、詩人、画家としても活躍し南画においては日本国内のみならず海外でも高く評価されました。1873年すべての官職から引退、京都の下加茂に住み、文芸の道を楽しみました。
1885年に64歳の生涯を終え、明治政府より正五位を受け、1913年には従四位を受けました。

十三代 徳翁宗守 有隣斎

十三代 徳翁宗守 有隣斎は武者小路千家十三世家元です。

名は宗守、号は有隣斎・徳翁・宗安などで、聴松宗守に師事しています。

1913年に生まれ、第三高等学校をへて京都帝国大学文学部に進み国史学を専攻し、卒業後も大学院で日本文化史の研究に当たりました。

卒業後に武者小路千家12代聴松宗守(愈好斎)の娘千澄子と結婚、12代聴松宗守には息子がいなかった為婿養子となり、53年に13世宗守を襲名しています。

大学で学んだ知識を活かし、51歳で国内初となる茶道専門学校「千茶道文化学院」を開校、翌年には財団法人官休庵を設立させます。

大学での経験や学力、知識を持ち、茶儀に自らの学識を活かすなど聴松宗守と同じく学究肌の茶匠でした。

1983年の秋、古稀を境に徳翁の号を受け、1989年76歳の時に家督を長男に譲り、自身は宗安の号を襲名し隠居しました。

自分の意見を曲げず常に高みを目指し続け、茶道界において大変貴重な存在でありましたが86歳で逝去。著書に「利休とその道統」「新修茶道妙境」「茶花十講」などがあります。

大綱 宗彦

大綱宗彦は江戸時代後期の臨済宗の僧侶です。

安永元年京都に生まれ、6歳の時に大徳寺黄梅院、融谷宗通の下で得度を受け臨済宗大徳寺派の僧侶となりました。

臨済宗は仏の道を説くとともに茶の湯や書画をたしなむことを奨励した宗派であり、大網宗彦も茶の湯に造詣が深く、表千家の10代千宗左、裏千家の11代千宗室といった茶人らとも交流を持っていました。

他にも詩歌・書画に優れ、和歌は武者小路公隆に学び、千種有功や高松公祐、清水谷公正、賀茂季鷹らと親交し、生涯に2万余首の詠歌と3千数百の詩偈を作ったとされています。

師の跡を継ぎ黄梅院14世となった後、文政3年49歳の時に勅を奉じて開堂し大徳寺430世となりました。

晩年まで詩歌や書画、茶の湯を楽しむ悠々自適な日々を送っており、安政7年に89歳で示寂しました。

竹田 益州

 竹田 益州は昭和を代表する臨済宗の僧侶です。法諱は宗進、道号は益川、室号は金剛窟です。   1896年大分で生まれ、尋常小学校3年の時近くの施恩寺という禅寺に5、6日滞在したことが縁となり、1906年に滋賀県大津市堅田 …

田能村 竹田

田能村竹田は、豊後国岡藩(大分県竹田市)出身の南画家です。 1777年に生まれ、実家は岡藩主のお抱えの医者の家系でした。しかし生まれつき体の弱かった竹田は、22歳の時に藩主から医者の道に進まなくてもよいと言われ、学問の道 …

木庵禅師 書 軸

木庵 性瑫

木庵性瑫は、1655年に明から日本へと渡った黄檗宗の僧侶です。 1611年に現在の中国福建省で生まれ、16歳のころ出家しました。その後は大陸各地を巡りつつ修行を行い、1648年、黄檗山にて隠元隆琦に学びます。 1655年 …

伊藤 若冲

伊藤 若冲は「動植綵絵」で現代になってから人気が爆発したとてもめずらしい絵師です。 江戸時代中期に京都の青物問屋「桝源」の長男として生まれ、その時は8代将軍徳川吉宗の財政改革(享保の改革)により幕府の財政を立て直し、町衆 …