山川秀峰は美人画を得意としている日本画家であり、寺島紫明や伊藤深水とともに鏑木清方に学び、清方門下三羽烏の一人として知られております。
山川秀峰は京都府に生まれ、3歳の時に東京に移り、模様師であった父・玄次郎に連れられて池上秀畝のもとで花鳥画を、後に鏑木清方に入門し美人画を学び、絵画の技術を向上させていきました。
早い時期から才能を開花させていった秀峰は大正8(1919)年の第1回帝展にて振袖物語が初入選し、大正17(1928)年の第9回帝展にて「安倍野」を出展、さらに第11回帝展において「大谷武子姫」を出展し、両作品共に特選を受賞したことで、寺島紫明、伊藤深水とともに清方門下三羽烏の一人として認められるようになりました。その後も代表作となる素踊や序の舞などの新感覚の作品を出品し、昭和14(1939)年には伊藤深水とともに青衿会を結成、東京画壇での美人画の発展に功績を残し、より活躍の場を広げていきました。
類い稀な才能を持っていた秀峰でありましたが、47歳という若さでこの世を去ってしましましたが、きいちのぬりえで有名な蔦屋喜一は彼に憧れて画家になったと言われるほど、存在感のあった作家であり、その功績は多大なものであったのではないでしょうか。
富永青鱗は徳島県出身の日本画家です。
富永青鱗は山を描いた風景画や海、色鮮やかな魚を画題とした日本画を沢山描いています。
富永青鱗は明治44(1911)年に徳島市の栄町で生まれ育ちます。
独学で日本画を学習し、昭和9(1934)年に京都へ大きな志を持ちながら出ていきます。
その志を体現するかのように翌年には京都市展に入選し、その後も日本画院展や文展などの数々の展覧会で入選をはたす活躍をしていきます。
昭和15(1940)年には無求会という会を結成し、銀座菊屋画廊にて第1回展を開催し成功させました。
昭和27(1952)年に当時住んでいた九州から京都に戻り、昭和36(1961)年には題名「魚屋」が院展に入選を果たします。その後は院展に出品していくようになりました。
昭和39(1964)年には今までの活躍が高く評価を受けて紺綬褒章を受章します。
その後は日本美術院にて研究員であることを前提として再興日本美術院展覧会(院展)に3回入選することで推薦される日本美術院院友となり活躍致しました。
大正から昭和にかけて活躍した浮世絵師・日本画家である近現代日本画の巨匠 伊東深水は、歌川国芳から連綿と続く浮世絵の「玄冶店派」の伝統に現代風俗画を取り入れた最後の浮世絵系美人画家と称され、今もなお高い人気を誇っています。
13歳のとき、日本画家の鏑木清方に入門し、生地の深川と師の清方に因んで、「深水」の名を与えられました。本名は一 (はじめ)といいます。
伊東深水は炬燵にあたる女性の後姿を描いた『十六の女』で大正4年の文展に初入選を果たします。
その作品は勝川春章の『婦女風俗十二ケ月 十月 炉開』に着想を得たと思われ、そこでは亥の月(旧暦十月)の初亥の日に風炉の使用をやめて囲炉裏に変える 炉開きの様子が描かれています。
戦後は美人画とも並行し作品を手掛け、独自の題材で日本画を制作することが多かった。
人気のあまり、戦後には多くの作品が複製版画として広く行き渡るようになりました。
緑和堂では、伊藤深水の作品を強化買取中です。
ご売却をご検討中の際は、お気軽にご相談くださいませ。
速水 御舟(はやみ ぎょしゅう)大正・昭和初期の日本画家です。
1894年(明治27年)8月2日、東京府東京市浅草区に生まれ、本名は蒔田 栄一(まきた えいいち)といいます。後に母方の速水に改姓し名も禾湖(わこ)・浩然(こうぜん)と変えたのちに御舟(ぎょしゅう)と呼ぶようになります。
「御舟」の由来は、俵屋宗達の『源氏物語澪標関屋図屏風』(六曲一双、国宝)の見事さに感銘を受けその屏風に描かれた金銀の波上に浮かぶ「御舟」(貴人の乗る舟)からとったものになります。また速い水に舟を御すとも読みとれます。
オクイシェー・クーロンヌ勲章や赤十字二等名誉勲章受章を受賞しました。
従来の日本画にはなかった徹底した写実、細密描写からやがて代表作『炎舞』のような象徴的・装飾的表現へと進み、長くない生涯に多くの名作を残し、『名樹散椿』(めいじゅちりつばき)は昭和期の美術品として最初に重要文化財に指定されました。
1935年(昭和10年)3月20日、腸チフスにより急逝。
横山大観と共に近代日本画の革新に取り組んだ菱田春草。若くして亡くなったため活躍した期間は短いですが、その評価は今なお高いものとなっています。
1874年、長野県の飯田に生まれ、1890年に東京美術学校に入学します。在学中は橋本雅邦に師事し、同時に一学年上の横山大観や下村観山の存在を知ります。卒業後は帝国博物館の古画模写事業に参加しました。その後は美術学校に教師を務めますが、校長・岡倉天心の罷免をうけ春草も辞職、岡倉の日本美術院に参加します。1904年には岡倉・大観と共に欧米諸国をまわり、西洋芸術にもふれています。1906年には日本美術院の茨城移転に伴い同地に転居。引き続き大観・観山らと共に制作活動につとめました。1908年病気治療のため東京へ戻りますが、1911年、36歳の若さで亡くなります。
大観と共に輪郭線を描かない朦朧体で非難を浴びますが、これに臆することなく制作を続け、従来の日本画の常識を無視した革新的な技法を次々導入しています。
晩年の大作『落葉』では、色使いや巧みな樹木の配置によって、平面的な日本画を脱した奥行きのある雑木林を描いています。この作品は第三回文展にて最高賞を受賞し、後に重要文化財に指定されました。他にも『王昭君』、『賢首菩薩』、『黒き猫』が重要文化財となっているほか、故郷・飯田の市指定文化財となっている作品も存在します。
北野恒富は関西画壇の中心人物として活躍した近代の日本画家です。
幼い頃より絵を描き、小学校卒業後の1892年、版画制作業者の元で木版画を学びます。また同時に南画も学んでいました。その後は様々な木版画彫刻師に学びますが、間もなく画家になるため故郷金沢を離れ大阪へ移りました。1899年には新聞挿絵の仕事を得て、挿絵画家として活躍します。この時期には洋画の画風研究も行っていました。
1910年、第4回文展にて『すだく虫』が初入選、翌年には『日照雨』が三等となります。この実績により日本画家としての地位を築きますが、その後は活躍の場を院展へと移し、以後晩年まで院展への出品を続けました。1934年には明治神宮聖徳記念絵画館に収蔵されている壁画『御深會木』を制作しています。
画家としての初期の作品は、西洋の写実的な画風も取り入れたことで、「画壇の悪魔派」と呼ばれるような妖艶な雰囲気を漂わせていましたが、次第に優美さを感じさせるものへとなっていきます。また大正期には販促ポスターのデザインも行い、艶やかな女性像が評判を呼びました。
直筆日本画の他にも、若い頃学んだ版画技法をもとに新版画の作品も制作しています。