藤城 清治は、日本を代表する影絵作家です。
影絵とは、動物や人物などに光を当てて、その影を投影したものの名称です。
影絵は日本だけでなく、あらゆる国で親しまれており、影絵芝居は世界的にもとても有名です。
元々絵を描くことが好きだった藤城清治は、大学在学中に影絵、人形劇と出合い、現在の『劇団 木馬座』を立ち上げました。
劇団木馬座は、当初『人形劇場ジュヌ・パントル』という名称でしたが、1952年に子供たちが親しみを持てるように『劇団 木馬座』と改名しております。
『劇団 木馬座』では、影絵、人形劇を使い、多くの名作を世に残しました。
1966年から日本テレビ系で放送されていた『木馬座アワー』では、名キャラクターであるケロヨンというカエルのキャラクターが誕生したことでも有名です。
そんな影絵作家である藤城清治の手掛ける作品は、日本のみならず、海外でも高い人気を誇り、現在でも美術品市場で高い評価を持っております。
栃木県那須郡には『藤城清治美術館』もあり、約150点以上の作品が展示されているとのことで、個人的にも行ってみたい美術館の一つです。
昭和生まれの日本画家として一目置かれている存在、それは小泉智英です。
1944年に福島県に生まれた小泉智英は、多摩美術大学の日本画学科に入学後に横山操や加山又造に教えを乞うていた際にその生き様に感銘を受けたことをきっかけに自身も画家になることを志すようになります。
1980年の個展にて「佐渡」、「妙義」が山種美術館の買い上げとなったことをきっかけとなって小泉智英の評価されるようになりました。その後も、数々の作品が美術館の買い上げとなりますが小泉智英は学生時代に創画会の前身である新制作協会日本画部に出展した後はどの会派にも属さず地道に活動を続けている画家でもあります。
墨絵、大作風景、草花図、着彩と幅広い分野で力を発揮する小泉智英の作品は精巧で写実的である中にもどこか柔らかな雰囲気を感じられるものとなっており、特に山間の秋風景や竹林のモチーフは特に人気のある作品となっており、また、日本の四季風景を描いた作品も広い世代に人気を集めたものとなっております。
横山操は日本画の大きな転換期であった戦後画壇にて活躍した昭和を代表する日本画家の一人です。
1920年に新潟県に生まれた横山操は高校を卒業してから川端画学校にて学び、1940年には第12回青龍展にて「渡船場」にて初入選を果たしますがこの年に応召し、5年間中国各地をさらに5年間シベリア抑留を経て後に復員します。
その翌年から青龍展にて復帰をし、「塔」、「溶鉱炉」、「炎々桜島」などの作品を発表し、「炎々桜島」は青龍賞を受賞します。1966年に多摩美術大学の教授となった後には後進の育成にも尽力しておりましたが、1971年に脳卒中で倒れて右半身不随となりながらも左手で制作をし、1973年に亡くなるまで制作を続けました。
横山操の作品は、煤や石炭などを擦り付け、力強く蠢いているような漆黒の中から滲み出てくるような鮮やかな色彩が特徴的です。また、同じく昭和期に活躍をした加山又造とも仲の良い間柄でありお互いにライバルとして日本画壇をリードしていた人物でありました。
鈴木松年(本名、謙)は明治から大正時代にかけて活躍をした日本画家であり、上村松園の最初の師としても知られております。
鈴木百年の長男として京都に生まれた鈴木松年は、幼いころから軍談や喧嘩を好んでおり父である百年から画を学びますが絵に関しては指導をされるのを嫌っていたこともあってか父のおとなしい作風とは対照的に豪快な作風から「曽我蕭白の再来」と評され、今蕭白と呼ばれることもありました。
その作品は鈴木松年の芯の強い性格がそのまま現れており、いずれの作品も力強さが感じられる作品ばかりとなっております。また、作画へのこだわりも非常に強く、「刷毛のような細工のものは芸術家の使うものではない、画家は筆だけで仕上げるべきである。」と通常であれば刷毛が必要であるところでは、筆を3、4本使用して刷毛の様に使っていましたが力の入れ過ぎで途中で紙が破れてしまうこともあったようです。
一方、溌墨の使い方についても研究をしておりたらし込み技法を用いた作品も見受けられ、松年という画号もあってか松を題材にした作品も多い反面、色彩を用いた作品は多くはないですが、その作品は京都の家々にて大切に保存されていることが多いとのことです。
岩田専太郎は長い挿絵の歴史の中でも長期間にわたって人気を持ち続けた挿絵画家です。
1901年に東京都に生まれた岩田専太郎ですが、印刷業を営んでいた岩田家はもともと徳川家の御家人であり、武家の商法であったことが影響して家計は傾いていた為、両親は妹と弟を連れて京都に戻りましたが専太郎は小学校卒業までは東京の叔母の下で暮らし、卒業と同時に親元へ帰りました。
京都では、京都の友禅図案や日本画家、印刷図案家の順に弟子入りをしていき、その傍らで菊池契月に日本画を学んでいました。
10代の後半には、東京都に戻り伊藤深水に師事して講談雑誌を発行する博文館の挿絵画家に採用され挿絵画家として本格的にデビューします。
以後、新聞や雑誌を舞台にして時代小説、現代小説、探偵小説などのあらゆるジャンルの挿絵を常に新鮮な感覚で描き、どんな小説家にも相応しい作品を次々に提供しました。
岩田専太郎の作風は浮世絵の伝統を基盤にしつつも、敏感に時代の流行をとらえて画風を変化させていき、大胆な遠近法や装飾的な画面構成、映画のアングルやクローズアップ等を新しい印刷技術を先どりしながら「和製ビアズレー」や「専太郎調」といった独自の作風を作り上げました。
伝統的な東洋絵画の線描を研究し描かれる作品たち。近代の日本画において革新的な朦朧体が導入される中、古径は線描による日本画を貫きました。
小林古径は1883年、新潟県の高田に生まれます。1899年には上京し、日本画家・梶田半古に入門。伝統的な大和絵を学びました。
1922年、前田青邨と共に渡欧。しかし欧州で古径の心を掴んだのは、西洋的な絵画ではなく、大英博物館に収蔵されていた中国の名画でした。帰国後は大和絵をさらに単純化させた作品を描き、日本画壇の中で新古典主義を確立させています。1944年には帝室技芸員に就任。さらに1950年には文化勲章も受章していますが、晩年は体調が芳しくなく、1953年の院展への出品を最後に、以降は小さな作品を時折発表するのみとなりました。
代表作である『髪』は裸婦画として日本で初めて切手デザインに採用され、現在は重要文化財に指定されています。