愛新覚羅 溥傑

愛新覚羅 溥傑は、清・満洲国の皇帝である愛新覚羅溥儀の同母弟です。
ラストエンペラーの実弟として、波乱万丈な生涯を歩みました。

皇帝一族である愛新覚羅家は、その政治的・歴史的な役割のほかにも書家として高名です。
書の格と政治的な格とが繋がる文化を背景に、各々が一族の上の存在から書を学びました。またその後生涯において政治的な活動を行う上で、書を記す行為はずっと続いたことでしょう。
その取り組みの中で、それぞれの型が醸成され評価されるものとなりました。

愛新覚羅溥傑の書は、流れる水のようなフォルムが特徴的です。
溥傑の遺した書をもとに、『相依為命体(そういいめいたい)書体』としてフォント化もされております。
溥傑は波乱曲折の人生を得て、日中友好に大きく貢献しその生涯を閉じます。
一言では言い表せない壮絶な人生のなかで、その美しいどこか淡々とした風情の書を書き残した愛新覚羅溥傑。その作品は、氏の人生や歴史を感じることによって、より一層想い深く鑑賞されるものでしょう。

表千家十四代 而妙斎

千宗左而妙斎は、茶道表千家十四代家元です。

表千家とは、千利休を祖とする茶道流派の一つです。裏千家・武者小路千家と共に茶道三千家とも呼ばれる、茶道では大変有名な流派となります。

而妙斎(幼名:岑一郎)は1938年、そんな表千家の十三代家元・即中斎の長男として生まれます。
1967年に大徳寺の方谷浩明老師から「而妙斎」の斎号を与えられて、宗員となりました。1980年の先代・即中斎の逝去に伴って、翌年1981年に表千家家元十四代宗左を襲名します。1990年の利休400年忌を迎えるにあたっては而妙斎が亭主となり、三千家合同でお茶会が行われました。

2000年には芸術文化分野において優れた業績を残した者に与えられる紫綬褒章を受章します。

その後2018年に長男・猶有斎に家督を譲り、自身は隠居します。昭和から平成にかけて表千家を発展させた方として、広く名が知られております。美術品だと、茶道具の書付などで見かける場面が多いかもしれません。

呉 清源

呉清源は、昭和期に日本で活躍したプロの囲碁棋士です。その活躍から「昭和の棋聖」とも呼ばれております。

生まれは1914年の中国福建省、その後は北京で過ごし、幼少の頃より父から囲碁を教わっていました。非凡な実力はこの頃から発揮され、北京で天才少年として話題になっていました。
日本に招待されるような形で1928年に来日し、瀬越憲作名誉九段に入門しました。翌年には三段の段位が認められるなど、実力は日本棋院においても発揮されました。1933年に五段となった呉は、同じく五段で新進気鋭の棋士であった木谷實とともに布石の研究を行い、実践に用います。この時の中央・速度を重視する布石法が「新布石」として大きな話題となりました。その後も鎌倉十番碁、日本最強決定戦などで卓越した活躍を見せ、1950年には九段に推挙されます。

しかし1961年、オートバイとの接触事故で右足と腰の骨折し、その後遺症で以後は思うような活躍が出来なくなっていきました。年齢もあり、1983年には引退を決意します。
晩年、本人は日本棋院からの囲碁殿堂入りを断り続けましたが、死去後の2015年に遺族の許可のもと囲碁殿堂にノミネートしております。

呉は棋士でありながら、書画を多く残しています。高名で人気の高い人物であるため、その作品は多くのコレクターから人気を集めております。

江月 宗玩

江月宗玩(こうげつ そうがん)は、安土桃山時代から江戸時代前期に生きた臨済宗の僧です。

1574年、堺の豪商であった津田宗及の子として生まれます。津田宗及は織田信長や豊臣秀吉に仕えた茶人であり、天王寺屋とともに名の知られた商人でした。

大徳寺の僧・春屋宗園に幼少の頃より法を学び、15歳で剃髪して宗玩を名乗りはじめます。
三十代半ば頃の1610年に、京都の大徳寺の156世住持(管理人)となります。
その翌年には春屋の死去を受けて京都の大徳寺の塔頭・龍光院を受け継ぎ、事実上の開祖ともなりました。翌年の1612年には小堀遠州とともに龍光院内に孤篷庵(こほうあん)を開山します。龍光院と孤篷庵の開山には、筑前福岡藩初代藩主・黒田長政の援助がありました。

宗玩は大徳寺に名を残す禅僧であり、また一流の文化人として知られています。茶を父の津田宗及や小堀遠州に学び、宗玩の書は茶掛として流行しました。茶に関しては、松花堂昭乗とも深い親交があったとして知られております。

裏千家十五代 汎叟宗室 鵬雲斎

鵬雲斎(汎叟宗室)は、茶道三千家の一つ・裏千家家元の十五代目です。

父・裏千家十四代家元の碩叟宗室(淡々斎)の長男として生まれ、十五代目家元を襲名し活躍したのち、現在は自身の長男・玄黙宗室(坐忘斎)に家元を継承しています。

第二次世界大戦時に海軍少尉だった彼は、特別攻撃隊に志願するも、出撃を前に終戦を迎えました。戦争の経験を通じて、茶道の精神である「和敬清寂」、もとい茶道という文化が平和につながる道であると心得た鵬雲斎は、国内外での茶道の普及活動を始めました。

1951年、ハワイに初の裏千家海外支部が発会したのを皮切りに、現在ではアジア、ヨーロッパ、北米など広く裏千家のネットワークが形成されております。鵬雲斎の唱えた「一盌からピースフルネスを」という標語のもと、世界中に茶道の精神が発信されているのです。

鵬雲斎の作る多彩な茶道具は伝統的でありながら華やかで、茶道の意匠と万人に通じる美が体現された、まさしく世界に浸透するものだと言えるでしょう。

頼 山陽

頼 山陽は、江戸時代後期の日本を代表する歴史家であり、漢詩人、漢学者です。

1780年大阪江戸堀で広島出身の儒家であった頼春水(しゅんすい)の長男として生まれます。
翌年、1781年には広島藩藩儒に就任した頼山春水とともに広島に移住します。
多忙な父春水は度重なる江戸勤番によって家族は10年以上別居状態だったといわれています。
その間に、頼山陽は母である梅颸(ばいし)や叔父である頼杏坪(きょうへい)の教育を受け、詩文の才能に目覚めますが、頼山陽は精神的に不安定な上、病弱で何度も発作を起こしました。
1797年頼山陽は江戸幕府直轄の学校へ入学しますが、約1年で広島に戻り、2年後には儒医者の父を持つ淳という娘と結婚しました。しかし、翌年には脱藩をはかり京都へ逃げました。
頼家が一生懸命捜索し、叔父であった頼春風(しゅんぷう)に見つかり、広島へ戻され5年間、屋敷内の座敷牢へ幽閉されました。

5年間の謹慎の中で頼山陽は、自身の没後ベストセラーとなった源平時代からはじまる武家興亡の歴史をテーマとした『日本外史』の初稿を完成させます。

謹慎が解けた後は広島の私塾で塾頭を務めたのち、1811年に三都(京都、大阪、江戸)に進出して天下に名を上げるとして私塾を辞め、京都に向かいます。京都で自ら私塾を開き、友人の小石元瑞(げんずい)の養女であった梨影(りえ)と出会い再婚。ようやく安定した日々を送ります。

『日本外史』のさらなる深掘りに取り組む一方、後藤松蔭をはじめとする優秀な弟子を育て、さらに九州を周っては多くの知識を吸収し、多くの優れた詩文や書画を残しました。
1826年には20年以上歳月をかけた日本外史がついに完成し、翌年には元老中松平定信への献上に成功。その後1832年に結核にかかってしまい、53歳という若さでこの世を去りました。

大綱 宗彦

大綱宗彦は江戸時代後期の臨済宗の僧侶です。 安永元年京都に生まれ、6歳の時に大徳寺黄梅院、融谷宗通の下で得度を受け臨済宗大徳寺派の僧侶となりました。 臨済宗は仏の道を説くとともに茶の湯や書画をたしなむことを奨励した宗派で …

竹田 益州

 竹田 益州は昭和を代表する臨済宗の僧侶です。法諱は宗進、道号は益川、室号は金剛窟です。   1896年大分で生まれ、尋常小学校3年の時近くの施恩寺という禅寺に5、6日滞在したことが縁となり、1906年に滋賀県大津市堅田 …

田能村 竹田

田能村竹田は、豊後国岡藩(大分県竹田市)出身の南画家です。 1777年に生まれ、実家は岡藩主のお抱えの医者の家系でした。しかし生まれつき体の弱かった竹田は、22歳の時に藩主から医者の道に進まなくてもよいと言われ、学問の道 …

木庵禅師 書 軸

木庵 性瑫

木庵性瑫は、1655年に明から日本へと渡った黄檗宗の僧侶です。 1611年に現在の中国福建省で生まれ、16歳のころ出家しました。その後は大陸各地を巡りつつ修行を行い、1648年、黄檗山にて隠元隆琦に学びます。 1655年 …

伊藤 若冲

伊藤 若冲は「動植綵絵」で現代になってから人気が爆発したとてもめずらしい絵師です。 江戸時代中期に京都の青物問屋「桝源」の長男として生まれ、その時は8代将軍徳川吉宗の財政改革(享保の改革)により幕府の財政を立て直し、町衆 …