大山 忠作は日本画家です。
福島県の染物業を営む大山豊春・きよの長男として生まれた大山忠作は家業が紺屋で父も趣味で日本画を描いていたことが影響したのか自然と画家を志すようになります。
1940年に東京美術学校(現.東京芸術大学)に入学し、日本画を学びますが、第2次世界大戦が悪化したことが影響し、繰り上げ卒業をして戦地に向かうことになります。終戦後に東京都美術館で開催中であった第1回日展を見て感動し、制作意欲を掻き立てられ、第2回日展で「O先生」が初出品で入選します。翌年には山口蓬春に師事し、描写技術の高さは定評があり、描きたい物を描くという姿勢で、人物から宗教、花鳥、風景画まで幅広い作品を発表し続けます。
代表的な業績としては、法隆寺金堂壁画再現模写への参加、日本芸術院賞受賞作「五百羅漢」、成田山新勝寺光輪閣襖絵「日月春秋」28面及び「杉」「松」「竹」22面、同じく聖徳太子堂壁画6面「白鷺」「蓮」「桜」「牡丹」「菊」「楓」の制作などが挙げられ、古典研究にも精通しておりました。
また、美術品に興味のある方は、一度見たことあると思われる鯉の絵は、大山忠作の代表的な作品となっており、美術市場では人気の高い作品となっております。
小野竹喬は岡山県に生まれた、風景画を得意とした日本画家です。
日本の自然の美しさを技法だけはなく自然の真実を追求しながら東洋の南画や、同時代の画家たちの作品にも学ぶことで写実的な古典領域から、次第に画風を変化させていきました。
竹橋を名乗っていた時期には京都の竹内栖鳳に師事し、西洋近代絵画の写実表現をとりいれた栖鳳に学びながら自らも西洋絵画の真髄をふんだんに取り入れていく等西洋絵画への関心が強く表れていたと感じられます。
1918年に約1年間渡欧している中で東洋絵画における線の表現を再認識し、渡欧後は竹喬を名乗るようになります。1939年頃から日本画の素材を素直に活かす為に線も色も古い大和絵の表現を学ぼうとし、線描と淡彩による南画風の表現へと変化していくことになりました。この変化が小野竹喬の作品の方向性を決定づけることになります。
晩年には松尾芭蕉の「おくの細道」をもとにその句意を絵画化にする作品を手掛けていき、その10点からなる「奥の細道句抄絵」は小野竹喬の晩年の代表作です。また、水墨画の精神性を模索し続け、生涯にわたって自身の可能性を追求し続けた人物です。
池田遙邨は文化功労者として表彰を受けた日本画家です。
岡山県に生まれた池田遙邨は、幼少期より画才があり父親の転勤に伴い大阪へ転居した後に洋画家の松原三吾郎の天災画塾に入門し、洋画を学びました。
1914年に第8回の文展にてみなとの曇り雲が入選、当時は10代の池田遙邨が入選したことで話題になりましたが、1912年に初めて福山市で個展を開いた際に小野竹喬に出会ったことで日本画へ興味を持つようになりました。
みなとの曇り雲が入選した後に小野竹喬を頼って京都に出て竹内栖鳳の画塾竹杖会に入ることで日本画に転向し、京都市立絵画専門学校別科に入学した頃から暗い主題を好むようになりますが、同校を卒業後は一変して軽やかでのびのびとした画風を好むようになります。
烏城会を結成後は、池田遙邨が旅好きであったことから徒歩による東海道写旅行の決行をはじめとして、北海道、南海道を巡り風景画をよく描きました。
戦後は文学やニュースに触発されながらもどこか現実離れした幻想性豊かな画境にいたり、独自の画境による風景画を残した作家であるといえます。
尾形光琳は17世紀後半~18世紀にかけて京都や江戸で活躍した琳派の大成者として知られる絵師です。
雅で優雅な伝統を感じさせる大和絵的な描写の中に斬新で大胆な構図や画面展開を取り入れた明瞭でかつ装飾的にもかかわらず革新的な独自の様式を確立し、その独自の様式は当時では最大の画派であった狩野派とは一線を画す「光琳模様」と呼ばれ、日本の絵画や工芸など幅広いジャンルのデザインに大きな影響を与えました。
1658年に京都の呉服商の「雁金屋」の次男として生まれた尾形光琳は裕福な家庭で育ったこともあり、少年時代から能楽、茶道、書道に親しんでおりました。
30歳の時に父が亡くなった後は、長男が後を継ぎ尾形光琳は父が残した遺産を40代までの間に湯水のように使ってしまったとのことです。
長男が後を継いだ会社も破綻してしまっていた為、経済的に困窮したことから画業を本格的に始めたのではないかと言われております。画業を本格的に始めた後は公家や大名など多くの物に経済的に援助してもらいながら、京の裕福な町衆を顧客に数々の傑作を世に送り出しました。
本格的な活動は44歳から没する59歳までの約15年ほどであったと推測されていますが、その間に大画面の屏風のほか、香包、扇面、団扇などの小品も手掛け、手描きの小袖、蒔絵などの作品もあります。
また、尾形乾山の作った陶器に光琳が絵付けをするなど、その制作活動は多岐にわたっております。
鏑木清方は近代日本の美人画家として上村松園や彼の門下生である伊藤深水と並び称される美人画の名手として必ず名前の挙がる人物です。
東京に生まれた鏑木清方は13歳の時に水野年方に入門し、挿絵画家として創作活動をスタートさせました。
17歳のころには父が経営する東北新聞の挿絵を担当する等、10代にしてすでにプロの挿絵画家として活躍をしており、日本画では文展や帝展を主たる舞台として上村松園と並び称されておりましたが当の本人はそう呼ばれることを嫌っていました。
鏑木清方が理想としていたのは絵空事として社会からかけ離れることではなく、自分の事として多くの共感を得られるような芸術であったからです。
鏑木清方の理想の作品のスタートラインと言える「築地明石町」は1975年以来、姿を消してしまいます。
1927年に帝国美術院賞を受賞し、切手の図柄にも採用された「築地明石町」ですが、戦争の戦禍を免れたこの作品は1955年に清方のもとにもたらされ、清方の手によってしばしば展覧会に出品されるようになりました。
しかし、清方の死後の翌年から開催されたサントリー美術館での回想の清方シリーズの3回目を最後に姿を消してしまいました。
以来、捜索を続けていた東京国立近代美術館が、2019年に44年ぶりに個人所蔵者から同じく所在不明であった新富町、浜町河岸と共に5億4000万円で購入しました。同年、「鏑木清方 幻の《築地明石町》特別公開」と称して展示され、清方の没後50年にあたる2022年には「没後50年 鏑木清方展」(仮称)を同館及び京都国立美術館で開催予定となってますので、是非足を運んでみてはいかがでしょうか。
平山郁夫は、日本美術院理事長や一ツ橋総合財団などで理事等の重要なポストを歴任し、美術界だけでなく教育界にも多大に貢献した日本を代表する洋画家です。
1930年に広島県に生まれた平山郁夫は1952年に美術学校を卒業したと同時に東京芸術大学に入学し、前田青邨に師事し、東京芸術大学で助手をしていた時に原爆で被ばくした際の後遺症に苦しみながら描いた三蔵法師をテーマとした仏教伝来で院展に入選します。
平山郁夫が仏教の作品が多いのはこの仏教伝来が入選したことがきっかけとなっており、仏教の道を結んだシルクロード作品の一つに1968年に描かれた流砂の道は大きく空に浮かび上がる太陽を受けた仏教徒たちの旅を描いております。この作品を描くにあたり、平山郁夫はシルクロードへの取材を年150回以上、40年間行っており、そこまでしないと本物の作品を描くことが出来ないといった平山郁夫のこだわりを表しているといえるでしょう。
また、ユネスコ親善大使・世界遺産担当特別顧問・東京国立博物館特任館長や文化財赤十字活動を提唱する文化財保護、芸術研究助成財団の理事長を歴任するなどその活動は幅広く、社会への影響も大きい人物となっています。