1933年大分県出身の工藤和男は、幼少期よりモリを片手に海へ出て魚を獲って遊んだり、絵を描いたりすることが好きでした。その影響で武蔵野美術大学を卒業後には日展や創元展などで様々な賞を受賞しました。
工藤氏が描く作品は、幼少期から見ている情景も反映されている為、よりリアルに活力ある漁師像や海の風景画が主な作品となります。
特徴は、荒々しさと活気ある画力が合わさり、自然に近い形で描いているところだと言えます。力強さも感じつつ、どこか懐かしさも感じることができる、思い出溢れるような作品を多く描いています。
塚本 馨三は、静岡県出身のイラストレーターです。
1969年、週刊誌『平凡パンチ』でイラストレーターとして活動を開始し、芳文社・集英社・旺文社・秋田書店などで幅広く仕事を手掛けました。
レコードジャケット、絵本、CMの背景、東京ディズニーランドのポスターなど多岐にわたる制作を行い、映画『幸福物語 ペンギンズメモリー』や『銀河鉄道の夜』の背景制作にも携わっています。
1997年からはヨーロッパ取材をもとに版画・絵画の制作を開始し、現在も精力的に活動を続けています。
また、1970年から芳文社発行の『週刊漫画TIMES』の表紙イラストを長年担当し、「同一雑誌の表紙イラスト制作者として世界一長いキャリア」として、2008年にギネス世界記録に認定されました。
塚本の作品は、穏やかで幻想的な世界観と、シンプルで美しい構図が特徴で、昭和・平成を超えた現在でも高く評価されています。
10代の頃からレンブラントへのあこがれを持ち続け、その影響を色濃く受けた圧倒的な描写力で61年の生涯を駆け抜けた牧野邦夫の作品は、その描画力が評価され近年では注目度を高めつつあります。
1925年に東京で生まれた牧野は、レンブラントなどの画家たちに惹かれていき、10代後半には本格的に画家を目指すことを決意します。東京美術学校油画科(東京芸術大学美術部の前身)で学び、終戦を迎えた後学校を卒業します。団体などには所属せず、自身の信じる絵画の世界を追求するために創作活動を続けました。写実性が顕著に表れる作風は、没後次第に高い評価を得ていくことになります。
賞を受賞したり、数々の個展を開いたりと活動的でしたが、1986年61歳という若さで亡くなりました。彼が残した多くの作品がその後の展示会などで大きな反響を呼び、今現在注目度が高い作家として名を挙げています。
ベルト・モリゾは印象派の女性画家として知られています。
モリゾは、1841年にフランスのブールジュにて生まれました。
20歳でバルビゾン派のジャン=バティスト・カミーユ・コローに師事し、戸外での制作をはじめました。
1864年、2枚の風景画がサロンに入選。
その4年後にエドゥアール・マネと出会います。
二人は師弟として、また親友として深い友情を築き、お互いを高め合う関係となりました。
モリゾはマネの絵のモデルも多く務めています。
その後は印象派の画家や美術批評家と交流を深め、独自の様式を確立していきました。
1874年にはマネの弟と結婚し、夫の支援を受けながら精力的に制作に取り組みます。
モリゾは、日常の中にある小さな幸せを映し出した穏やかな作風が特徴です。
純粋な印象派というイメージが強く、「印象派グループにおける本当の印象派の1人」として高く評価されました。
女性ならではの視点や、柔らかな色彩表現も魅力の一つとなっています。
代表作には『アフター・ランチ』『穀物畑』『夏の日』などがあります。
エドガー・ドガは、印象派の代表的な画家として知られています。
一般的には印象派の一員とされていますが、戸外制作を好まず古典的な技法を重んじるなど、他の画家とは一線を画す存在でした。
1834年、ドガはフランスで銀行員の家に生まれました。
国立美術学校に入学し、ドミニク・アングルの弟子であるルイ・ラモートに師事します。
のちにアングルから「線を引きなさい、たくさんの線を。記憶によってでも、ものを見ながらでもかまいません。」と助言を受け、デッサンを重要視するようになりました。
当初は模写や歴史画を制作していましたが、1860年代ごろからは都市の風俗をテーマに描くようになります。
屋内で人物を描くことを好み、晩年には視力の衰えからパステル画や彫刻などを手掛けました。
ドガは鋭い観察眼を持ち、写実的かつ大胆な構図で都市の生活を描きました。
光と影のコントラストや、物語性を感じさせる空間表現などが魅力的で、彼の作品は見る者を惹きつけます。
代表作には『オペラ座のオーケストラ』『アブサン』『バレエのレッスン』などがあります。
エドゥアール・マネは、印象派の先駆けとして知られる画家です。
「見たものをそのまま表現すること」が大切だと考え、新たな様式を確立しました。
明るい色彩と明確な輪郭、平面的な構成が特徴です。
マネは、1832年にパリの裕福な家庭に生まれました。
海軍兵学校の入学試験に2度落ち、父親の許可を得て画家を目指します。
1849年から6年間トマ・クチュールのアトリエで修業し、のちにアルベール・ド・バルロワと共有のアトリエを構えました。
1859年、サロンに『アブサンを飲む男』という作品を初めて提出。
それから2年後のサロンでは『スペインの歌手』をテオフィル・ゴーティエが絶賛したことで優秀賞を受賞しました。
しかし、同時に提出していた『オーギュスト・マネ夫妻の肖像』は「肉親という最も神聖な絆を踏みにじっている」として批評家から非難されています。
その後もサロンや画廊に作品を提出しますが、古典的な絵画が好まれる時代にはそぐわないスタイルであったため、全く評価されませんでした。
1860年代後半から、モネ、ルノワール、ピサロなどの若手画家と交流するようになり、彼らは「バティニョール派」と呼ばれました。
1870年、普仏戦争が起こり国民軍に入隊。
混乱が落ち着いた頃にパリへ戻り、活動を再開しました。
以降、セーヌ川に浮かべたボートをアトリエにして制作を行うなどし、51歳で梅毒の症状悪化により亡くなりました。
マネは、レアリスムやジャポニスムなどを取り入れながら独自の世界を表現しました。
彼自身はサロンでの成功を夢見ていましたが、ありのままを描く作風はサロンの理想とは正反対なものでした。
生涯高い評価は得られませんでしたが、次世代の画家につながる新たな道を切り開いたのは確かです。
今では印象派の基盤を作り上げた巨匠として評価され、多くの人を虜にしています。
代表作には『オランピア』『草上の昼食』『笛を吹く少年』などがあります。