自然現象を用いた抽象作品を得意とした画家・元永定正。近年の具体美術の再評価とともに、現在その人気は国内外問わず非常に高いものとなっています。
定正は1922年、三重県に生まれました。学校卒業後は工具店や国鉄に勤務しましたが、その一方で漫画の投稿も行っていました。1944年地元に戻り油彩画を学びます。地元三重県の公募展などで入選を重ね、漫画の連載も行うようになりました。
1952年、神戸に転居し抽象画家・吉原治良らが主宰する芦屋市展に出品。第8回展に出品した抽象画は吉原に絶賛されました。同年に吉原の設立した具体美術協会に参加し、以後退会までメインメンバーとして活躍しました。
1960年代は海外での活動も増え、70年代には絵本制作に取り組み始めました。80年代90年代と精力的に制作に打ち込みましたが、2011年に亡くなりました。翌年、ニューヨークのグッゲンハイム美術館で展示された、定正監修の作品が遺作となっています。
日本画技法のたらし込みに着想を得て作られた、キャンバスに絵具を流した絵画や、水を用いた立体作品など斬新で大胆な手法が現代美術家として話題を呼ぶ一方、後年は絵本作家としても活躍し、遊び心のある作品を残しています。
斎藤清は1907年生まれ、福島県河沼郡坂下町出身の版画家です。
生まれは会津ですが、4歳の時に北海道の夕張に移住しています。幼いころからイラストを描くのが好きで、24歳で上京してからも広告業をしつつ、独学で油絵を描いていました。
29歳の時、安井曽太郎の木版画『正月娘姿』に感銘を受け、独学で木版画制作を行うようになりました。そうしてできた初めての木版画を同年の日本版画協会展に出品すると、見事入選を果たします。以後、木版画制作へ傾倒するようになりました。
日本の伝統表現に西洋の近代造形を取り入れた木版画技法は、海外でも評価されることとなります。モチーフを世界各地に広げ、独特の構図で表現された木版画を制作する中で、世界中に多くのファンを作ることとなりました。
海外での高い評価を起因として、日本国内でも斉藤清の評価が高まりました。現在でもその唯一無二な作風は、多くの人を虜にしています。
緻密に写生された色鮮やかな動植物。中国、清代の画家・沈 南蘋によってもたらされた新たな画風は、当時硬直していた日本絵画界に新しい風をもたらします。
南蘋は絹織物商の子として生まれますが、絵に興味を持ち画家・胡 湄に入門。独り立ちした後は清朝の宮廷画家として仕えました。
1731年、徳川幕府8代将軍の吉宗に招かれて来日し、約2年ほど長崎に滞在します。通訳を務めた熊代熊斐が日本人唯一の弟子となり、以後熊斐の弟子らによって日本における南蘋派が発展しました。
その後の南蘋の行方について詳細は分かりませんが、1760年頃までは存命であったと考えられています。また、徳川吉宗は南蘋の彩色画を好み、帰国後も清から取り寄せていたようです。
南蘋の画風は、長らく狩野派中心で変化のなかった日本の画家にも大きな影響を与えました。丸山応挙・伊藤若冲・渡辺崋山など、後に有名となる画家もこの影響を受けています。
【南蘋派】
熊代熊斐とその弟子たちによって作られた画派で、南蘋の技法を受け継いだ写実的で色鮮やかな花鳥画が特徴となっています。
代表的な画家として森蘭斎・鶴亭・宋紫石・建部綾足・伊勢長島藩主 増山雪斎などがあげられます。
一時はかなりの流行をみせましたが、円山応挙の円山派に押されやがて衰退しました。
繊細な筆使いで柔らかく描かれる女性像。洋画の中に日本的な優美さを取り入れた女性を描いたのが、洋画家・岡田三郎助です。
1869年、佐賀に生まれ、11歳で岡田家の養子になった後、洋画家の道を歩むこととなります。
1894年、明治を代表する洋画家・黒田清輝と出会い、吉田も黒田の白馬会の創設に携わりました。1897年、文部省の留学生としてフランスへ留学、黒田の師でもあった外光派の洋画家・ラファエル コランに師事します。これは後の岡田の作風に大きな影響を与えました。
帰国後は東京美術学校で教鞭を取りつつ制作を行い、1907年には東京勧業博覧会にて一等を受賞しました。
1934年には長年の功績と技能が評価され、帝室技芸員に任命、さらに37年には第一回の文化勲章も受賞するなど、大正・昭和の洋画壇の中心的な人物であったといえます。
ポーラ美術館所蔵の『あやめの衣』に代表される岡田の描く繊細かつ優美な女性像は、洋画の中に日本的な美を落とし込む岡田ならではの作品世界であり、その確かな技術と芸術性は現在も高く評価されています。
川上澄生(かわかみすみお)は、神奈川県出身の版画家です。代表作「初夏の風」はエメラルドグリーンの色彩が美しい作品で、美術界の巨匠「棟方志功」が版画家になる事を決意したきっかけの作品として知られています。
川上澄生が初めて版画を制作したのは17歳頃、木下杢太郎の作品を真似て制作したのがはじまりとなります。本格的に版画制作をするようになったのは1921年、栃木県宇都宮中学校の教師として勤務するようになってからです。太平洋戦争が始まってからは、妻の実家である北海道へと移り住みます。北海道に住んでいた時期の作品は、アイヌ風俗や山などの風景をモチーフにした作品を制作しました。戦後には主に南蛮や文明開化をテーマにした作品を制作し、南蛮入津と呼ばれるモチーフを多く制作しました。1967年に勲四等瑞宝章を受章。70歳を超えてからも版画制作を続けていましたが、77歳の時心筋梗塞により亡くなりました。
日本各地を巡り、旅情あふれる四季折々の風景版画作品を数多く発表した版画家・川瀬巴水。吉田博や伊東深水と並び、新版画家の中心人物となっています。
巴水は1883年、東京・芝に生まれます。若き頃から絵を学び、25歳で家業を親族に任せ画家の道へと進みました。当初は岡田三郎助の元で洋画を学び、その後日本画家・鏑木清方に入門。修行ののち、清方から「巴水」の号を与えられます。
1918年、同じく清方の弟子であった伊東深水の版画に興味をもち、版画の世界へと進みました。新版画の出版に意欲的だった渡辺版画店の後援をうけ、初の版画作品を出版。以後、日本を旅しながら作品を出版。生涯で600点以上の木版画を制作しました。
詩情豊かで柔らかな印象を受ける巴水の作品は、日本のみならず海外でも人気となり、欧米では北斎や広重に並ぶとまで称されています。