池大雅は18世紀に活躍した文人画家です。与謝蕪村と並び日本文人画家の祖や大成者と言われています。池大雅は数多くの名がある人物で、幼名は又二郎など。忌み名は勤や無名(ありな)、字は公敏、貨成。日常生活では池野 秋平。雅号(文人が使う風雅な名)も多く名乗り、大雅堂、待賈堂、三岳道者、霞樵などが知られています。
そんな池大雅は京都で生まれ、父を早くに亡くしたため経済的に貧しい暮らしを送っていました。7歳の頃学び初めの書を万福寺で披露し神童と呼ばれるほど絶賛を受けたという逸話も残っています。
その後柳里恭に才能を見出され文人画を描くようになりました。旅行や登山が趣味だった池大雅は実際に見た景色を描き、中国絵画の模倣ではなく、のびのびとした自分らしい作品画風が確立され一定の評価を得ていきました。
1771年には十便十宜図の十便帖を池大雅が描き、十宜帖を与謝蕪村が描くという合作も生まれた。この中の「釣便」が特に高い評価を得ています。
この時描かれた池大雅作「紙本淡彩十便図」・与謝蕪村作「紙本淡彩十宜図」、1951年6月9日に国宝に指定されています。
中島華陽は、江戸末期から明治にかけて活躍していた絵師です。中島華陽の活躍したこの時代は、従来の狩野派から写実性を取り入れた円山四条派が主流となっている時代でした。そんな時代に、自由な作風と独自の世界観で評価を得ていた横山崋山が中島華陽の師でした。
京都生まれの中島華陽は横山崋山のもとで学び洛東聖護院村に居を構えます。1855年に京都御所再建の際に日本画壇の主流派の画家として障壁画を担いました。その時代の絵師にとって皇居の障壁画を担うことは大変な誉れで、最高の栄誉とされていました。その際に作画された「四季耕作図」は現在も京都御所に飾られています。
中島華陽といえば娘の達が文人画家である富岡鉄斎と結婚したことでも有名です。
1877年に65歳でこの世を去りました。
画面に映える目の覚めるような赤色。洋画家・寺井重三の描く作品は、光に照らされた主役を生き生きと映し出します。
寺井は1928年石川県に生まれます。大学は金沢美術大学に進学しますが、当時は日本画科に在籍し、学生時代のうちに日本画で日展入選を果たしています。しかしながら、画業の道は厳しく、小学校の教員で生計をたてていたようです。20代後半になる頃、日本画から洋画へ転向。洋画家の木下孝則に師事しました。寺井の作品・モチーフにはこの木下の作風の影響が大きく、バレリーナや静物など画題での共通点もみられます。また木下が創立に参加した一水会の会員にもなりました。
踊子・バレリーナの主題を得意とし、張り詰めた緊張感や優雅な動きまでを描き出した他、静物画では色鮮やかな花、特にバラを得意としています。
1980年の日展特選を筆頭にその評価を高め、1991年には故郷・石川県珠洲市の文化功労賞を受賞。1999年には紺綬褒章も受章しました。
鈴木政輝は1924年生まれ、長崎県島原出身の油彩画家です。
1938年に上京して洋画家・島野重之に師事し、絵を学びました。終戦後は海外に渡航し、本場の絵や風景から多くのインスピレーションを受けます。また同時に海洋学や帆船の構造についても学んでいます。専門的に海洋学を学んだ経験から、船の細かい表現などに妥協が無くこだわりと愛着を感じます。帰国後は海洋関係のイベントに招かれる機会も多く、海洋関係の博物館にも作品が収蔵されています。
鈴木政輝は「船」を人生のテーマとして描き続け、そのモチーフや画力が評価される実力派作家です。
船には歴史がありロマンがあります。大海原を行く船は人生の希望を与えてくれるように感じ、様々な想いを巡らす事が出来ます。空は青く描かれている事が多く、ポジティブな気持ちにさせてくれます。
鈴木政輝は主にバルビゾン派絵画を学んでおり、自然主義的な風景画や農民画を写実的に描いています。また帆走中の船の印象が強いですが、帆を下して夕景に佇む船や、森や街・港を描いた作品も存在します。港を描いた作品は、夕日をバックに帆船や小型船などを描いた日常に近い温かみのある作品となっています。
物語の中の世界のような穏やかな色彩で描かれるヨーロッパの街並み風景。「旅への誘い」をテーマに描いてきた洋画家・井口由多可の作品は、その穏やかな風景描写と澄んだ空気感に心が惹きつけられ、自分もこの世界に行きたい、と強く感じさせてくれる魅力が詰まっています。
1947年九州に生まれ大学は慶應義塾大学の法学部を卒業。その後は船会社に勤務しますが、多忙により体を壊してしまいます。そんなときに趣味として独学で始めたのが絵画でした。24歳の頃会社を辞め画業に打ち込むようになり、1975年28歳にして第4回現代洋画精鋭選抜展にて入選を果たします。これがきっかけとなり2年後の同展では金賞を受賞。フランス芸術家協会主催のル・サロンで名誉賞を受賞するなど、その作品が高く評価されるようになりました。
現在は全国各地の百貨店などで個展を開催する一方、自身が会長を務める旭美術協会にて後進の育成にも力を入れています。
2015年に画業40年を迎えましたが、いまだ向上心に溢れ、新たな作品に向けて研究を続けているとのことです。
1836年~1902年 山名 貫義(やまな つらよし)は、現在の東京都千代田区麹町の出身で明治時代に活躍した日本画家になります。明治維新後、工部省、内務省、農商務省に測量技術をもって出仕し、明治10年代の際に再び画道に戻り、1879年古画の模写を嘱託されます。1884年の第二回内国絵画共進会で審査員として加わり、「藤房奉勅訪楠氏図」「獣虫戯図」を出品し銀賞を授与されました。同年創立した鑑画会では、狩野永悳、狩野友信と共に、古画の鑑定委員として参加しておりました。その後、皇居造営の際に杉戸絵等を多数手掛け、当時の「今日新聞」(都新聞)に異なる10の分野において当時最も優れた人物を読者投票で選ぶという「日本十傑指定」の記事では、政治家では伊藤博文、軍師で榎本武揚、学術家で中村正直、著述家で福沢諭吉らと並び、10番目に画家として山名貫義の名が挙げられ,1896年に帝室技芸員となりました。現代ではあまり知られておりませんが、当時貫義は大和絵最後の大家として高く評価された画家になります。1902年6月11日67歳で死去しました。