江戸期の京都で隆盛を誇った日本画流派である円山応挙を祖とする「円山派」。山口素絢は応挙の弟子として円山派を代表する絵師「応門十哲」にあげられる人物です。
美人画を得意とし、優美な女性像を描き人気を博しました。一方花鳥画や山水図なども多く描いており、自身の出版物を通し円山派絵画の普及を助けています。
洒落本(遊郭などでの遊びについて書かれた通俗小説)や医学書の挿絵なども担当し、当時珍しい西洋オランダの絵画も直接目にしています。
出版物は寛政年間以後に多く、『倭人物画譜』、『素絢画譜』、『素絢画譜草花之部』、『素絢山水画譜』などがあります。
残されている作品数も多く、京都国立博物館、根津美術館などの国内有名館の他、大英博物館、ボストン美術館など海外の著名な博物館・美術館でも見ることができます。
日本におけるガラス工芸の先駆者である岩田藤七、その長男として自身も父と同じ道を進むことなったのがガラス工芸家、岩田久利です。
久利は1925年、東京美術学校を卒業してまだ間もない藤七の子として生まれました。父と同じく東京美術学校に進み、工芸部図案科で学びました。在学中に日展で初入選を果たし、以後も出品を続け、第11・12回の日展で2年連続特選という快挙を成し遂げています。その後は日展審査員をつとめる一方、日本ガラス工芸会を設立、ガラス工芸の振興にも尽力しました。
1976年の第8回改組日展にて文部大臣賞、1982年日本芸術院賞を受賞するなどの実績を重ね、1979年には紺綬褒章も受章しています。
若き頃より様々な分野の文化に触れ、独自の世界を作り上げた久利の作品は、緻密な技法を使いこなし、不透明な色ガラスを大胆に用いるなど日本のガラス工芸に新たな風を起こしました。
乾山は寛文3年(1663年)京都の富裕な呉服商の三男として生まれました。尾形と聞いて尾形光琳が頭に浮かぶ人も多いと思いますが、その尾形光琳の弟が尾形乾山です。派手好きな性格の光琳と対照的に、乾山の性格は穏やかで書物や学問を愛する落ち着いた芸術家でした。それは作品にも表れ、乾山の作品は慎ましさが感じられ、親しみやすさや温かみのある印象を持ちます。
乾山は野々村仁清の元で陶芸を学び、37歳の時に京都の鳴滝に開窯します。乾山には多くの名前がありますが、陶工としての名である「乾山」が一般的です。その名前の由来となったのがこの鳴滝の地です。乾は北西を意味し、都から北西に当たるこの地から陶工の乾山と命名されました。
50歳の頃には京都の二条丁子屋町に移住し、多くの作品を手がけました。この頃には乾山が器を作り、兄の光琳が絵付けをする兄弟合作の作品も多く生まれました。
70歳の頃には江戸に移り住み陶芸の指導を行うほかに、絵画の修練を重ね絵師としても才能を発揮し始めました。高齢ながら絵師としての才能を開花させるなど、穏やかな性格の乾山は芸術においては強い気持ちをもっていたことが伺えます。乾山の日本画は陶芸作品と同じで、慎ましさと親しみやすさの中に乾山の独創的な芸術性が溢れる作品が多く、国内外を問わず多くの好事家に愛されています。
現代フランス画壇を代表し、日本と繋がりが深い画家としても知られている人気作家といえば、カシニョールでしょう。
1935年にパリに生まれたカシニョールは父親が高級衣服店を経営していたこともあってか、幼少期よりモデルの女性たちと過ごしていたそうです。そういった経験からカシニョールの作風を代表する優雅で艶美な女性をモチーフとした作品が生まれていったのではないでしょうか。
13歳の時にはドーヴィルの海岸で砂の芸術コンクールに参加して一等賞になるといった功績を残し、新聞で報じられたりしました。そういった功績から10代の頃には画壇で活躍するようになり、24歳の時にはフランスで毎年秋に開催されている「サロン・ドートンヌ」の会員に推挙されるほどでした。
来日経験も豊富で、女優の黒柳徹子には前述の砂の芸術コンクールのエピソードも笑いながら話したりしていたとのことです。また、1990年代にはボリジョイ・バレイ団の衣装と舞台装置の制作も手掛けるなど新しい分野にも挑戦しているカシニョールの作品は、とても人気の高いものとなっております。
河童を好んで描いた画家で「河童の芋銭」と呼ばれた小川芋銭という画家をご存知の方も多いのではないかと思います。
江戸幕府最後の年となる慶応4年に江戸赤坂溜池の山口筑前守弘達の牛久潘邸に小川芋銭は生まれました。
牛久学舎(現在の牛久小学校)を卒業した小川芋銭は、生まれながらの虚弱体質から農業に向かないと判断され縁戚の商業見習いとして上京しました。
ですが、予想以上に厳しく体も弱かったので母の住む上杉家に引き取られました。
その後、櫻井中学校をなんと1年半という期間で卒業し本田錦吉郎に師事して洋画を学び、独学で特異な日本画の世界を切り拓いていきました。
1915年には川端龍子らと「珊瑚会」を結成し、この頃より各地を旅して小川芋銭の視点から多くの作品を生み出していきました。
1917年には展覧会に出品した水墨画が横山大観の目に留まったことがきっかけで日本画壇に入ることになりました。
小川芋銭の作品は農民の働く姿や田園風景を主題とした作品、水辺の生き物や不思議な生き物なども描きました。そこには小川芋銭の自然を愛する心やごく普通の人々や貧しい人々に寄り添う気持ちを表しているといえるでしょう。
斎藤 真一 1922年7月6日~1994年9月18日
瞽女(ごぜ)を題材にした作品を多く描いた事で有名な画家といえば斎藤真一でしょう。
瞽女とは盲人の女性旅芸者を指す言葉であり、各地を転々と旅しながら三味線で説話やその土地の歌を歌って生計を立てていた人たちでした。その歴史は室町時代に遡りますが、明治から昭和の初期には新潟県を中心に活動しておりましたが近代化の波にのまれて衰退していったそうです。
斎藤真一の描く瞽女を題材にした作品は社会になにか訴えかけているような、そんなイメージを持ってしまうようなインパクトの強い作品が多いですね。
始めてご覧になった方にはもしかすると怖いイメージを持たれる方もいらっしゃるかもしれませんが、それだけメッセージ性の強い作品が多いとも言えるでしょう。
瞽女が主体となった作品や越後の厳しい行道を瞽女が移動する様を描いた作品は没後30年近く経った今でも多くの人々に強いメッセージを残し続けているのは間違いないでしょう。