画家の難波田 史男は、1941年に東京都で生まれました。
抽象画家・難波田 龍起の次男として生まれ、早くから非凡な才能を見せていました。
画家を志して文化学院美術科に入学し、池田満寿夫、村井正誠、山本蘭村らに学びますが、教育方針に馴染めず中退してしまいます。その後は早稲田大学第一文学部(美術専攻)に通い、本格的に画家の活動を始めると、個展などで発表を続けました。
1970年以降は活動の傍ら旅行をするようになりましたが、1974年の九州旅行の帰路にてフェリーから転落し、亡くなりました。
難波田の子供のなぐり描きのような淡く激しい空想世界からは、のびのびとした自由なイメージと同時に、作家自身の内にある孤独な葛藤も感じさせます。
文学や音楽を愛し、自室でレコードをかけながら表現された作品は震えるような線と透明感・湿潤さを兼ね備えた色彩が特徴です。
32歳という若さでこの世を去りますが、「夭折の画家」「青春の画家」として現在も根強い人気を誇ります。2008年には膨大な日記からの抄録(『終着駅は宇宙ステーション』幻戯書房)が刊行されており、その思索と制作に新たな注目が集まっています。
池田俊彦(いけだ としひこ)は、銅版画ならではの点描を駆使した緻密な表現方法は圧倒的で、制作活動初期より「永遠に生き老い続ける不死者達」をテーマに作品を描いております。
1980年東京都出身の池田氏が銅版画の魅力に出会ったのは、江戸川乱歩の本の表紙に描かれている「多賀新」という作家の作品を見た時でした。その美しい世界に魅了され、芸術の世界へと歩み始めました。以後、美術大へと進みますが専攻は油絵で、どうしても銅版画への想いを諦めきれず東京藝術大学大学院美術研究科(版画研究室)へと更に歩んでいきます。
卒業後は欧州へ足を運び、自身の芸術的感性を高めていきます。その後は賞を受賞したり、個展を開催したりと更に活躍の場を広げています。
今井 俊満は、日本とパリを拠点に活躍した画家です。
1940〜50年代にフランスを中心に起こった芸術運動「アンフォルメル」の中心的人物として知られています。
1928年に京都で生まれ、1941年に上京して「旧制武蔵高等学校尋常科」に入学しました。
在学中に絵を描き始め、荻太郎、梅原龍三郎、安井曾太郎などに師事しました。
高校卒業後はフランスへ私費留学し、アンフォルメル運動に参加しながら独自の抽象表現を追求。以降も数々の受賞歴を重ね、前衛的な作風で注目を集めます。
1980年代には日本の伝統美を取り入れた「花鳥風月シリーズ」を発表し、華麗で色彩豊かな表現を展開しました。
晩年には「ヒロシマシリーズ」「コギャルシリーズ」など、社会的テーマや現代文化を題材にした作品を制作して成熟した技術と独自の表現力を示しました。
今井は多彩な作風で世界的に高く評価され、日本美術史に大きな足跡を残しています。
カミーユ・ピサロは、印象派の代表的な画家です。
ピサロは、1830年にセント・トーマス島で金物屋の家に生まれました。
1855年に画家を志してパリへ移り、アカデミー・シュイスに通いはじめます。
数年後には、パリに出てきたモネやセザンヌ、ギヨマンと交流を深めました。
1859年のサロンに、『モンモランシーの風景』が初入選。
その後もバルビゾン派の影響を受けた作品をサロンに提出し、入選を重ねます。
普仏戦争が勃発すると一家でロンドンへ避難し、ターナーやコンスタブルの作品に触れながら風景画を研究しました。
1874年以降、ピサロはすべての印象派展に参加し、1880年代には人物画にも力を注ぎました。
印象派グループにおいて、彼は印象派と後期印象派の橋渡し役のような存在だったとされています。
晩年には視力の衰えにより戸外での制作が難しくなり、ホテルの窓から都市の様子を描き続けました。
人と自然を愛し、穏やかな日常を描いた彼の作品には、素朴ながらも見る者を惹きつける魅力があります。
日差しや向けられた視線の優しさなどにも、彼の人柄がよく表れています。
代表作には『モンモランシーの風景』『エルミタージュの丘・ポントワーズ』『ヴォワザン村の入口』などがあります。
小野 州一は、富良野ゆかりの洋画家として知られています。
1927年に北海道千歳市に生まれ、幼少期から絵や詩に関心がありました。北海道立札幌第一中学校を卒業後は独学で絵を学び、画家仲間と共に「北象会」を立ち上げて注目を集めます。1973年から1977年までパリを拠点に活動し、1995年には北海道富良野市へ移りました。
小野は油彩を中心に、風景、静物、女性像など幅広い作品を手掛けました。
鮮やかな色彩に重なる沢山の線描が印象的で、対象物に自身の内面を反映させた詩的な作風が魅力です。
没後も北海道立近代美術館や富良野市などで遺作展が開催され、「線描のコロニスト」とも称されました。
落合 芳幾は、幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師です。
伝統的な浮世絵の様式を受け継ぎつつ、新たな主題や視点を積極的に取り入れた作品を数多く残しました。
1833年、江戸・日本堤にて引手茶屋(遊廓の客と店との仲介を担う茶屋)を営む家に生まれました。
一説には、遊郭に入る客へ顔隠し用の編笠を貸す茶屋の生まれとも伝えられています。
父親は「堅気の商売に就いてほしい」と願い、芳幾を質屋へ奉公に出しましたが、芳幾は絵師になる夢を諦められず、最終的に許しを得て歌川国芳に入門しました。
1854年、柳水亭種清作『箱根霊験躄仇討』の挿絵を手がけ、絵師としてデビューしました。しかし翌年の安政大地震で新婚の妻を亡くし、悲嘆の中、吉原の惨状を現地で写生し、三枚続きの錦絵として発表しました。
この作品が評判を呼んで多くの注文が舞い込むようになり、芳幾は人気絵師としての地位を確立します。
1861年には師である国芳が没し、一門の中で認められた者のみが描ける「死絵」を手掛けました。
その後は月岡芳年との競作をはじめ、「東京日日新聞」の発起や「平仮名絵入新聞」の創刊、挿絵や新聞錦絵など、多岐にわたる分野で活躍しました。
しかし、1890年に絵入新聞が終刊すると、新聞錦絵の需要も急速に衰退し、芳幾は次第に困窮しました。晩年には借金取りに追われ、一家は離散。あばら家での貧しい生活を送った末に72歳で亡くなりました。
代表作には『英名二十八衆句』『小栗一代記』などがあります。