1930年兵庫県淡路島出身の服部氏は、画家である父の影響で自身も画業を志すようになります。後に京都市立身術専門学校油絵科(現在の京都芸大)に入学し、更に技術を高めていきます。その後は様々な展示会に出品し受章しています。
個展も積極的に開催しており、50回以上にも渡って想いの込めた作品を展示してきました。
主にヨーロッパ美術から影響を受けており、シックで落ち着いた雰囲気の作品を中心的に描きます。また、国内の現代画家作品や文献にも目を通し、常日頃技術に磨きをかけていました。花や女性像、裸婦などを好んで描かれることが多く、奥深さを感じつつも優雅で儚さもある作品はどこか目が離せない、そんな服部氏ならではの存在感を感じられることでしょう。
1925年に山口県に生まれた直野 進は、武蔵野美術大学に進学するも中退し、松田正平に師事しました。
主に縦長の構図で花を描き、シックな空間表現の中に華やかにモチーフを描いた個性的な作風が特徴です。
その個性的なスタイルが評価され、2005年には「NHK日曜美術館」に出演しました。個展を中心に発表を続け、2006年以降は「ギャラリー世都」「瞬生画廊」「菊川画廊」などで開催しています。
花瓶に生けた花を描く油彩作品が主流ですが、果物や女性像、デッサン画なども手掛けています。深みのある色彩は見る者の目を奪い、静謐な画面の奥から、内面に秘めた情熱が静かにほとばしるのを感じさせます。
里中 游は、1953年に兵庫県明石市で生まれた画家です。
油彩画をはじめ、グラフィックデザインや建築デザイン、商業デザイン、イラストマップなど多岐にわたって活動しています。
里中は旅行が趣味だそうで、訪れた先の田園風景や海、湖畔などを中心に描きました。新たな土地で感じる高揚感や心地よさなどが、シンプルな構図と鮮やかな色彩で表現されています。里中は自身の作品について、「見る者の心の状態によって毎日印象が変わる」と語っているそうです。
里中は個展やグループ展の開催などを行っており、現在は西明石に構えたアトリエ兼ギャラリーで活動を続けています。
國領經郎は、神奈川県横浜市生まれの洋画家で、日展をはじめ国際的に活動しました。
1941年に東京美術学校(現・東京芸術大学)図画師範科を卒業。
初めは人物画を中心に制作していましたが、1950年代後半から点描表現を試み、1960年代中頃からは「砂の風景」をテーマに砂丘・砂浜・海・鳥・若者といったモチーフで構成された静謐で詩的な世界を描くようになります。
彼の作品には、広大な砂丘を前景とし、遠景に海や波頭、鳥や人影が配されることで、時間や空間を超えたような瞑想的な雰囲気が漂っています。
数々の展覧・受賞歴もあり、1986年には第18回日展で内閣総理大臣賞を受賞、1991年には日本芸術院賞受賞と同会員に就任しています。
1999年に逝去した後も、彼の「砂の風景」シリーズは国内外で高く評価され続けています。
カミーユ・ピサロは、印象派の代表的な画家です。
ピサロは、1830年にセント・トーマス島で金物屋の家に生まれました。
1855年に画家を志してパリへ移り、アカデミー・シュイスに通いはじめます。
数年後には、パリに出てきたモネやセザンヌ、ギヨマンと交流を深めました。
1859年のサロンに、『モンモランシーの風景』が初入選。
その後もバルビゾン派の影響を受けた作品をサロンに提出し、入選を重ねます。
普仏戦争が勃発すると一家でロンドンへ避難し、ターナーやコンスタブルの作品に触れながら風景画を研究しました。
1874年以降、ピサロはすべての印象派展に参加し、1880年代には人物画にも力を注ぎました。
印象派グループにおいて、彼は印象派と後期印象派の橋渡し役のような存在だったとされています。
晩年には視力の衰えにより戸外での制作が難しくなり、ホテルの窓から都市の様子を描き続けました。
人と自然を愛し、穏やかな日常を描いた彼の作品には、素朴ながらも見る者を惹きつける魅力があります。
日差しや向けられた視線の優しさなどにも、彼の人柄がよく表れています。
代表作には『モンモランシーの風景』『エルミタージュの丘・ポントワーズ』『ヴォワザン村の入口』などがあります。
小野 州一は、富良野ゆかりの洋画家として知られています。
1927年に北海道千歳市に生まれ、幼少期から絵や詩に関心がありました。北海道立札幌第一中学校を卒業後は独学で絵を学び、画家仲間と共に「北象会」を立ち上げて注目を集めます。1973年から1977年までパリを拠点に活動し、1995年には北海道富良野市へ移りました。
小野は油彩を中心に、風景、静物、女性像など幅広い作品を手掛けました。
鮮やかな色彩に重なる沢山の線描が印象的で、対象物に自身の内面を反映させた詩的な作風が魅力です。
没後も北海道立近代美術館や富良野市などで遺作展が開催され、「線描のコロニスト」とも称されました。