てぃんくるは、日本のイラストレーターで、漫画家の集団です。
結成時は5人組で活動しており、その後2003年「Cafe Little Wish」作成時に、はるかぜせつな、ベルの2名で活動を開始します。2010年にベルが病気のため脱退します。2010年から2018年現在は、はるかぜせつなが個人で活動を続けており、同人活動では、サークル「てぃんかーべる」を主催しています。
はるかぜせつな(男性)は、11月27日生まれで、サークル「てぃんかーべる」を1996年に立ち上げ、その後、ペンギンワークスに入社します。「眠れる森のお姫さま」原画メンバーで5人合わせ「てぃんくる」と上司に命名され、現在は「てぃんくる」「はるかぜせつな」の両名義でフリーのイラストレータとして活躍をしています。
イラストレーターの中でも、非常に人気が高く、版画展などでも、長蛇の列が出来る人気作家です。
代表作 ・『ロウきゅーぶ!』2009年~2014年 ・『天使の3P!』2012年~2018年 ・『ぽけっと・えーす!』等があります。
谷口和正は、1957年兵庫県に生まれの油彩画家です。
1981年信州大楽農学部を卒業後、1998年~2005年に真砂美塾に入塾されています。
谷口は、自身を「居酒屋派」と名乗っておられます。これはご自身が敬愛なさっている谷内六郎画伯が自ら「駄菓子屋派」と名乗っておられたのに感動し、自分に合うものは無いかと考えて、サラリーマン時代を振り返って思いついたフレーズだそうです。 社会に出てから自分のやりたいことを見つけ、邁進されている画家です。
また理念として、日頃見慣れた風景の中で或る日突然更地の出現に気付かれ、ご自身が子供の頃見た日本の風景、今描いて残しておかねば無かったことになるだろう風景の記憶を辿りながら描いてらっしゃいます。そしてご自身の頭の中にあるものをできる限り後世に残すべく、現在も個展を開くなど精力的にご活躍していらっしゃいます。
藤林徳扇は延宝8年(1681年)より宮内庁御用達の錦の御旗の織り匠として代々名を継承している着物作家です。その中でも12代藤林徳扇は着物の製作だけではなく絵画なども世界で評価されています。 また芸術界のノーベル賞と表現されるユネスコ・パリ 本部認定のユネスコ・グリーティング・アーティストとして連続して選出されるなど、トップアーティストとして活躍していました。
徳扇の描く絵は特徴的でキャンバスには本金糸や本プラチナ糸が使われており、時がたっても変色が少ないです。また五大宝石をパウダー状にした上で絵の具化するなど独自の特殊な技法で様々な着物やアートを創作しております。
創作理念は「優雅」「格調」「貴品」、そして「見つめられる着物」として創作されており藤林徳扇の作品はどれも思わず見とれてしまうような作品が多く見受けられます。ローマ法王の前で弥勒菩薩像のアートも収蔵しており、世界でも著名な作家であることがうかがえます。
マーティロ・マヌキアンは旧ソビエトに生まれ、16歳の頃には、前衛美術の展示会で第1位受賞するなど若いうちから才能を発揮していました。1966年高校卒業と同時に国立美術院に入学、72年に卒業。同年、旧・ソビエト連邦芸術家連盟会員の名誉を獲得し、旧ソビエト中の芸術家達に大きな影響を与えました。
しかし、子供の頃から共産主義には同調できなかったマーティロは、「自由・冒険・自然・愛」に興味を持ち、人間らしく生きる為、自由を求めて1987年にアメリカに渡りました。 社会的に描くことの枷が無くなったマーティロ・マヌキアンは自身の好きなテーマを筆の赴くまま描きました。その自由な発想や表現方法はマーティロ・マヌキアンの独自のスタイルとして認められアメリカでの名声を手にしました。
作風に関しても色々な手法を用いて斬新な作品を発信していました。金箔・銀・樹脂・液状真珠などが色の一部として使いムードや感情を表現するのに使用したり、 複数の異なる素材や技法を組み合わせて作られるミクストメディアの版画を多く制作しているのも特徴のひとつです。 モチーフでは女性が多く、マヌキアンならではの官能的でありロマンティックな作品が多数を占めています。
黒田悦子は日本の画家です。
1942年、宮城県・石巻市に生まれました。
1962年に女子美術大学付属中等科入学し、1968年大調和展新人賞を受賞。 1971年女子美術大学専攻科を修了、その後シェル賞展で佳作を受賞など入選を重ね、1975年第14回大調和展で大調和賞を受賞しました。
その翌年には大調和展武者小路賞受賞し、1977年大調和会委員となりました。
1988年上野・東京都美術館にて開催された第27回大調和展では文部大臣賞を受賞、個展も三越・東武・東急などでたびたび開催しています。
また大調和会運営委員としても活躍し、作品は質感描写が見事な文楽人形や椿で高く評価されています。
キャンパスに金箔地、油彩でのモチーフ描写という特徴的な手法を用いた作品が多く、日本、西洋の絵画的手法が織り交ぜられ独自の華やかさがあります。
田中阿喜良(本名:中島阿喜良)は1918年8月20日8月20日に大阪府で生まれた洋画家です。
彼が生まれた時代は第一次世界大戦の終わり。 この後に世界恐慌が発生し、第二次世界大戦へと向かっていく、軍国主義、全体主義という思想が強まっていく時代でした。 1937年に大阪府立高津中学校を卒業(19歳)し、38年に姫路高等学校入学を果たしますが、40年中退し京都高等工芸学校図案科に入学します。 1943年に同校を卒業しますが、時代はまさに第二次世界大戦の真っただ中です。画家を志しながらも応召し、無事に帰国した後、1947年の第2回行動美術展に「庭」を初出品し、彼の画家としてのキャリアがスタートします。 29歳のことでした。
その後、国内の様々な展覧会に出展し、数々の賞を受賞し、戦中派世代の旗手として注目を集めます。 1958年には外国美術の紹介が活発になったことから触発され、フランスへと旅立ちます。翌年にはサロン・ドートンヌに出展し、同年フランス・ビルヌーブ1等賞を受賞します。その後も多くの賞を受賞し、1961年にサロン・ドートンヌ会員となるなど、海外でもその実力を認められるようになりました。 田中阿喜良の独特な画風は、この少しあとに定着したようで、以降は田中阿喜良と言えば、「土のついたジャガイモのようだ」と表現されたような独特な画風になります。
生活の拠点はフランスでしたが、出展意欲は高く、世界のみならず日本でも多くの展覧会に出展、受賞するほか、1967年から3回に渡り日本でも個展を開くなど、多くの絵画を手掛けます。 1975年には神奈川県立近代美術館で「田中阿喜良展」が開かれるなど、国内外を問わず注目を集めた画家でしたが、1982年6月10日にパリにて心筋梗塞で亡くなります。享年63歳。
彼の作風は荒目のカンバスとビニール系の水性塗料を用いたマチエルを持つ白い下地に、パリの庶民を描くというような独特なものです。 特に作風が定着した晩年は、農婦やパイプを持つ男性など、パリを生きる人々、とりわけ年配の方々をモデルとした作品が多くあります。 彼自身よりも年配のモデルということは、第二次世界大戦という時代を、最も過酷な場の一つであるフランスという国で生き抜いた人々ということです。 同じ時代を生きた先達に対し感じるもの。 そこに何が込められているのかは分かりませんが、黒い色調の作風ながらどこか優しさを感じさせるこの彼の画風にその想いは宿っているようにも思います。