中島潔は旧満州国に生まれた有名な日本画家です。
満州国に生まれましたが、1歳の時に両親の故郷である佐賀県で育ち、高校を卒業後に上京し、印刷会社などで働きながら独学で絵の勉強を続け広告会社に就職、イラストレーターとして数々の賞を受賞します。
1971年にフランスのパリで絵の勉強をした後の1976年にはフリーのイラストレーターとして独立を果たします。1986年にはNHK「みんなのうた」のカラスの寂しげななき声を聞いて、親に思いを馳せる気持ちを歌にした「かんからす」の挿絵を担当したことが、中島潔の名を全国的に注目されるきっかけとなりました。
その後も数々のアニメーションを手掛ける傍らで童画や女性画を精力的に発表します。見る人の心を優しく包み込むような童画と独特ながら繊細な面を持つ筆使いで描く女性画や古典画は国内のみならず、北京やパリなどの海外での展覧会でも記録的な入場者で反響を呼びました。
1998年には、「源氏物語五十四帖」を完成させ、画業30年経ったこと記念して日本橋三越他で巡回展を開催し、話題を呼びます。
また、さだまさしが中島潔の絵を最初に購入した「雨宿り」という題の絵はさだまさしの楽曲である「雨やどり」の参考になったものであると言われ、その縁で中島潔の推薦をした際に「風の画家」というキャッチフレーズを考えだしたことで中島潔を表す言葉になりました。
大山 忠作は日本画家です。
福島県の染物業を営む大山豊春・きよの長男として生まれた大山忠作は家業が紺屋で父も趣味で日本画を描いていたことが影響したのか自然と画家を志すようになります。
1940年に東京美術学校(現.東京芸術大学)に入学し、日本画を学びますが、第2次世界大戦が悪化したことが影響し、繰り上げ卒業をして戦地に向かうことになります。終戦後に東京都美術館で開催中であった第1回日展を見て感動し、制作意欲を掻き立てられ、第2回日展で「O先生」が初出品で入選します。翌年には山口蓬春に師事し、描写技術の高さは定評があり、描きたい物を描くという姿勢で、人物から宗教、花鳥、風景画まで幅広い作品を発表し続けます。
代表的な業績としては、法隆寺金堂壁画再現模写への参加、日本芸術院賞受賞作「五百羅漢」、成田山新勝寺光輪閣襖絵「日月春秋」28面及び「杉」「松」「竹」22面、同じく聖徳太子堂壁画6面「白鷺」「蓮」「桜」「牡丹」「菊」「楓」の制作などが挙げられ、古典研究にも精通しておりました。
また、美術品に興味のある方は、一度見たことあると思われる鯉の絵は、大山忠作の代表的な作品となっており、美術市場では人気の高い作品となっております。
小野竹喬は岡山県に生まれた、風景画を得意とした日本画家です。
日本の自然の美しさを技法だけはなく自然の真実を追求しながら東洋の南画や、同時代の画家たちの作品にも学ぶことで写実的な古典領域から、次第に画風を変化させていきました。
竹橋を名乗っていた時期には京都の竹内栖鳳に師事し、西洋近代絵画の写実表現をとりいれた栖鳳に学びながら自らも西洋絵画の真髄をふんだんに取り入れていく等西洋絵画への関心が強く表れていたと感じられます。
1918年に約1年間渡欧している中で東洋絵画における線の表現を再認識し、渡欧後は竹喬を名乗るようになります。1939年頃から日本画の素材を素直に活かす為に線も色も古い大和絵の表現を学ぼうとし、線描と淡彩による南画風の表現へと変化していくことになりました。この変化が小野竹喬の作品の方向性を決定づけることになります。
晩年には松尾芭蕉の「おくの細道」をもとにその句意を絵画化にする作品を手掛けていき、その10点からなる「奥の細道句抄絵」は小野竹喬の晩年の代表作です。また、水墨画の精神性を模索し続け、生涯にわたって自身の可能性を追求し続けた人物です。
池田遙邨は文化功労者として表彰を受けた日本画家です。
岡山県に生まれた池田遙邨は、幼少期より画才があり父親の転勤に伴い大阪へ転居した後に洋画家の松原三吾郎の天災画塾に入門し、洋画を学びました。
1914年に第8回の文展にてみなとの曇り雲が入選、当時は10代の池田遙邨が入選したことで話題になりましたが、1912年に初めて福山市で個展を開いた際に小野竹喬に出会ったことで日本画へ興味を持つようになりました。
みなとの曇り雲が入選した後に小野竹喬を頼って京都に出て竹内栖鳳の画塾竹杖会に入ることで日本画に転向し、京都市立絵画専門学校別科に入学した頃から暗い主題を好むようになりますが、同校を卒業後は一変して軽やかでのびのびとした画風を好むようになります。
烏城会を結成後は、池田遙邨が旅好きであったことから徒歩による東海道写旅行の決行をはじめとして、北海道、南海道を巡り風景画をよく描きました。
戦後は文学やニュースに触発されながらもどこか現実離れした幻想性豊かな画境にいたり、独自の画境による風景画を残した作家であるといえます。
宮本三郎は戦争記録画に秀作が多い、昭和を代表する洋画家です。
現在の石川県に生まれた宮本三郎は1920年に状況して川端画学校に入学し、富永勝重、藤島武二、個人的には安井曾太郎に指導を受け1927年には二科展に毎回出品を重ね、1936年には二科会の会員となりました。
太平洋戦争中は陸軍報道班員として藤田嗣治、小磯良平らとともにマレー半島、タイ、シンガポールなどに渡り、「山下、パーシバル両司令官会見図」をはじめ、数々の戦争記録画を制作し、1943年に「山下、パーシバル両司令官会見図」は第2回帝国芸術院賞を受賞しました。
戦後は熊谷守一、田村孝之助、正宗得三郎等と共に二紀会を設立し、晩年に豪華絢爛な世界を花と裸婦を主題に構築、獅子文六の小説「大番」の挿絵や、高峰秀子や雪村いづみなど女優や歌手を描いた作品でも高く評価されています。
宮本三郎はマルチな才能をもった天才画家と言われており、その作風の多さやデッサン力はデッサンの神と呼ばれた安井曽太郎でさえ一目置いていたとのことです。また、雑誌の挿絵や新聞小説の挿絵などマルチな活動を繰り広げていたことでも有名で、日本の美術界にとって、重要な役割を果たした宮本三郎の功績は多大なものではなかったのでしょうか。
尾形光琳は17世紀後半~18世紀にかけて京都や江戸で活躍した琳派の大成者として知られる絵師です。
雅で優雅な伝統を感じさせる大和絵的な描写の中に斬新で大胆な構図や画面展開を取り入れた明瞭でかつ装飾的にもかかわらず革新的な独自の様式を確立し、その独自の様式は当時では最大の画派であった狩野派とは一線を画す「光琳模様」と呼ばれ、日本の絵画や工芸など幅広いジャンルのデザインに大きな影響を与えました。
1658年に京都の呉服商の「雁金屋」の次男として生まれた尾形光琳は裕福な家庭で育ったこともあり、少年時代から能楽、茶道、書道に親しんでおりました。
30歳の時に父が亡くなった後は、長男が後を継ぎ尾形光琳は父が残した遺産を40代までの間に湯水のように使ってしまったとのことです。
長男が後を継いだ会社も破綻してしまっていた為、経済的に困窮したことから画業を本格的に始めたのではないかと言われております。画業を本格的に始めた後は公家や大名など多くの物に経済的に援助してもらいながら、京の裕福な町衆を顧客に数々の傑作を世に送り出しました。
本格的な活動は44歳から没する59歳までの約15年ほどであったと推測されていますが、その間に大画面の屏風のほか、香包、扇面、団扇などの小品も手掛け、手描きの小袖、蒔絵などの作品もあります。
また、尾形乾山の作った陶器に光琳が絵付けをするなど、その制作活動は多岐にわたっております。