裏千家十二代 直叟玄室 又玅斎

茶道裏千家十二代 直叟玄室 又玅斎についてご紹介致します。

角倉玄寧の子として生まれ、裏千家十一代・玄々斎の婿養子となった人物です。
十三代・円能斎の父に当たります。

 

又玅斎は20歳で家督を継ぎ、32歳で引退しております。
時代は明治初期、明治新政府が近代化を推し進める流れの中で、茶道は陰りをみせていました。苦悩の多い時代に家督を継いだ又玅斎でしたが、先代の玄々斎とともに裏千家、引いては茶の湯の権威を保つことにつとめました。

息子・円能斎に家督を譲った後も畿内で茶人を育て、地方に茶を普及するなど円能斎以降の裏千家隆盛に側面から寄与しました。

 

又玅斎の好み物(茶人が職人に意を伝え、制作を依頼した茶道具)として有名なものには、「住吉釜」が挙げられます。
名が示す通り、こちらは住吉大社に伝わる釜に倣った作品となります。釜の絵は又妙斎自身が描いていることでも知られています。

そのほかの好み物や、自身で制作した「茶杓」や「茶掛」といったお品物も裏千家家元作品として高い評価を持ちます。

 

 

表千家十二代 敬翁宗左 惺斎

茶道表千家十二代 敬翁宗左 惺斎についてご紹介致します。

十一代・碌々斎の子であり、十三代・即中斎の父に当たります。

主な功績としては、大正期の茶道再建の立役者となったことが挙げられます。

 

明治維新後の時代に家督を継承された方となりますが、この頃は茶道が衰退の時期にありました。その中で惺斎は、九代了々斎七十回忌をはじめとして茶事や献茶を続けて行い、傾きかけた茶道文化を毅然として立ち直らせました。
1906年には火災で焼失してしまった家元の茶室の再建も行っており、大正期の表千家の隆盛に貢献しました。

 

他代と同様、好み道具や茶道具の書付でその名を見かけることが多いかもしれません。
惺斎の好み道具は幅広く、数もかなりございます。十職に限らず様々な産地の焼き物が取り入れられており、その意味で地方国焼の育成に寄与した人物だと言えます。

 

愛新覚羅 溥傑

愛新覚羅 溥傑は、清・満洲国の皇帝である愛新覚羅溥儀の同母弟です。
ラストエンペラーの実弟として、波乱万丈な生涯を歩みました。

皇帝一族である愛新覚羅家は、その政治的・歴史的な役割のほかにも書家として高名です。
書の格と政治的な格とが繋がる文化を背景に、各々が一族の上の存在から書を学びました。またその後生涯において政治的な活動を行う上で、書を記す行為はずっと続いたことでしょう。
その取り組みの中で、それぞれの型が醸成され評価されるものとなりました。

愛新覚羅溥傑の書は、流れる水のようなフォルムが特徴的です。
溥傑の遺した書をもとに、『相依為命体(そういいめいたい)書体』としてフォント化もされております。
溥傑は波乱曲折の人生を得て、日中友好に大きく貢献しその生涯を閉じます。
一言では言い表せない壮絶な人生のなかで、その美しいどこか淡々とした風情の書を書き残した愛新覚羅溥傑。その作品は、氏の人生や歴史を感じることによって、より一層想い深く鑑賞されるものでしょう。

表千家十四代 而妙斎

千宗左而妙斎は、茶道表千家十四代家元です。

表千家とは、千利休を祖とする茶道流派の一つです。裏千家・武者小路千家と共に茶道三千家とも呼ばれる、茶道では大変有名な流派となります。

而妙斎(幼名:岑一郎)は1938年、そんな表千家の十三代家元・即中斎の長男として生まれます。
1967年に大徳寺の方谷浩明老師から「而妙斎」の斎号を与えられて、宗員となりました。1980年の先代・即中斎の逝去に伴って、翌年1981年に表千家家元十四代宗左を襲名します。1990年の利休400年忌を迎えるにあたっては而妙斎が亭主となり、三千家合同でお茶会が行われました。

2000年には芸術文化分野において優れた業績を残した者に与えられる紫綬褒章を受章します。

その後2018年に長男・猶有斎に家督を譲り、自身は隠居します。昭和から平成にかけて表千家を発展させた方として、広く名が知られております。美術品だと、茶道具の書付などで見かける場面が多いかもしれません。

呉 清源

呉清源は、昭和期に日本で活躍したプロの囲碁棋士です。その活躍から「昭和の棋聖」とも呼ばれております。

生まれは1914年の中国福建省、その後は北京で過ごし、幼少の頃より父から囲碁を教わっていました。非凡な実力はこの頃から発揮され、北京で天才少年として話題になっていました。
日本に招待されるような形で1928年に来日し、瀬越憲作名誉九段に入門しました。翌年には三段の段位が認められるなど、実力は日本棋院においても発揮されました。1933年に五段となった呉は、同じく五段で新進気鋭の棋士であった木谷實とともに布石の研究を行い、実践に用います。この時の中央・速度を重視する布石法が「新布石」として大きな話題となりました。その後も鎌倉十番碁、日本最強決定戦などで卓越した活躍を見せ、1950年には九段に推挙されます。

しかし1961年、オートバイとの接触事故で右足と腰の骨折し、その後遺症で以後は思うような活躍が出来なくなっていきました。年齢もあり、1983年には引退を決意します。
晩年、本人は日本棋院からの囲碁殿堂入りを断り続けましたが、死去後の2015年に遺族の許可のもと囲碁殿堂にノミネートしております。

呉は棋士でありながら、書画を多く残しています。高名で人気の高い人物であるため、その作品は多くのコレクターから人気を集めております。

江月 宗玩

江月宗玩(こうげつ そうがん)は、安土桃山時代から江戸時代前期に生きた臨済宗の僧です。

1574年、堺の豪商であった津田宗及の子として生まれます。津田宗及は織田信長や豊臣秀吉に仕えた茶人であり、天王寺屋とともに名の知られた商人でした。

大徳寺の僧・春屋宗園に幼少の頃より法を学び、15歳で剃髪して宗玩を名乗りはじめます。
三十代半ば頃の1610年に、京都の大徳寺の156世住持(管理人)となります。
その翌年には春屋の死去を受けて京都の大徳寺の塔頭・龍光院を受け継ぎ、事実上の開祖ともなりました。翌年の1612年には小堀遠州とともに龍光院内に孤篷庵(こほうあん)を開山します。龍光院と孤篷庵の開山には、筑前福岡藩初代藩主・黒田長政の援助がありました。

宗玩は大徳寺に名を残す禅僧であり、また一流の文化人として知られています。茶を父の津田宗及や小堀遠州に学び、宗玩の書は茶掛として流行しました。茶に関しては、松花堂昭乗とも深い親交があったとして知られております。

頼 山陽

頼 山陽は、江戸時代後期の日本を代表する歴史家であり、漢詩人、漢学者です。 1780年大阪江戸堀で広島出身の儒家であった頼春水(しゅんすい)の長男として生まれます。 翌年、1781年には広島藩藩儒に就任した頼山春水ととも …

大綱 宗彦

大綱宗彦は江戸時代後期の臨済宗の僧侶です。 安永元年京都に生まれ、6歳の時に大徳寺黄梅院、融谷宗通の下で得度を受け臨済宗大徳寺派の僧侶となりました。 臨済宗は仏の道を説くとともに茶の湯や書画をたしなむことを奨励した宗派で …

竹田 益州

 竹田 益州は昭和を代表する臨済宗の僧侶です。法諱は宗進、道号は益川、室号は金剛窟です。   1896年大分で生まれ、尋常小学校3年の時近くの施恩寺という禅寺に5、6日滞在したことが縁となり、1906年に滋賀県大津市堅田 …

田能村 竹田

田能村竹田は、豊後国岡藩(大分県竹田市)出身の南画家です。 1777年に生まれ、実家は岡藩主のお抱えの医者の家系でした。しかし生まれつき体の弱かった竹田は、22歳の時に藩主から医者の道に進まなくてもよいと言われ、学問の道 …

木庵禅師 書 軸

木庵 性瑫

木庵性瑫は、1655年に明から日本へと渡った黄檗宗の僧侶です。 1611年に現在の中国福建省で生まれ、16歳のころ出家しました。その後は大陸各地を巡りつつ修行を行い、1648年、黄檗山にて隠元隆琦に学びます。 1655年 …

伊藤 若冲

伊藤 若冲は「動植綵絵」で現代になってから人気が爆発したとてもめずらしい絵師です。 江戸時代中期に京都の青物問屋「桝源」の長男として生まれ、その時は8代将軍徳川吉宗の財政改革(享保の改革)により幕府の財政を立て直し、町衆 …