緻密に写生された色鮮やかな動植物。中国、清代の画家・沈 南蘋によってもたらされた新たな画風は、当時硬直していた日本絵画界に新しい風をもたらします。
南蘋は絹織物商の子として生まれますが、絵に興味を持ち画家・胡 湄に入門。独り立ちした後は清朝の宮廷画家として仕えました。
1731年、徳川幕府8代将軍の吉宗に招かれて来日し、約2年ほど長崎に滞在します。通訳を務めた熊代熊斐が日本人唯一の弟子となり、以後熊斐の弟子らによって日本における南蘋派が発展しました。
その後の南蘋の行方について詳細は分かりませんが、1760年頃までは存命であったと考えられています。また、徳川吉宗は南蘋の彩色画を好み、帰国後も清から取り寄せていたようです。
南蘋の画風は、長らく狩野派中心で変化のなかった日本の画家にも大きな影響を与えました。丸山応挙・伊藤若冲・渡辺崋山など、後に有名となる画家もこの影響を受けています。
【南蘋派】
熊代熊斐とその弟子たちによって作られた画派で、南蘋の技法を受け継いだ写実的で色鮮やかな花鳥画が特徴となっています。
代表的な画家として森蘭斎・鶴亭・宋紫石・建部綾足・伊勢長島藩主 増山雪斎などがあげられます。
一時はかなりの流行をみせましたが、円山応挙の円山派に押されやがて衰退しました。
繊細な筆使いで柔らかく描かれる女性像。洋画の中に日本的な優美さを取り入れた女性を描いたのが、洋画家・岡田三郎助です。
1869年、佐賀に生まれ、11歳で岡田家の養子になった後、洋画家の道を歩むこととなります。
1894年、明治を代表する洋画家・黒田清輝と出会い、吉田も黒田の白馬会の創設に携わりました。1897年、文部省の留学生としてフランスへ留学、黒田の師でもあった外光派の洋画家・ラファエル コランに師事します。これは後の岡田の作風に大きな影響を与えました。
帰国後は東京美術学校で教鞭を取りつつ制作を行い、1907年には東京勧業博覧会にて一等を受賞しました。
1934年には長年の功績と技能が評価され、帝室技芸員に任命、さらに37年には第一回の文化勲章も受賞するなど、大正・昭和の洋画壇の中心的な人物であったといえます。
ポーラ美術館所蔵の『あやめの衣』に代表される岡田の描く繊細かつ優美な女性像は、洋画の中に日本的な美を落とし込む岡田ならではの作品世界であり、その確かな技術と芸術性は現在も高く評価されています。
川上澄生(かわかみすみお)は、神奈川県出身の版画家です。代表作「初夏の風」はエメラルドグリーンの色彩が美しい作品で、美術界の巨匠「棟方志功」が版画家になる事を決意したきっかけの作品として知られています。
川上澄生が初めて版画を制作したのは17歳頃、木下杢太郎の作品を真似て制作したのがはじまりとなります。本格的に版画制作をするようになったのは1921年、栃木県宇都宮中学校の教師として勤務するようになってからです。太平洋戦争が始まってからは、妻の実家である北海道へと移り住みます。北海道に住んでいた時期の作品は、アイヌ風俗や山などの風景をモチーフにした作品を制作しました。戦後には主に南蛮や文明開化をテーマにした作品を制作し、南蛮入津と呼ばれるモチーフを多く制作しました。1967年に勲四等瑞宝章を受章。70歳を超えてからも版画制作を続けていましたが、77歳の時心筋梗塞により亡くなりました。
日本各地を巡り、旅情あふれる四季折々の風景版画作品を数多く発表した版画家・川瀬巴水。吉田博や伊東深水と並び、新版画家の中心人物となっています。
巴水は1883年、東京・芝に生まれます。若き頃から絵を学び、25歳で家業を親族に任せ画家の道へと進みました。当初は岡田三郎助の元で洋画を学び、その後日本画家・鏑木清方に入門。修行ののち、清方から「巴水」の号を与えられます。
1918年、同じく清方の弟子であった伊東深水の版画に興味をもち、版画の世界へと進みました。新版画の出版に意欲的だった渡辺版画店の後援をうけ、初の版画作品を出版。以後、日本を旅しながら作品を出版。生涯で600点以上の木版画を制作しました。
詩情豊かで柔らかな印象を受ける巴水の作品は、日本のみならず海外でも人気となり、欧米では北斎や広重に並ぶとまで称されています。
まるで目の前にその情景が広がっているかのような色鮮やかな風景版画。時には日本を飛び出し、当時まだ珍しかった海外の風景も描いた版画家、吉田博。イギリス王室のダイアナ妃も愛した彼の版画は、今なお世界で高い人気を誇ります。
1876年、九州に生まれ、中学時代に洋画家の教師に腕を見込まれ養子となり、吉田姓となりました。学校卒業後は水彩画を始め、明治美術会に所属します。1899年アメリカへ渡り、美術館で水彩画の展覧会を開催します。この成功が吉田の画風に影響を与えました。1902年には太平洋画会を結成し、白馬会とともに明治日本の洋画壇を代表する会と成長していきます。1908年の第二回文展では最高賞を受賞し、以後文展・帝展で高い評価を受け、自身も審査員をつとめます。
木版画の道へ進んだのは1920年で、1921年に最初の版画を出版しますが、まもなく関東大震災で版木を全て失い、再び海外へと渡りボストンを拠点に活動するようになります。帰国後は新宿・下落合にアトリエを構え、「アメリカシリーズ」や「ヨーロッパシリーズ」などの版画作品を発表しました。
海外での知名度の高さから、戦後は進駐軍の米兵の間で人気となり、マッカーサー元帥の夫人も訪れています。
世界を旅し、時には自ら高山に登り、その風景を克明に写し取った吉田の版画は、浮世絵にはない写実性を備えた新版画の代表的な存在となりました。
高畠華宵は愛媛県宇和島市裡町に生まれの日本画家です。雑誌や新聞の挿絵・広告絵などを描いて、人気画家として一世を風靡しました。大正から昭和初期にかけて、華宵の絵は当時の少年少女の間で絶大な人気を得ました。津村順天堂のポスターを描くようになり、広告界へ参入します。雅号を「華宵」とし、講談社をはじめとして多くの出版社の挿絵や装幀(そうてい)を手がけるようになり、一躍人気作家となります。その後、「華宵便箋」が発売されるなど、常に大衆生活との密接なつながりを保ちながら活動します。大正から昭和初期にかけて独自の美人画で一世を風靡し、「銀座行進曲」の歌詞にも登場するなど、大正ロマン期を代表する人物の一人です。画風は妖艶さと清楚さを併せ持つ少女画・美人画と、凛々しく潔い、色香を漂わせる少年画は一目で彼の作品とわかるほどの個性を放っています。
その後『少女画報』『少女倶楽部』『少年倶楽部』(いずれも講談社)『日本少年』『婦人世界』(いずれも実業之日本社)などの少女向け雑誌や少年雑誌、婦人雑誌などに描いた独特な美少年・美少女の挿絵や美人画は一世を風靡し、竹久夢二らと並ぶ人気画家となりました。1926年には自身の意匠による便箋や封筒を発売するなど、現代でいうメディアミックス風のプロモーションも行い、当時の流行歌「銀座行進曲」の歌詞に「華宵好みの君も往く」と歌われるほどになりました。