尾形光琳は17世紀後半~18世紀にかけて京都や江戸で活躍した琳派の大成者として知られる絵師です。
雅で優雅な伝統を感じさせる大和絵的な描写の中に斬新で大胆な構図や画面展開を取り入れた明瞭でかつ装飾的にもかかわらず革新的な独自の様式を確立し、その独自の様式は当時では最大の画派であった狩野派とは一線を画す「光琳模様」と呼ばれ、日本の絵画や工芸など幅広いジャンルのデザインに大きな影響を与えました。
1658年に京都の呉服商の「雁金屋」の次男として生まれた尾形光琳は裕福な家庭で育ったこともあり、少年時代から能楽、茶道、書道に親しんでおりました。
30歳の時に父が亡くなった後は、長男が後を継ぎ尾形光琳は父が残した遺産を40代までの間に湯水のように使ってしまったとのことです。
長男が後を継いだ会社も破綻してしまっていた為、経済的に困窮したことから画業を本格的に始めたのではないかと言われております。画業を本格的に始めた後は公家や大名など多くの物に経済的に援助してもらいながら、京の裕福な町衆を顧客に数々の傑作を世に送り出しました。
本格的な活動は44歳から没する59歳までの約15年ほどであったと推測されていますが、その間に大画面の屏風のほか、香包、扇面、団扇などの小品も手掛け、手描きの小袖、蒔絵などの作品もあります。
また、尾形乾山の作った陶器に光琳が絵付けをするなど、その制作活動は多岐にわたっております。
鏑木清方は近代日本の美人画家として上村松園や彼の門下生である伊藤深水と並び称される美人画の名手として必ず名前の挙がる人物です。
東京に生まれた鏑木清方は13歳の時に水野年方に入門し、挿絵画家として創作活動をスタートさせました。
17歳のころには父が経営する東北新聞の挿絵を担当する等、10代にしてすでにプロの挿絵画家として活躍をしており、日本画では文展や帝展を主たる舞台として上村松園と並び称されておりましたが当の本人はそう呼ばれることを嫌っていました。
鏑木清方が理想としていたのは絵空事として社会からかけ離れることではなく、自分の事として多くの共感を得られるような芸術であったからです。
鏑木清方の理想の作品のスタートラインと言える「築地明石町」は1975年以来、姿を消してしまいます。
1927年に帝国美術院賞を受賞し、切手の図柄にも採用された「築地明石町」ですが、戦争の戦禍を免れたこの作品は1955年に清方のもとにもたらされ、清方の手によってしばしば展覧会に出品されるようになりました。
しかし、清方の死後の翌年から開催されたサントリー美術館での回想の清方シリーズの3回目を最後に姿を消してしまいました。
以来、捜索を続けていた東京国立近代美術館が、2019年に44年ぶりに個人所蔵者から同じく所在不明であった新富町、浜町河岸と共に5億4000万円で購入しました。同年、「鏑木清方 幻の《築地明石町》特別公開」と称して展示され、清方の没後50年にあたる2022年には「没後50年 鏑木清方展」(仮称)を同館及び京都国立美術館で開催予定となってますので、是非足を運んでみてはいかがでしょうか。
平山郁夫は、日本美術院理事長や一ツ橋総合財団などで理事等の重要なポストを歴任し、美術界だけでなく教育界にも多大に貢献した日本を代表する洋画家です。
1930年に広島県に生まれた平山郁夫は1952年に美術学校を卒業したと同時に東京芸術大学に入学し、前田青邨に師事し、東京芸術大学で助手をしていた時に原爆で被ばくした際の後遺症に苦しみながら描いた三蔵法師をテーマとした仏教伝来で院展に入選します。
平山郁夫が仏教の作品が多いのはこの仏教伝来が入選したことがきっかけとなっており、仏教の道を結んだシルクロード作品の一つに1968年に描かれた流砂の道は大きく空に浮かび上がる太陽を受けた仏教徒たちの旅を描いております。この作品を描くにあたり、平山郁夫はシルクロードへの取材を年150回以上、40年間行っており、そこまでしないと本物の作品を描くことが出来ないといった平山郁夫のこだわりを表しているといえるでしょう。
また、ユネスコ親善大使・世界遺産担当特別顧問・東京国立博物館特任館長や文化財赤十字活動を提唱する文化財保護、芸術研究助成財団の理事長を歴任するなどその活動は幅広く、社会への影響も大きい人物となっています。
森本草介は現代写実表現の第一人者であり、現代写実界を代表する洋画家です。
1937年に画家である森本仁平の長男として朝鮮で生まれた森本草介も、画家を志し、1958年に東京芸術大学絵画科油画を専攻し、在学中には安宅賞を受賞していくなど早い段階から才能が開花していきます。
東京芸術大学を卒業後は、助手を務めながら作品を作り続けていきましたが、国画会展に入選し、受賞したことがきっかけとなり助手を辞め本格的に作家活動を行っていきます。
森本はフランスを非常に愛しており、しばらくは静止画や風景画を中心に活動しておりましたが1979年ころより女性をモデルとした写実作品を中心に発表し、評価を得ていきました。
森本草介の作品は確かな技術による写実的表現で、クラシック音楽を聴きながら制作することが多い為、美しい旋律が流れる事を祈りながら制作することを意識し、人物画に関しては血が流れて生きているように、風景画は大自然を感じるように描かれております。
代表作は「横になるポーズ」「光の方へ」等があり、発表点数も少ない作家さんであるので高値で取引される方です。
志村立美は群馬県出身の日本画家、挿絵画家です。
群馬県の高崎市に生まれた志村立美は、父の入社をきっかけに横浜市へ移住し、神奈川工業高等学校を中退した後に山川秀峰に入門し、美人画を学んだ志村立美は山川秀峰の勧めで挿絵も手掛けるようになり「主婦の友」や「婦人会」などの雑誌口絵を手掛けたことで徐々に知名度を上げていきました。中でも志村立美の名前を一躍有名にした「丹下左膳」の左膳のイメージは後の映画にも受け継がれるほど、影響を与え、この成功を元に挿絵会の三羽烏(小林秀恒・岩田専太郎・志村立美)として一時代を築きました。
挿絵画家として確固たる地位を築いていた志村立美ですが、57歳になった時に挿絵から日本画や美人画への活動を本格的に行っていきます。
出版美術会会長も務め、1976年には画集「美人百態」にて日本作家クラブ賞を受賞しました。
志村立美の美人画は、独特な切れ長の目・白く透き通るような肌をもつ美人画は各地で高く評価され、美人画は志村立美といったことが定着していくようになります。晩年はインドネシアやバリの女性を描くことを続け、更なる女性の美を追求していきました。
1980年に没し、勲四等瑞宝章を受けました。
山川秀峰は美人画を得意としている日本画家であり、寺島紫明や伊藤深水とともに鏑木清方に学び、清方門下三羽烏の一人として知られております。
山川秀峰は京都府に生まれ、3歳の時に東京に移り、模様師であった父・玄次郎に連れられて池上秀畝のもとで花鳥画を、後に鏑木清方に入門し美人画を学び、絵画の技術を向上させていきました。
早い時期から才能を開花させていった秀峰は大正8(1919)年の第1回帝展にて振袖物語が初入選し、大正17(1928)年の第9回帝展にて「安倍野」を出展、さらに第11回帝展において「大谷武子姫」を出展し、両作品共に特選を受賞したことで、寺島紫明、伊藤深水とともに清方門下三羽烏の一人として認められるようになりました。その後も代表作となる素踊や序の舞などの新感覚の作品を出品し、昭和14(1939)年には伊藤深水とともに青衿会を結成、東京画壇での美人画の発展に功績を残し、より活躍の場を広げていきました。
類い稀な才能を持っていた秀峰でありましたが、47歳という若さでこの世を去ってしましましたが、きいちのぬりえで有名な蔦屋喜一は彼に憧れて画家になったと言われるほど、存在感のあった作家であり、その功績は多大なものであったのではないでしょうか。