古塔 つみは、愛知県出身のイラストレーター・現代アーティストです。
SNSで活動をスタートしたこともあり、10代~20代前半の女性に人気の作家と言われています。
「女子しか描けません。すてきな人しか描けません。」
と語り、若い女性をモチーフとした作品のみを制作しています。
あえてモチーフをしばり、様々なタッチで描くことで「色々な女の子がいる」
という多様性に着目しています。
音楽アーティストやブランドとのコラボ実績や展覧会の開催歴があり、現在はNFTアートにも着手しています。
ポップな色彩表現や描かれる女性の目力が特徴的で、彼女らの瞳には強い意志や怒りのような感情が込められているようです。若年層からの支持も、そういった描写の姿勢から発生したのかもしれません。
また、現代アーティストとしては、あえて大量生産に用いられる手法でユニークな作品(一点物の作品)を制作するなど、一般的に大量生産・大量消費されがちな「美少女イラスト」という文脈に対し一石を投じております。
古塔つみの作品は、消費されるだけにとどまらない現代の美人像と言って差し支えないのではないでしょうか。
KAGAYAは、プラネタリウム映像クリエイター、星空写真家、CG作家など多岐にわたって活躍しているアーティストです。
豊富な知識を活かした神秘的な空間表現が特徴で、世界各地で撮影した膨大な写真をもとに映像作品を制作し、その代表作『銀河鉄道の夜』は国内外100館以上で上映され、観客動員数100万人を超える大ヒットを記録しました。
彼の作品は、幻想的なデジタルペインティングや写真集としても発表され、教科書や展示会にも採用されるなど、教育や芸術の分野でも高く評価されています。また、天文普及活動の功績により、小惑星11949番に「kagayayutaka」と命名されました。
SNSでも星空の魅力を広く発信しており、私たちと宇宙の深い繋がりを感じさせてくれます。
今尾景年は、京都出身の日本画家で、花鳥画を得意としました。
初め梅川東居に浮世絵を学び、その後、鈴木百年に入門しました。
青年期は百年の影響もあり、南画風の絵柄が見られましたが、四条派の流れを受けて写生に根ざした緻密な描写と装飾性を併せ持つ作風を確立していきます。
1885年に奈良博覧会に出品した「余物百種の図」が一等金牌を受賞し、知名度を獲得することとなりました。
壮年期に画家としての成熟を迎え、久保田米僊や鈴木松年らと並び称されました。
景年は博覧会にも積極的に出品し、1900年のパリ万国博覧会で銀牌、1904年のセントルイス万国博覧会で金牌を受賞しています。
後年には帝室技芸員に任命され、公的にも高く評価されました。景年の花鳥画は国内外の美術館に収蔵され、今なお高い人気を保っています。
浜田知明は、日本の版画家・彫刻家です。1917年に熊本県で生まれ、2018年に100歳でこの世を去るまで、多くの作品を残しました。若い頃、戦争の影響を大きく受け、20代の大半を軍隊で過ごした経験から、戦争の悲惨さや残酷さをユーモアを交えながら作品を通して訴えました。
浜田知明は16歳で東京美術学校(現在の東京芸術大学)油画科に飛び級で入学しました。しかし、戦時色の強い時代であったため、画家として本格的に活動を始めたのは太平洋戦争後になります。
1950年、32歳の時に駒井哲郎や関野準一郎らと交流しながら、銅版画の制作に本格的に取り組みました。自身の戦争経験を基にした『初年兵哀歌』シリーズを描き、このシリーズは日本国内のみならず海外でも大きな反響を呼びました。その後、浜田は海外での受賞を経て、国際的に活躍するようになります。
浜田知明の作品は、戦争に関わる人々の悲しみや社会の不条理、人間心理の暗闇といった深刻なテーマを、自身の風刺を交えつつ、エッチングならではの冷たい色調で表現しています。しかし、悲しみや無念さだけでなく、ユーモラスな要素も取り入れながら、そこに人間への深い愛情が込められている点も特徴です。
橋口 五葉は、明治末から大正期にかけて活躍した装幀家・版画家です。
1881年、鹿児島県にて薩摩藩藩医で漢方医を務めた士族・橋口兼満の三男として生まれました。
幼少期から絵に強い関心を示し、はじめは狩野派の絵を学びます。
1899年に画家を志して上京し、日本画家・橋本雅邦に師事。
その後、東京美術学校西洋画科に進学し、1905年に首席で卒業しました。
同年、兄の紹介で夏目漱石と知り合い、『吾輩ハ猫デアル』の装幀を依頼されます。
以降『行人』まで漱石の本の装幀を数多く手掛けました。
また、森鷗外・谷崎潤一郎・泉鏡花などの文学作品の装幀も担当しています。
1911年には「此美人」が三越呉服店の懸賞広告図案で第1等を受賞。
その後は新版画運動に参加するとともに、浮世絵の研究・複製・復刻にも取り組みました。
1920年からは大判の美人画や風景画を制作し始めますが、翌年に中耳炎から脳膜炎を併発し、41歳の若さで亡くなります。
西洋画と浮世絵を融合させた独自の作風は、日本美術に新しい風を吹き込みました。
短命ながらも、装幀・口絵・新版画の分野において大正文化を象徴する存在として今も高く評価されています。
代表作には『髪梳ける女』『黄薔薇』『孔雀と印度女』などがあります。