畠中光享はArtist Group―風メンバーである日本画家です。
1947年に奈良市に生まれた畠中光享は大谷大学文学部史学科、京都市立芸術大学専攻科修了した後、1971年にパンリアル展(パンリアル協会)に出品しました。
1973年には山種美術館賞展(75年、77 年、89年)に出品したことを始め多くの絵画展に出品をし、1977年にはシェル美術大賞を受賞。
1978年には第1回東京セントラル美術館日本画大賞展にて大賞を受賞。以後数々の賞を受賞します。1
984~1993年には横の会、2012年からはArtist Group―風の結成に参画しており、2004年には京都府文化賞功労賞を、2014年には京都美術文化賞を受賞しております。
畠中光享の作風は描線と平面性、形の追求を核として、顔料の持つ美しさを引き出し、写生を基礎にした象徴性のある造形となっています。
また、インドの美術、特に絵画・染織・彫刻などの研究者でもあり、歴史的な作品の研究を通じてテーマを見出し、その本質や生き方を考えることを絵の制作時の信条としております。
日本を離れフランスで活躍した画家、藤田嗣治。晩年、フランスに帰化しレオナール・フジタとなった彼の人生は波乱万丈に満ちたものでした。
藤田は1886年、東京牛込の医者の家に生まれます。子供の頃からよく絵を描き、旧制中学卒業後は画家になることを志します。1905年に東京美術学校の西洋画科に入学しますが、当時流行していた写実主義や印象派になじめず成績は伸び悩みました。卒業後は国内の美術展に出品していますが、当時はほとんど評価されませんでした。
1913年、藤田はフランス行きを決意します。妻を残し単身パリへ渡り、新人画家が多く住むモンパルナスに自身もアトリエを構えました。この頃のパリでは印象派に代わりキュビズムやシュールレアリズムといった新しい絵が現れており、藤田の作風に大きな影響を与えています。しかし、間もなく第一次世界大戦が勃発。絵は売れず生活は困窮しました。戦争も終わりを迎える頃ようやく絵が売れ始め、徐々に人気も高まっていきます。同時に藤田の面相筆による線描を多用する画風も確立されました。間もなく藤田はフランス全土に知られるような有名人となり、1925年にはフランス政府から勲章を授与されています。
1931年、個展開催に伴い南アメリカを訪問。ここでも藤田の人気は高く、多くの観客を集めました。1933年には日本に戻り5度目の結婚。さらに従軍画家として日中戦争の取材を行っています。1939年に一度パリに戻るも、間もなく第二次世界大戦が勃発。再度の帰国を余儀なくされ、日本で陸軍美術協会副会長に就任します。『アッツ島玉砕』などのリアリズムに描かれた作品を残しますが、戦後はGHQの調査対象として追われ、戦争協力者と批判されます。1949年、藤田は日本を捨て三度、パリへ向かいます。
1950年、11年ぶりのパリの街は大きく変わっていましたが、藤田はここに永住することを決意。1955年にフランス国籍を取得し、日本国籍を抹消しています。また最初の渡仏で出会ったパブロ・ピカソとも再会し、晩年まで交友を続けました。
1959年、カトリックの洗礼を受け、その名をレオナール・フジタとします。1968年、スイスで亡くなり、自身が設計したフランス・ランスの「フジタ礼拝堂」に埋葬されました。
独特な線描で描かれる裸婦や猫、藤田自身の姿。フランスで最も有名な日本人とまで呼ばれた藤田作品の人気は、今や世界中で非常に高く、多くのファンが存在します。生涯に描いた作品数も多く、代表作は世界各地の有名美術館に存在するなど、世界的な芸術家となっています。
森田りえ子は現在の日本画壇において、次代の日本画を託される画家として注目されております。
1955年の兵庫県に生まれ、幼いころから絵を描くこと、引いては美術全般を好んでおりました。
京都市立芸術大学に進学後は、岩絵の具に出会い、その美しさに感銘を受けます。煌びやかな材料で描いてみたいという思いから日本画を専攻するようになりました。
大学卒業後は、石本正主催の「フランス・スペインのロマネスク寺院と中世都市を巡るスケッチツアー」に参加します。30名いた参加者のほとんどはプロの絵描きの方々でありました。二ヵ月間ひたすら写生をする中で、石本正が「鬼のよう」に写生する姿を見て、自身も絵描きになることを決意しました。
その後は展覧会で受賞を重ね、また各地で個展を開催するなど活躍の場を広げております。
作風としては四季を彩る花々や、京都の舞妓をはじめとする伝統的な女性像を卓越した描写力で表現するのが特徴となります。特に女性は黒目と白目のバランスが意識された目力のある仕上がりになっており、見る人を魅了する作品を制作されております。
孤独や不安といった人間の内面を画面に描き出す画家・鴨居玲。作風の模索を繰り返しながらようやくたどり着いたその画風は、鴨居自身の苦悩や不安が投影されたものでした。
鴨居は1928年、金沢に生まれたとされています。はっきりした生年月日は不明で、出生届が出されていないことから、鴨居自身も知らなかったようです。高等学校卒業後は設立されたばかりの旧金沢美術工芸専門学校に入学、洋画家・宮本三郎の指導を受けました。その後は田中千代服装学院の講師を務めつつ、二紀会の会員として作品を制作します。この時期はまだ画風も安定せず、流行に合わせた抽象画などを描いていたようです。
鴨居の転機となったのは、制作に行き詰って訪れた異国の地でした。自身の創作の基礎となっているのが、自分の負の部分と気づいたことで、鴨居の描く薄暗く、虚無感のある作品が確立されました。
1969年の昭和会展大賞や安井賞の受賞などで、一躍有名になると、制作の場をスペインに移しました。74年に日本へ戻り、母校の金沢美術工芸大学で講師などを務めていますが、1985年、神戸市の自宅で亡くなりました。当時創作への行き詰まりからか、自殺未遂を繰り返しており、死因も自殺ではないかとみられています。
昭和の日本洋画界をけん引した画家、小磯良平。現地で学んだヨーロッパの伝統的な絵画技法に、自身の描写力や色彩感覚を調和させた、モダンで気品のある画風が特徴となっています。
小磯は1903年、神戸の旧家に生まれました。外国人居留地のある神戸で、幼い頃から西洋に触れる機会が多かった小磯は、旧制中学校入学後、のちにモダニスト詩人となる竹中郁と出会います。彼の影響もあり、さらに西洋へ関心を持つようになり、1921年に目にした洋画展で、自身も洋画家になることを志します。
1922年、東京美術学校西洋画科に入学し、猪熊弦一郎や荻須高徳などと共に洋画を学びました。1926年、在学中にも関わらず帝展へ出品した『T嬢の像』が驚くべきことに特選を獲得し、一躍その名を画壇に知られる存在となりました。卒業制作では竹中をモデルにした作品を出品し、首席卒業しています。
1928年、フランスへ渡り、竹中とともにヨーロッパ各地を巡り、様々な芸術に触れ、その感覚を磨きました。帰国後は新制作協会の立ち上げなどに参加しますが、戦時中は従軍画家として戦争画を描きました。
戦後は制作の一方で後進の育成にも努め、母校である東京藝術大学で教授として教壇に立っています。長年の功績が認められ、1983年には文化勲章を受章しました。
現代日本アートを代表する人物となっている奈良美智。その名は日本のみならず海外でも広く知られています。
奈良は1959年、青森県弘前市に生まれました。地元の高校を卒業後は武蔵野美術大学を経て、愛知県立芸術大学にて大学院まで修了しました。
1988年ドイツに渡り、国立デュッセルドルフ芸術アカデミーで93年まで学びます。その後はケルンにアトリエをおき、制作を行いました。95年には名古屋市芸術奨励賞を受賞、98年にはカリフォルニア大学ロサンゼルス校にて、村上隆とともに客員教授を務めています。
2000年、日本に帰国すると、翌年には国内5か所をまわる大規模個展を開催。2010年には、アメリカ文化に貢献した外国人に与えられるニューヨーク国際センター賞を受賞。さらに2013年には芸術選奨文部科学大臣賞を受賞しています。
奈良の描く特徴的な少女の顔は、海外でも評判が高く、2019年には『ナイフ・ビハインド・バック』が香港のオークションにて約27億円で落札されています。
また絵画作品の他にコラボ商品のデザインなども行っており、こちらもファンの間で人気となっています。2012年には日本テレビのチャリティー番組「24時間テレビ」でコラボTシャツを作成しました。