大正から昭和にかけて活躍した浮世絵師・日本画家である近現代日本画の巨匠 伊東深水は、歌川国芳から連綿と続く浮世絵の「玄冶店派」の伝統に現代風俗画を取り入れた最後の浮世絵系美人画家と称され、今もなお高い人気を誇っています。
13歳のとき、日本画家の鏑木清方に入門し、生地の深川と師の清方に因んで、「深水」の名を与えられました。本名は一 (はじめ)といいます。
伊東深水は炬燵にあたる女性の後姿を描いた『十六の女』で大正4年の文展に初入選を果たします。
その作品は勝川春章の『婦女風俗十二ケ月 十月 炉開』に着想を得たと思われ、そこでは亥の月(旧暦十月)の初亥の日に風炉の使用をやめて囲炉裏に変える 炉開きの様子が描かれています。
戦後は美人画とも並行し作品を手掛け、独自の題材で日本画を制作することが多かった。
人気のあまり、戦後には多くの作品が複製版画として広く行き渡るようになりました。
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速水 御舟(はやみ ぎょしゅう)大正・昭和初期の日本画家です。
1894年(明治27年)8月2日、東京府東京市浅草区に生まれ、本名は蒔田 栄一(まきた えいいち)といいます。後に母方の速水に改姓し名も禾湖(わこ)・浩然(こうぜん)と変えたのちに御舟(ぎょしゅう)と呼ぶようになります。
「御舟」の由来は、俵屋宗達の『源氏物語澪標関屋図屏風』(六曲一双、国宝)の見事さに感銘を受けその屏風に描かれた金銀の波上に浮かぶ「御舟」(貴人の乗る舟)からとったものになります。また速い水に舟を御すとも読みとれます。
オクイシェー・クーロンヌ勲章や赤十字二等名誉勲章受章を受賞しました。
従来の日本画にはなかった徹底した写実、細密描写からやがて代表作『炎舞』のような象徴的・装飾的表現へと進み、長くない生涯に多くの名作を残し、『名樹散椿』(めいじゅちりつばき)は昭和期の美術品として最初に重要文化財に指定されました。
1935年(昭和10年)3月20日、腸チフスにより急逝。
横山大観と共に近代日本画の革新に取り組んだ菱田春草。若くして亡くなったため活躍した期間は短いですが、その評価は今なお高いものとなっています。
1874年、長野県の飯田に生まれ、1890年に東京美術学校に入学します。在学中は橋本雅邦に師事し、同時に一学年上の横山大観や下村観山の存在を知ります。卒業後は帝国博物館の古画模写事業に参加しました。その後は美術学校に教師を務めますが、校長・岡倉天心の罷免をうけ春草も辞職、岡倉の日本美術院に参加します。1904年には岡倉・大観と共に欧米諸国をまわり、西洋芸術にもふれています。1906年には日本美術院の茨城移転に伴い同地に転居。引き続き大観・観山らと共に制作活動につとめました。1908年病気治療のため東京へ戻りますが、1911年、36歳の若さで亡くなります。
大観と共に輪郭線を描かない朦朧体で非難を浴びますが、これに臆することなく制作を続け、従来の日本画の常識を無視した革新的な技法を次々導入しています。
晩年の大作『落葉』では、色使いや巧みな樹木の配置によって、平面的な日本画を脱した奥行きのある雑木林を描いています。この作品は第三回文展にて最高賞を受賞し、後に重要文化財に指定されました。他にも『王昭君』、『賢首菩薩』、『黒き猫』が重要文化財となっているほか、故郷・飯田の市指定文化財となっている作品も存在します。
北野恒富は関西画壇の中心人物として活躍した近代の日本画家です。
幼い頃より絵を描き、小学校卒業後の1892年、版画制作業者の元で木版画を学びます。また同時に南画も学んでいました。その後は様々な木版画彫刻師に学びますが、間もなく画家になるため故郷金沢を離れ大阪へ移りました。1899年には新聞挿絵の仕事を得て、挿絵画家として活躍します。この時期には洋画の画風研究も行っていました。
1910年、第4回文展にて『すだく虫』が初入選、翌年には『日照雨』が三等となります。この実績により日本画家としての地位を築きますが、その後は活躍の場を院展へと移し、以後晩年まで院展への出品を続けました。1934年には明治神宮聖徳記念絵画館に収蔵されている壁画『御深會木』を制作しています。
画家としての初期の作品は、西洋の写実的な画風も取り入れたことで、「画壇の悪魔派」と呼ばれるような妖艶な雰囲気を漂わせていましたが、次第に優美さを感じさせるものへとなっていきます。また大正期には販促ポスターのデザインも行い、艶やかな女性像が評判を呼びました。
直筆日本画の他にも、若い頃学んだ版画技法をもとに新版画の作品も制作しています。
「酒井抱一」は江戸琳派を代表する絵師で俳人の一人です。尾形光琳に私淑し琳派の雅な画風と俳味を取り入れた詩情ある洒脱な画風に翻弄したことでとても人気となり、江戸時代琳派の祖となった人物です。
酒井抱一は、1761年、姫路藩主・酒井忠恭の孫として神田小川町に生まれました。彼が生まれた酒井雅楽頭家は、代々文芸を重んじる家柄であったため、幼いころから芸術に親しむ環境にありました。
37歳の時、抱一は西本願寺にて出家し、その後、権大僧都となりますが、間もなく職を辞し、下谷根岸に「雨華菴」を構えて、書画や俳諧に親しむ生活を送るようになります。
49歳の頃には、雨華菴にて谷文晁をはじめとする文化人たちと交流を深め、見識と人脈を広げていきました。
酒井抱一の功績は非常に多く、特に知られているのは、尾形光琳に私淑し、その画風の再興に尽力したことです。1815年には、光琳の百回忌を記念して《光琳百図》および《尾形流略印図》を作成し、1823年には《乾山遺墨》を刊行するなど、琳派の継承と発展に大きく貢献しました。
酒井抱一の画風は情緒的でありながら洒脱な画風をしています。
画業の始まりは狩野高信から狩野風を学んだことから始まり、琳派の装飾的な技法を受け継ぎつつ、宋紫石について沈南蘋の写生画風、歌川豊春から浮世絵、さらに土佐派・円山派の技法の習得、伊藤若冲の技法も積極的に取り入れる等の多数の技法を習得し、独自の画風を確立していきました。
奥村土牛は、戦後の日本画界における主要人物の一人です。
1889年、東京府京橋に生まれました。16の頃、日本画家になることを目指し、梶田半古に入門します。ここでその後の師となる小林古径と出会いました。1907年には、東京勧業博覧会に出品した作品が入賞するなど、早くからその才能は現れていました。1920年より、古径の元に住み込みで指導を受けます。7年後、1927年の再興第14回院展にて初入選を獲得しました。その後は帝国美術学校や日本美術学校で教鞭を取ったこともあります。
戦後も変わらず制作に励み、1959年の『鳴門』、1972年の『醍醐』など、代表作となる傑作を産み出しました。こうした功績が評価され、1962年には文化勲章を受章し、1978年には日本美術院の理事長に就任しています。
生涯を通し、師の半古や古径の教えを守り、写生を重視した作品を作り上げています。また、塗り方にもこだわりをもち、100回以上塗り重ねて表現する色加減は、土牛作品の特徴となっています。特に土牛の描く富士山図は人気が高く、皇居に飾られている作品も存在します。