五代 伊藤 赤水

五代伊藤赤水(本名・窯一)は無名異焼窯元・赤水窯の代表であり、人間国宝に認定されている人物です。

1941年、四代赤水の長男として生まれ、京都工芸繊維大学窯業工芸学科を卒業し、家業を受け継ぎました。祖父である三代赤水にその技術を学び、1977年に五代目を襲名します。また1972年の日本伝統工芸展入選から始まり、国内の作品展でその実績を積み重ねていきます。1980年代になると、アメリカのスミソニアン博物館をはじめとした、海外の博物館にも作品を出品し、世界的にも知られるようになりました。

無名異焼は、原料となる酸化鉄を多く含んだ赤土を高温で焼成することでつくられ、作品は赤土の色となるものですが、五代赤水はこれを黒く変色させる「窯変」、異なる色の土を重ね、その断面で模様をつくる「練上」の技法を完成させました。

その功績と技法、そして江戸時代から続く伝統が評価され、2003年に重要無形文化財「無名異焼」保持者に認定されました。

富岡 鉄斎

富岡鉄斎は京都出身の儒学者ですが、文人画家としても近代日本の美術界に多大な功績を残した人物です。

1837年に京都の商人の家に生まれ、幼い頃から様々な学問を学びました。19歳の頃には南画や大和絵の技法も習得しています。1862年には私塾を開設し、幕末の志士たちと交流を深めています。明治維新の頃は奈良や大阪で宮司を務めますが、同時に教育者でもあり続け、後に首相となる西園寺公望の私塾、「立命館」で教員となったこともあります。

画家としての技量も非常に高く、多くの展覧会で審査員も務めています。また、1897年には田能村直入などとともに日本南画協会を設立し、南画の振興にも努めています。その作品は中国故事の深い知識と、様々な東洋画法を駆使した独創的な表現で、後に「仙境図」と呼ばれるようになります。

鉄斎自身は自分の本職は儒学者であるとし、「万巻の書を読み万里の路を行く」という言葉の通り、各地を旅し、多くの文物に触れています。その姿はまさに「最後の文人」と呼ぶにふさわしいものでした。

島岡 達三

島岡達三は「縄文象嵌」の人間国宝となっている益子焼の陶芸家です。

1919年に東京愛宕の組紐師である父の元に生まれますが、高校生時代に訪れた日本民藝館で、濱田庄司や河井寛次郎の作品に惚れ込みます。こうして陶芸家になることを決意し、東京工業大学窯業学科に入学しました。

在学中に太平洋戦争で出征しますが、なんとか生き延び、復員後は栃木県益子町へ移住し濱田庄司の門下となります。濱田の指導を受けた後は栃木県の窯業指導所に勤務し、縄文土器の復元などにも携わっています。この経験が代表的な独自技法「縄文象嵌」の考案へ繋がります。

乾燥前の生地に組紐で模様をつけ、その窪みに象嵌を施すことで完成する縄文象嵌。父の組紐技術と、縄文土器に触れることができた達三ならではの発明といえます。

この技術のおかげで1996年には重要無形文化財「民芸陶器(縄文象嵌)」の保持者に認定されました。

加納 夏雄

加納夏雄は幕末明治の日本で、その高い技術を駆使し活躍した金工師です。

1828年、京都の米屋に生まれますが、間もなく刀剣商・加納治助の養子となりました。身近にあった刀剣の中でも鍔や柄の美しさに魅かれ、自分で作ることを試みるようになります。12歳の頃には彫金師・奥村庄八のもとへ弟子入りし、彫金技法をみにつけました。さらに円山派の絵師・中島来章のもとで絵画も学んでいます。19歳で独立し、25歳になると江戸へ移り店を出します。武士の時代ということもあり、優美で緻密な刀装具はたちまち人気となり、多くの弟子も持ちました。

しかし明治維新により江戸幕府は新政府へ代わり、武士の時代も終わりを告げます。刀の需要が激減したことで、多くの金工師や鎧職人が廃業せざるをえなくなりました。そんな中、加納は新政府より新しい貨幣の原型制作を依頼されます。このとき作った試鋳貨幣があまりに出来が良く、イギリスでの製造予定が急きょ取り止めになったのは有名な逸話の一つです。こうして得た貨幣制作や、注文が続いた根付などの制作依頼により、加納は廃業とは無縁でした。さらに万国博覧会や内国勧業博覧会で展示した作品が評判となり、その名は海外までひろまっていきます。

1890年には第一回帝室技芸員に選抜され、名実ともに日本金工師の最高峰となります。また同時に東京美術学校調金科教授にも着任し、後進の金工師の育成にもつとめました。

文明開化で調金工芸が潰えそうになる中で、後世にその技術を残した功績は非常に大きなものであるといえます。

羽田 登喜男

羽田登喜男は「友禅」の人間国宝に認定された、友禅染を代表する着物作家です。

1911年石川県金沢市に生まれ、1925年から本場の加賀友禅の技法を学びました。1931年には京都へうつり、今度は京友禅を学びます。1937年に独立し、京都市上京区に自らの工房を構えました。その作品は数々の作品展で受賞し、海外でも人気となります。1988年に人間国宝に認定されたのちも精力的に制作に取組み、フランスの美術館にて特別展も開催しています。

加賀友禅に京友禅をあわせた独自の作風から、「羽田友禅」と呼ばれることもあります。特に人気の鴛鴦(おしどり)の図案では、「鴛鴦一羽100万円」とまでいわれたこともありました。鴛鴦以外にも、四季の風景や野に咲く草花を題材に制作を行っています。

羽田家はその後も代々その技術を受け継ぎ、現在も羽田工房として制作活動を行っています。

富本 憲吉

富本憲吉は「色絵磁器」で人間国宝に認定された陶芸家です。

1886年に奈良・生駒の地主の家に生まれました。東京美術学校へ進学し、建築・室内装飾を学びます。在学中にロンドンへ留学し、西洋の芸術に直に触れることとなりました。帰国後は建設会社に入りますが、すぐに退職します。

そんな時、来日していたイギリスの陶芸家 バーナード・リーチに出会います。ロンドン留学のおかげで英語が堪能だったことから親交を深めていき、同時にリーチに影響され陶芸に興味をもちました。まもなく実家に簡単な窯をつくり、自ら作陶を始めます。数年後には窯を本格的なものに改め、独学で制作を続けました。各地の窯場を巡りながら研究する過程で、ついには陶器より難しい磁器の作成にも成功します。

1926年に東京・祖師谷に移り住み、白磁や染付の制作が主体となりました。1936年になると久谷の色絵磁器の制作に取り組みます。1944年には東京美術学校教授となりますが、戦後間もなくこれを辞し京都へ移ります。この頃編み出した独自技法「金銀彩」は、色絵と同時に金・銀も焼きつけるもので、晩年の金銀彩と色絵を組み合わせた華麗な作品は、現在も高く評価されています。

1955年、重要無形文化財保持者の認定制度が成立後、最初に認定された日本初の人間国宝の一人となっています。

今泉 今右衛門

今泉今右衛門の色絵磁器は、江戸期の美意識と品格を今に伝えており手仕事による 技術は轆轤、染付の線引き・濃み、柞灰により釉薬、松木の薪による窯焚き、 また、赤絵(赤・黄・緑の上絵)の調合や技術により高い評価を受け、国の重要 …

金重 陶陽

ここでは、備前焼と金重陶陽の作品の特徴について説明します。  備前焼の土は大きく分けて干寄せとよばれる田土と山土があり、田土の特徴としては粘りが強く可塑性が高い土として知られています。  水田を3mほど掘ると出てくる黒い …

酒井田柿右衛門

ここでは、酒井田柿右衛門の伝統と作品の特徴についてご紹介致します。 17世紀に酒井田喜三右衛門が赤絵の焼成を成し遂げ、初代酒井田柿右衛門を 名乗ります。 柿右衛門の作品は白い美「濁手(にごしで)」が非常に特徴的です。 佐 …

川合 玉堂

川合玉堂(本名・芳三郎)は、近代日本画壇の重鎮として日本画界をけん引した人物です。 玉堂は1873年に岐阜県に生まれます。少年時代から描く事を好み、画家・青木泉橋夫妻にもその才を認められています。1887年、青木の紹介状 …

横山 大観

近代日本画の巨匠として名をはせた横山大観、その作品は現在も日本画の代表として世界中で高く評価されています。 大観(本名・秀松)は1868年に水戸藩士・酒井捨彦の長男として生まれました。幼い頃から絵に興味をもち、洋画家から …

竹内 栖鳳

竹内栖鳳は、横山大観と並び近代日本画の大家として、非常に有名な人物です。 1864年、京都二条城にほど近い料理屋の長男として生まれました。1877年に四条派絵師の元で絵を学ぶようになり、1881年には川合玉堂や上村松園の …