孤独や不安といった人間の内面を画面に描き出す画家・鴨居玲。作風の模索を繰り返しながらようやくたどり着いたその画風は、鴨居自身の苦悩や不安が投影されたものでした。
鴨居は1928年、金沢に生まれたとされています。はっきりした生年月日は不明で、出生届が出されていないことから、鴨居自身も知らなかったようです。高等学校卒業後は設立されたばかりの旧金沢美術工芸専門学校に入学、洋画家・宮本三郎の指導を受けました。その後は田中千代服装学院の講師を務めつつ、二紀会の会員として作品を制作します。この時期はまだ画風も安定せず、流行に合わせた抽象画などを描いていたようです。
鴨居の転機となったのは、制作に行き詰って訪れた異国の地でした。自身の創作の基礎となっているのが、自分の負の部分と気づいたことで、鴨居の描く薄暗く、虚無感のある作品が確立されました。
1969年の昭和会展大賞や安井賞の受賞などで、一躍有名になると、制作の場をスペインに移しました。74年に日本へ戻り、母校の金沢美術工芸大学で講師などを務めていますが、1985年、神戸市の自宅で亡くなりました。当時創作への行き詰まりからか、自殺未遂を繰り返しており、死因も自殺ではないかとみられています。
昭和の日本洋画界をけん引した画家、小磯良平。現地で学んだヨーロッパの伝統的な絵画技法に、自身の描写力や色彩感覚を調和させた、モダンで気品のある画風が特徴となっています。
小磯は1903年、神戸の旧家に生まれました。外国人居留地のある神戸で、幼い頃から西洋に触れる機会が多かった小磯は、旧制中学校入学後、のちにモダニスト詩人となる竹中郁と出会います。彼の影響もあり、さらに西洋へ関心を持つようになり、1921年に目にした洋画展で、自身も洋画家になることを志します。
1922年、東京美術学校西洋画科に入学し、猪熊弦一郎や荻須高徳などと共に洋画を学びました。1926年、在学中にも関わらず帝展へ出品した『T嬢の像』が驚くべきことに特選を獲得し、一躍その名を画壇に知られる存在となりました。卒業制作では竹中をモデルにした作品を出品し、首席卒業しています。
1928年、フランスへ渡り、竹中とともにヨーロッパ各地を巡り、様々な芸術に触れ、その感覚を磨きました。帰国後は新制作協会の立ち上げなどに参加しますが、戦時中は従軍画家として戦争画を描きました。
戦後は制作の一方で後進の育成にも努め、母校である東京藝術大学で教授として教壇に立っています。長年の功績が認められ、1983年には文化勲章を受章しました。
現代日本アートを代表する人物となっている奈良美智。その名は日本のみならず海外でも広く知られています。
奈良は1959年、青森県弘前市に生まれました。地元の高校を卒業後は武蔵野美術大学を経て、愛知県立芸術大学にて大学院まで修了しました。
1988年ドイツに渡り、国立デュッセルドルフ芸術アカデミーで93年まで学びます。その後はケルンにアトリエをおき、制作を行いました。95年には名古屋市芸術奨励賞を受賞、98年にはカリフォルニア大学ロサンゼルス校にて、村上隆とともに客員教授を務めています。
2000年、日本に帰国すると、翌年には国内5か所をまわる大規模個展を開催。2010年には、アメリカ文化に貢献した外国人に与えられるニューヨーク国際センター賞を受賞。さらに2013年には芸術選奨文部科学大臣賞を受賞しています。
奈良の描く特徴的な少女の顔は、海外でも評判が高く、2019年には『ナイフ・ビハインド・バック』が香港のオークションにて約27億円で落札されています。
また絵画作品の他にコラボ商品のデザインなども行っており、こちらもファンの間で人気となっています。2012年には日本テレビのチャリティー番組「24時間テレビ」でコラボTシャツを作成しました。
香月泰男は山口県出身の洋画家です。
故郷・山口を愛し、「ここが<私の>地球だ」と語った彼は、自身の悲惨な体験を元に、人間愛と平和をテーマとした作品を描き続けました。
1911年、山口県三隈村(現・長門市)に生まれ、地元の旧制中学を卒業すると上京し、東京美術学校の西洋画科に入学します。藤島武二のもとで洋画を学び、在学中には国画会展で初入選を飾りました。
卒業後は北海道の学校に赴任しますが、間もなく転任。故郷山口の女学校にて美術教師を務めました。1939年の第三回文部省美術展覧会は特選を獲得するなど、その技術は確かなものでした。
しかし時局は緊迫しており、間もなく日本も第二次世界大戦へと進むことになります。まだ20代という若さだった香月は当然の如く招集を受け、中国大陸へ送られました。1945年終戦を迎えますが、満州にいた多くの日本兵と同じく、香月もシベリア抑留となります。北の大地で過酷な2年を過ごした後、1947年にようやく日本へと戻りました。
間もなく教師に復職すると、制作活動にも復帰します。1960年には教師を引退し、制作活動に専念することとなりました。
1969年、かねてより制作していた自身の体験をもとにした連作、「シベリア・シリーズ」が、第一回日本芸術大賞を受賞します。この作品群は香月の死後、遺族により山口県に寄贈され、山口県立美術館には常設展「香月泰男記念室」が設置されました。また、1993年にはアトリエにも近い長門市三隈に「香月泰男美術館」が開館しています。
「最もフランス的な日本人」。当時のパリ市長で、のちに大統領となるジャック・シラクは、彼のことをこのように評しました。
荻須高徳はその生涯の大部分を、フランスでの制作活動に捧げ、今もフランスの地で眠る洋画家です。
1901年愛知県の稲沢で生まれた荻須は、1921年に上京。川端画学校で藤島武二に洋画を学びました。翌年には東京美術学校の西洋画科に入学します。当時の同期には洋画家・小磯良平などがいました。美術学校卒業後、フランスへ渡ります。当時フランスに滞在していた画家・佐伯祐三と知り合い、ともに写生旅行へ出たこともありました。
当時の荻須の絵はモーリス・ユトリロやそれに影響された佐伯と同じく、パリの街頭の風景などを荒々しく描いたものでした。
1928年、サロン・ドートンヌで入選を飾ると、1934年にはスイスのジュネーブで初の個展開催となります。また画風も次第に変容し、荒々しさから静寂へと舵を切りました。しかし1940年、第二次世界大戦の戦局悪化により、帰国を余儀なくされます。帰国中は小磯良平などによる新制作協会に身を寄せ、芸術の自由を求めました。
終戦後の1948年、荻須は戦後初めての日本人画家として再びフランスへ渡ります。その後はパリを拠点にフランスなどヨーロッパの風景を描きました。1982年、日本で文化功労者に選出されたため帰国。これが日本を訪れた最後となり、1986年に亡くなりました。同時に文化勲章も受章しています。
その作品のほとんどはフランスの街角が題材となっており、雲に覆われた典型的なパリの空模様とそこに沈む町、その中で色を放つ看板や建物がバランスよく描かれています。肉筆だけでなく、リトグラフ作品も多く、今なお日本、そしてフランスでも高く評価されています。
絵の中からこちらを見つめる一匹の青い犬。ジョージ・ロドリーゲの「ブルードッグ」を持つ者には成功が訪れる。そんな噂からついた通称は「幸運のブルードッグ」。いまや世界中にファンを持つその絵を描いたのは、亡き愛犬に思いを馳せる一人のアメリカ人画家でした。
ジョージ・ロドリーゲは1944年、アメリカ・ルイジアナ州のケイジャンカントリーと呼ばれる地域に生まれました。幼少期に小児麻痺を患いほぼ寝たきりとなった彼は、母から粘土と絵具を与えられたことをきっかけに、芸術家を目指すようになります。ルイジアナ大学などでアートを学んだ後は広告代理店で働いたこともありますが、間もなくアーティストとしての活動に専念します。故郷の伝統文化や神話を題材とした彼の作品は、高い評価をうけ数々の賞を受けました。
しかし1985年頃、長年ともに過ごした愛犬・ティファニーが死んでしまいます。もう一度会いたいと思った彼が夢にみた、月明かりに照らされ青く浮かびあがるティファニーの姿。4年後、彼は「ブルードッグ」シリーズの制作を開始します。様々な背景で描かれる「ブルードッグ」それは彼と愛犬の旅の物語でした。
この作品もたちまち人気となり、ときにはアメリカ大統領から国賓へのプレゼントにも選ばれました。その人気は日本にも伝わり、1995年には南青山に「ザ・ブルードッグ・ギャラリー」がオープンしています。